19.不信の時
「ねえ、今度の金曜、コンサートに付き合ってくれない?」
「クラッシクの?」
「うん、あんまり好きじゃないの分かってるけど、ボストン・シンフォニーの
チケット二枚もらったの」
遠慮がちに切り出した。
「ああ、いいよ。あそこの音響システム抜群らしいね。チケットも、
結構するんだろ? 誰にもらったの、アレックス?」
「ええ…」
「確か、バック・ベイだったよな、じゃ、車よりTの方がいいね」
めぐみはまたしても本当のことが言えなかった。
ボストン交響楽団の本拠地、ボストン・シンフォニー・ホールはダウンタウンの
西方、バック・ベイ地区に位置し目の前に地下鉄の “シンフォニー駅” が
ある。
「早めに出て、どっかで晩飯しようか?」
「ほんと? 久しぶりね、外で夕食なんて。ケン、何が食べたい、お寿司?」
「寿司もいいけど… あそこは、ほら、バレンタインの夜にアレックスたちと
行ったとか言ってた、イタリアンの店?」
「え? ああ、あの店、金曜の夜は凄く混むみたい、予約も取らないらしいし…」
健介がバレンタインの夜のことを口にしたことに、めぐみは一瞬ドキリとした。
健介はカマをかけてみた。
“バレンタイン” という言葉にめぐみは微妙に反応した。やはり、彼女は嘘を
ついているのだろうか、本当に自分は裏切られているのだろうか・・・
頭の中にあのEメールの文面がちらつく。健介は居ても立ってもいられない
気持ちになった。そして、めぐみの真意を確かめるためにある行動に出た。
めぐみは朝からウキウキした気分だった。
ボストン交響楽団の生の演奏は初めてだった。しかも本拠地であるシンフォニー
ホールは、その歴史と音響設備の素晴らしさには定評がある。
健介は定時より早めに病院を出ると言って出勤した。もう間もなく帰宅するはず
である。
めぐみの携帯が鳴った。
「メグ、悪い、今夜行けそうにないよ…」
担当の患者の容態が急変しオペに立ち会うことになったと言う。
「…ほんと、ゴメン!」
「だいじょうぶ、そんなに気にしないで」
済まなそうに何度も謝る健介にそれ以上何も言えなかった。
「楽しみにしてたんだろ… 一人がイヤなら、仲間の誰か誘えば?」
「うん、でも… また今度にするわ。夜、遅くなりそう?」
「ああ、たぶん日付が変わってしまうと思う」
「そう、じゃ、がんばってね」
健介にはああ言ったものの、本当は残念でならなかった。
シンフォニー・ホールまでダウンタウンから地下鉄のグリーンライン一本で
行ける。夜になっても駅周辺は比較的治安は良く安全である。一人で行くべきか
どうか、めぐみは迷った。
(もし、彼の都合が悪くなったら、すっ飛んで行くよ…_)
冗談とも本気ともつかないタカユキの言葉を、ふと思い出した。
めぐみはテーブルの上の携帯に目を遣った。いったんは手に取ったが、すぐに
元に戻した。もし、タカユキと一緒に行くことになれば、また健介に嘘をつく
ことになる。これ以上嘘を重ねてはいけない・・・
頬杖をついたまま何度も溜息を洩らした。
リビングルームのカッコー時計が五時を告げると、めぐみは意を決したように
再び携帯に手をかけた。着信音が三回鳴って、彼が出なければ切ろうと思った。
一回、二回、そして、三回目が鳴り続いた。
「もしもし」
切ろうとした瞬間、タカユキの声が返ってきた。
「あっ、あの、私、めぐみです…」
「やあ、え? 確かコンサート今夜だったよね?… あれ、まさか、彼の都合が
悪くなった、とか?」
「ええ、まあ…」
躊躇いがちに言った。
「ほんとに? じゃあ、これから迎えに行くから、下で待ってて」
タカユキはめぐみの返事を待たず電話を切った。
* * * * * * *
健介はコンサートの開演時間に合わせるように帰宅した。
めぐみの姿はなかった。一人で行ったのだろうか、それとも、やはり
あの男と・・・
ジャック・ダニエルをたて続けに何杯も呷った。
姑息な手段を使って愛する女を試すような真似をしている自分がひどく情けない
存在に思えた。同時に、めぐみへの不信感が一気に募った。
健介は夜の街に出た。
気が付くとダウンタウンの外れにあるマリエのアパートの方角に向かっていた。
「やっぱり、あたしの躰が恋しくなった?」
マリエは勝ち誇ったような笑みを浮かべ健介を招き入れた。
「逢いたかったわ、ケン…」
部屋に入るや否やいきなり抱きつくと激しく唇を求めてきた。
巧みな手の動きによって十分反応した健介は、マリエの躰を床に押し倒し
荒々しく服を剥ぎ取る・・・
乳房に触れようとした瞬間、健介の手が急に止まった。
マリエの乳房は、はち切れんばかりに張りつめ硬くなった乳首が黒ずんでいる。
服の上からは目立ったなかった下腹部の膨らみが健介の眼球を捉えた。
「マリエ、まさか?!…」
「みごと、一発で命中したみたいよ、ケン!」
マリエは薄ら笑いを浮かべながら両手で下腹部の膨らみを擦る。
全身の力が抜け健介の身体は急速に萎えていった。
「いや、やめないで!」
股を大きく広げなおも自分の中に導こうとするマリエの手を払いのけ、健介は
立ち上がった。
「あたし、産むわよ!」
床の上で露わな姿を呈したまマリエはきっぱりと言った。