04.新天地(2)
健介とめぐみがボストンで新しい生活を始めて半月が過ぎた。
二人の新居であるハイライズコンドミニアムは、日本語に訳せば高層
分譲マンション、十五階の部屋からはボストンのダウンタウンの名所が
ほとんど見渡せる。健介の勤務先の病院まで徒歩で通える距離にあり、
買い物や交通に便利な立地条件の良い場所にある。
「うーん、いい匂いだ。ひとついい?」
「ほんとに、こんな物でいいのかしら?」
「うまい! 上等、上等、これならみんなに受けるよ」
めぐみは、キッチンに立ちっぱなしで隣人のホームパーティーに持参する
一品を作っていた。
三沢夫婦とは、ここに越してきた日に偶々顔を合わせお互い自己紹介した。
以来、エレベーターやロビーで会うと挨拶を交わす程度の付き合いを
している。めぐみとの関係は、将来結婚する予定で二人とも横浜出身とだけ
言ってある。健介は他人との交際を極力避けている。今夜のこともあまり
気乗りはしないが無下に断るわけにもいかず、社交辞令として顔を出す
つもりでいた。
「メグ、大丈夫か!?」
「ええ、ちょっと、ふらっとしただけ…」
めぐみは冷蔵庫に寄りかかり辛うじて身体を支えている。
額に手をやると微熱があった。再生不良性貧血の治療は終えたものの完治
したわけではない。当分の間、定期的な血液検査を続け用心する必要がある。
数値が下がれば貧血や感染症に罹りやすくなる。
「すぐに横になった方がいい」
健介はめぐみの身体を抱きかかえるようにリビングのカウチに寝かせた。
「悪いけど、今夜は一人で行ってきて」
「ああ、せっかく作ったんだから、料理だけ届けてすぐに帰って来るよ」
「私は大丈夫だから、ゆっくり楽しんできてね」
「俺一人で楽しめるわけないだろう… おとなしくいい子にしてろよ、すぐ
戻って来るから」
めぐみの額に口づけし部屋を出て行った。
健介と暮らし始めてから、めぐみは記憶を取り戻せない焦燥感より、記憶が
戻る恐怖を感じるようになった。行方不明になった自分を誰も探そうともしない。
どう考えても、幸せな人生を送っていたとは思えない。
過去が蘇る時、それはもしかしたら悲惨な現実に引き戻される瞬間かもしれない。
健介は優しかった。はじめはその優しさが同情や憐れみからきているようで、
彼の気持ちを素直に受け入れることができなかった。だが今は、できれば
過去を失くしたまま、ずっと 'めぐみ’ として健介と生きていきたいと願う
ようになった。
"Hi Caroline, how's it going?"
"Alright. Where is Meg?"
"Well, she's not feeling good, so decided to stay home."
"Oh, really? That's too bad."
"Here is some dish she made for tonight."
"Thank you. Umm...smells so good. What's this called?"
"I don't know but it tastes pretty good."
"That's all that matters, huh!? Won't you come in, Ken?
I know you don't wanna leave Meg alone but can you stay for
a little while?"
"Sure."
"Honey, Ken is here!"
