02.過去のない女(2)
病院側が提示した期限が過ぎ、健介は周囲の反対を押し切る形で‘めぐみ’の
身元引受人になった。理事会は、彼女の病状が回復するまでという条件付きで
彼の行動を容認した。
さっそく免疫抑制療法(ATG)によるめぐみの再生不良性貧血の治療が開始
された。点滴と薬剤投与による治療は、発熱、嘔吐、腹痛、血尿等の副作用を
伴うかなり辛いものだったが、主治医、健介の献身的とも言える努力の甲斐が
あって、彼女の症状はみるみる回復していった。だが、依然として記憶の方は
戻る気配はなかった。
「ATGは順調に効果を上げているようだね」
検査結果の数値を見ながら医長は満足げに言った。
通常の三分の一近くまで減少していた血液細胞の数が増え、ほぼ正常値までに
戻っている。
「ええ、この分だと後二週間くらいで寛解になりそうです」
「今回、君は本当に良くやったよ」
「いえ、副作用に耐えて彼女が良く頑張ってくれました」
健介の顔には、一人の患者を救えた医者としての満足感や充実感だけでなく、
何か別の感情が現れていた。
「ところで、ケン… 君のボストン行きが正式に決まったよ。来月早々には
行ってもらうことになりそうだ。どうだ、来週あたり休暇を兼ねて現地に
下見に行ってみては?」
この病院の医師はエクスチェンジ・プログラムの一環として、ボストンにある
ボストン総合病院 (ボスジェネラル)へ送られ一年間勤務することが定例に
なっている。それに選ばれる者は将来有望な医師として期待されている
証拠でもある。
「来月から、ですか?…」
健介は困惑した表情を浮かべた。
「ケン、君にとってはビッグチャンスだぞ… まさか、メグのことで躊躇って
いるんじゃないだろうね。悪いことは言わん、もうこれ以上彼女に深入り
するのはよした方がいい」
「…すいません、もう少し考えさせて下さい」
健介は医長室を出て屋上に上がった。
この二か月はあっという間に過ぎた。ポトマック川沿いの桜並木はいつの間にか
姿を消し、ついこの間まで新緑に輝いていた木々も今は夏の強い日差しを浴びて、
精彩を欠いている。
一人の患者にこんなにも情熱を注いだことはかつてなかった。そして、一人の
女をこんなにも愛おしいと感じることも一度もなかった。
* * * * * * *
「よう、ボスジェネラル行き決まったそうじゃないか。ビーコンヒルのリッチな
アパート暮らしかぁー おまえもいよいよエリート医師の仲間入りだな」
さっそく噂を聞きつけてやって来たライアンが冷やかすように言った。
「まだ、行くと決めたわけじゃない…」
「バカかおまえ、なに迷ってる?… あっ、常に冷静沈着、長年その顔と
身体をムダにしてきたドクター・アリーガも、ついに女の魔力に堕ちたか!
悩むことはない、惚れちまったんなら、一緒に連れて行けばいいじゃん。」
「おまえは、いいよなあー いつもお気楽で」
呆れたように健介は頭を振った。
あと二週間の治療でめぐみの血液疾患はほぼ完治する。だが、それまでに
記憶が戻るとは考えられない。ここを退院すれば、彼女の身柄は公的機関に
委ねられる。日本国民であることが立証されない限り、パスポートのない
日本人に日本大使館は関知しない。おそらくはDC内にある公共の施設に
送られ、そこで社会復帰への準備をすることになるだろう。
ホームレスたちと肩を並べているめぐみの姿を想像するだけで、健介は
堪らない気持になる。
「メグのこと、本気で愛しているんだろ? だったら何も迷うことはない。
向こうへ行けば、噂なんか気にせずに堂々と二人で暮らせるじゃないか。
ケン、一度くらい自分の気持ちに正直になれよ」
ライアンはいつになく真剣な表情をして言った。
「けど、俺がいくらその気でも… 」
「大丈夫、彼女もおまえに惚れてるよ、保証する。おまえが優秀なのは認める、
なんせメッドスクールじゃおまえは常にトップ俺はドンケツだったもんなー
けど、こと女に関しては、俺の方が100倍上だからな」
「……」
「なにぐずぐずしてる、さっさと告ってこいよ!」
いつもの陽気なライアンに戻り健介の背中をポーンと押した。
病室にめぐみの姿はなかった。
彼女は最近、夕暮れになると屋上に上がりじっと遠くを見つめている。
屋上の手すりに両肘をのせ、めぐみはポトマック川の方向をぼんやりと
眺めていた。その横顔は、記憶を取り戻せない焦りと不安と哀しみに
満ちている。
「もう病室に戻ったほうがいいよ。風邪を引いたら大変だ」
六月のワシントンには日本のような梅雨はない。日中はかなり暑かったが、
日が落ちると風がひんやりと冷たい。
「なぜ、そんなに優しくするの? めぐみさんって、昔の恋人?
先生にとって、そんなに大切な人だったの? 先生にはとても感謝しています。
身元引受人にまでなって病気を治してもらって。でも、もう一人で大丈夫。
退院すればソーシャルワーカーの人が、これからの事いろいろ相談に乗って
くれるそうだから」
「どうしたの、急に? いつもの君らしくないよ」
健介に背を向け夕日を眺めていためぐみは、急に振り向くと興奮気味に捲し
立てた。
(ライアンのヤツ、また余計なこと言ったな…)健介は心の中で舌打ちをした。
「ボストン行きのこと聞いたんだね?」
「ええ。そんないい話、なぜ迷う必要があるの?… 自分がどこの誰かも
分からない可哀想な女への同情?憐れみ? それとも医師としての正義感?
私、そういうの嫌なんです」
「そんなんじゃない!」
自分でも驚くくらい強い調子で否定した。
「二か月以上経っても誰も探しに来ないのよ。噂の通り、犯罪者やヤクザの
女かもしれないわ。もう、これ以上私なんかと関わらないほうが、…」
健介の唇があとの言葉を遮った。
「好きだ、好きなんだ… 一緒について来てほしい、ずっと、俺のそばにいて
欲しい…」
健介はめぐみの細い躰を抱きしめた。
暗い過去を引き摺り、常に感情を抑え内に秘めて生きて来た彼にとって、
こんな風に自分の感情を露わにしたのは初めてだった。
過去を失くした女と消してしまいたいような過去を持つ男が、新しい土地で
それぞれの過去と決別し再出発しようとしていた。