23.春の嵐(1)
イースターコンサートの成功を祝ってケープ・コッドの『リズの家』で祝賀
パーティーが催された。アレックスやジムをはじめメンバーたちの家族、友人
たちも招待され盛大な集まりとなった。
「それにしても残念ね、ケンが来られなくて」
「ええ、彼もリズに会うのをとても楽しみにしていたのに、急に仕事に
なっちゃって」
健介は急用だと言ったが彼が嘘をついているのはすぐに分かった。
あの日以来、二人の仲はぎくしゃくしたままの状態がずっと続いている。
健介はまともに目を合わせようともしない。
「こんな所にいたんだ…」
庭のベンチに座っていると崇之が声をかけてきた。
「…五月になれば、みごとな花を咲かせるだろうなあー」
リズのイングリッシュ・ガーデンの薔薇たちは、まだ蕾を硬く閉じたまま
初夏の訪れを待ちわびている。
「そうね… 甘い香りを漂わせ赤、白、黄色と咲き乱れて綺麗でしょうね。
あの、長野の別荘の薔薇たちと同じように… 」
遠くに想いを馳せるように青空を見上げた。
「記憶、戻ったんだね、そうなんだね!?」
亜希は黙って頷いた。
「よかった、本当に良かった! ごめん亜希、君を信じることができなかった僕は
どうしようもないバカだった」
「木戸君、私ね… 」
「…パリ郊外に小さな家を見つけてあるんだ。パスポート再発行に必要な手続きは
すべて揃ってる。君の署名があれば、ここの領事館に申請して一週間で発行して
もらえるそうだ…」
崇之は興奮冷めやらぬように一気に捲し立てた。
この日を、亜希が記憶を取り戻す日をどんなに待ち望んでいたか、“希望”という
曲にその想いを託し、すべての準備を整えて亜希の “生還” を祈り続けたと、
熱っぽく語り始めた。崇之の瞳は、あの鴨川べりの小さな店で少年のように二人の
将来を話していた時と同じ輝きを放っている。
「もし、もしもよ、私の記憶が戻らなかったらどうするつもりだったの?」
「一年、五年、いや、何十年かかろうと絶対に諦めない、ずっと待ち続ける覚悟は
できてたよ。日本を発つ前に離婚届を渡してきた。きっと同意してくれると思う、
彼女も政略結婚の犠牲者なんだから。僕には君が必要なんだ、一生を伴にする
パートナーは君以外には考えられない」
崇之は亜希の躰を抱き寄せた。
かつて愛した男の肌のぬくもりが伝わってくる。
懐かしいアフターシェイブの匂い、この優しい香りの中で何度も愛された甘美な
記憶が躰の深部に甦る。長野の別荘で過ごした時間、朝靄に煙る京都の街並み、
海の見える葉山の家での暮らし・・・
崇之との愛の日々が走馬灯のように頭の中を駆けめぐる。
「もう、君を誰にも渡さない。ずっと僕と一緒にいてくれるね?」
崇之の甘い囁きが耳元に心地良く響く・・・
亜希は彼の胸の中で小さく頷いた。
* * * * * * *
「あれ、君も今夜は当直?」
「ええ、まあ…」
健介は曖昧に応えると、屋上の手すりにもたれ夜空を見上げた。
日中は初夏を思わせるような陽気だったが、日が落ちるとぐっと気温が下った。
ひんやりと澄み切った空気のせいか、星が夜空にくっきりと鮮やかに浮かんで
見える。
「じゃあ、君も今日の祝賀会には行かなかったんだ」
「どうもクラシックってヤツが苦手で… 音楽や芸術といった抽象的な世界で
優雅に生きる人種と違って、俺はいたって現実的で野暮な男ですから。」
明らかに木戸崇之を意識した言い方だった。
「まあ、あまり感性が豊か過ぎると我々みたいな仕事は務まらないからね」
耕平の言葉に健介は苦笑しながら頷いた。
「けど、先生はクラシック、お好きなんでしょ?」
「嫌いな方ではなかったけど… ある時期、ある人に多分に感化されたせいかも
しれないな」
煙草の煙を夜空に向かって大きく吐き出した。
「そのある人って、絶対女性でしょ。やっぱ女ってのはビシッとブランドもんの
スーツを着こなし高級車に乗って、ゴージャスな店に連れて行ってくれるような
男に心がときめくものなのかな…。」
健介は溜息まじりに呟いた。
さりげない言葉の中に愛する女を信じられなくなった苦悩が滲み出ている。
耕平には今の健介の気持ちが痛いほど良く理解できた。
かつて自分がそうであったように、理系の男には縁遠い感性と言う目に見えない
代物を、自分の最愛の女と共有する男に言い知れぬ激しい嫉妬心を抱き、全てに
対して疑心暗鬼になっている。
(彼女はそんな女じゃない、アルマーニに身を包む男よりも、薄汚れた白衣を身に
纏い汗まみれになって働く男のほうを愛する女なんだ。頼むから信じてやって
くれ! 俺の二の舞だけは踏まないでくれ!)
耕平は目の前にいる健介に向かって大声で叫びたい心境だった。