「こんばんわ、お邪魔します」
「ちょっと聞こえたけど、めぐみさん具合悪いんだって?」
「ええ、たいしたことはないんですが、たぶん引越しの疲れや何かが出たんだと
思います」
「そうか、残念だな… 紹介するよ、高校時代の友人の高村耕平、君と同じ
お医者さんだ」
「はじめまして、有賀健介と申します」
「高村です、よろしく」
さっきまでのキャロラインとの英語の会話とは一変して、健介の全くアクセントの
ない綺麗な日本語に耕平は驚いた。
「実はね、今聞いたばかりなんだけど、高村も来週からボスジェネラルに勤務する
そうなんだ。彼は外科だけどね」
「そうですか… スタッフは皆プロフェショナルで働きやすい職場ですよ。
と言っても、僕も移ってきたばかりでですが… もし、何か僕でできることが
あればいつでも知らせて下さい」
「ありがとう、そう言ってもらえると心強いです」
耕平は会ったばかりのこの青年に好感を持った。
先輩医師に対して控えめで礼儀をわきまえた態度は、日本の大学病院の若い医師
たちの中でも少数派になっている。部屋に残してきたフィアンセが心配なのか、
彼は挨拶を交わすと早々に引き揚げて行った。
「いい青年だなあ」
「ああ、今時の日本の若いのはひどいのが多いからな。うちに来てる留学生の
中にも、頭はいいんだが、常識がないって言うか、信じられないようなのが
いるからな」
耕平も大きく頷き、二人は思わず苦笑した。
「メグがつくってくれたもの、おいしそうよ、さめないうちにたべてみたら?」
キャロラインがテーブルの上に置いた皿の中を見た男二人は顔を見合わせた。
「おい、これ ‘おやき’ じゃないか?」
「そう、みたいだな…」
三沢は一つ手に取り口に入れた。
「中にチーズが入っていて今風のアレンジだけど、これ、確かにおやきだよ…
うん、なかなかいけるぞ」
「オ・ヤ・キ?」
「ああ、長野地方の家庭料理で、小麦粉を使った皮に野菜やなんかを炒めたものを
包んで焼いて食べるんだ。子供の頃、おふくろがおやつ代わりに良く作って
くれたよ。各家によって中身の具が違ってて、うちのは野沢菜やナスのみそ炒めが
多かった。懐かしいなあー」
三沢は久しぶりの郷土料理に郷愁を誘われたのか、青い目の妻に詳しく説明した。
「まあ、トールったら、すっかりノスタルジックになっちゃって。
コーヘイさんのおうちのは、どんなだったの?」
「うちは、椎茸やしめじなんかのきのこ類と細かく切った人参を炒めたもの
だった。子供の頃、人参がダメだったもんで、おふくろの苦肉の策らしい」
「じゃあ、チーズ以外はこれとまったく同じだ。ほら、」
三沢はおやきを半分に割って中身を見せた。
耕平は一口食べて、あっと声を出しそうになった。
ーー「おやきとチーズなんて完全にミスマッチだよ」
「まあ、そう言わないで試食してみて」
「……」
「どう?」
「うまい!」
「でしょう…」ーー
「どうした、高村?」
おやきを手に取ったまま、じっと感慨にふけっている耕平に三沢が怪訝そうに
尋ねた。
「めぐみさんっていう人、横浜出身なんだろ? なんで、おやきの作り方
知っているんだろう?…」
「そう言われてみればそうだが… 母親が長野の出身とか、料理の本でレシピを
みたとか、じゃないのか」
「何歳くらいの人?」
「キャロル、メグって何歳くらいだと思う?」
「そうねえ… 二十だい、ぜんはんかな? でも、にほんのじょせいは、わかく
みえるから、もうすこしうえかもね。とってもきれいなひとよ。いろがしろくて
まるでジャパニーズドールみたい」
そばかすの多い赤ら顔のキャロラインは羨ましそうに言った。
「そうだな、今の日本の若い娘みたいにケバケバしたところは全然ないな。
どちらかと言うと、清楚で古風な感じがする。けど、小顔ですらりと伸びた肢体は
今風の美人だけど…」
「まあ、トールったら、するどい、かんさつりょくね!」
キャロラインは夫の腕をきゅっとつねった。
耕平の心中は穏やかではなかった。
三沢夫婦の語る ‘めぐみ’ の人物像は亜希とぴったり符合する。そして、あの
‘おやき’ はまさしく彼女の作るおやきの味だった。だが、もし亜希だとすれば
なぜ、めぐみという偽名を使わなければならないのか、それとも、やはり、別人
なのか・・・
耕平はどうしても ‘めぐみ’ に会ってみたくなった。