24.春の嵐(2)
夕暮れのケープ・コッドを後にした二人は、一時間ほどで崇之の滞在する市内の
ホテルに到着した。最上階のスイートから見下ろすボストンの街はすっかり夜の
帳に包まれている。
亜希の心は激しく揺らぎはじめていた。
健介を裏切り崇之に抱かれること、それは本当に自分が望んでいることなの
だろうか・・・
闇の向こうに翳りのある端正な横顔が浮かぶ。崇之とは対照的に感情を内に秘め
苦悩する健介のひたむきな愛。その愛を踏み躙るような行為をこれから自分は
しようとしている。
(愛する人を苦しめ傷つけてまで手にした幸福なんて、決して本物じゃない)
闇の向こうから耕平の声がする。
一年前、崇之への想いをパンドラの箱の中に封印し彼のもとを去ったはずなのに、
運命は非情にも再びその箱を開けさせようとしている・・・
「とにかく、乾杯しよう!」
その声にはっと我に返った。
振り向くとワイングラスを手にした崇之の優しい笑顔をあった。
グラスの中身を口に含むと赤ワインの芳醇な香味が広がる。
それは、亜希の好きなイタリア銘柄のワインだった。
迷いを吹っ切るように一気に飲み干した。
「ちゃんと覚えててくれたんだ…」
「忘れるわけないだろ…」
崇之は亜希の躰を引き寄せ唇を奪った。
互いを求め合うように二つの唇が激しく重なり合う。亜希の白い肌は上気し、
みるみる桜色に染まっていく・・・
火照った躰はしっとりと潤い、躊躇うことなくかつての恋人を求めている。
突然、ホテルの電話が鳴り響いた。
無視したまま崇之は動きを止めようとはしない。
数回の呼び出し音の後、発信音に変わりメッセージが流れた。
ーー『崇之さん、今すぐ帰国してちょうだい! 麗子さんが、睡眠薬を
多量に飲んで… 幸い命は取留めたけれど、うわ言のようにあなたの
名前を呼んでいるの。お願いだから、すぐに帰って来て!』ーー
崇之の母、雅子の悲痛な声だった。
二人の動きがぴたりと止まった。が、重なり合った身体は微動だにしない。
「今すぐ、帰ってあげて!」
夢から覚めたように亜希は叫んだ。
崇之は胸に顔を埋めたまま、幼い子供がするように頭を左右に大きく振った。
「今戻らなかったら、きっと後悔する……」
崇之にだけでなく自分自身にも言い聞かせるように呟いた。
音大時代、崇之の才能に魅せられ憧れてはいたが、遠い雲の上の存在で恋愛の
対象ではなかった。偶然再会した彼と、耕平の妻でありながら共通の感性の
中で激しい恋に落ちた。彼の奏でるバイオリンの音色は、まるで魔法使いの
呪文のように亜希を禁断の恋へと誘って行った。だが、すべてにおいて一流で
洗練されたライフスタイル、非日常的な生活感のない彼との贅沢な暮らしの
中で、亜希は愛されれば愛されるほど崇之との間に微妙な距離感や違和感を
覚えるようになった。
禁断の恋の結末は決してハッピーエンドを迎えてはいけない。
亜希にとって木戸崇之は永遠に結ばれることのない禁断の恋の相手、夢物語の
中だけに存在する憧れの貴公子でなければならない。
雅子の電話は、亜希を夢の世界から現実に引き戻す、まさに “ウェイクアップ
コール” だった。
「木戸君… 成瀬亜希はもうこの世にはいないの。これからは “めぐみ”
として生きて行くね。だから、あなたも東京に戻って…。」
崇之は何も言わず亜希の躰を愛惜しむように抱きしめた。
それに応えるように亜希も力いっぱい抱きしめ返した。
こうして二人は暗黙のうちに永遠の別れを決意した。
二度と再びこの腕の中に身を委ねることはないだろう・・・
亜希は、もう少しの間だけこのやさしい匂いの中に浸っていたいと思った。




