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Samsara~愛の輪廻~Ⅲ  作者: 二条順子
14/27

14.過去への誘い(1)

崇之はバイオリンケースを抱え再びローガン空港に降り立った。

ホテルに向かうタクシーから外の景色に目を遣りふーとため息を吐いた。

わずか二月余りの間に、ボストンの街は鮮やかな紅色から真っ白な雪景色へと

様変わりしている。燃えるような紅葉の中、音楽アカデミーのピアノに向かう

亜希の眩いばかりの美しい笑顔が彼の脳裏に浮かんだ。


父の祥吾から彼女が自分の前から去った本当の理由を聞かされた時、愛する女の

真意を見抜けなかった自分の浅はかさを悔い自らを責め続けた。

父と伴にあらゆる手段を使って行方を捜したが、結局、亜希の消息をつかめない

まま不本意な結婚に踏み切った。麗子との仮面夫婦のような生活を、自らに課せ

られた贖罪として受け入れようとした。

だが、二度目の亜希との再会は、崇之の中でずっと燻り続けている彼女への

想いを再燃させた。高村のように、めぐみとして生きる彼女をそっと見守ること

などとうていできない、亜希への恋情をどうすることもできない。

彼女の記憶を呼び戻し、もう一度この手で抱きしめたい・・・

アレックスから彼女の事故の知れせが入ったのは、そんな悶々とした日々を

送っている時だった。




事故から一か月、新たな年を迎えた。

めぐみの腕の傷は癒え、リハビリによって手の動きも以前と変わらないほどに

回復していた。

「メグ、アレックスからまたメールがあったよ。ジムも会いたがっているそうだ。

今度の水曜にでも行ってみたら?」

アレックスからの再三の誘いにもかかわらず、事故以来めぐみは一度もアカデミー

へ行こうとはしない。

「私、ピアノはもうやめることにしたの」

健介に背を向け鍋のシチューをかき混ぜながらあっさりと言った。

「なんで? ピアノはリハビリにもいいじゃないか…」

「見て!」

健介の前に右手の親指と人差し指を掲げた。火傷の跡の水膨れができている。

「昨日ね、アイロンがけをしている時にやっちゃったみたいなの。でも、全然

気づかなった… だから、ピアノはもう無理」

めぐみは何でもないようにさらっと言うと、またシチュー鍋に向かった。

やはり当初懸念したように、指に麻痺が残り指先の感覚を失ってしまったようだ。

そのことをうすうす感じ、アレックスからの誘いを断り続けていたのだろう。


「そっか、まっ、ピアノが弾けなくたって日常生活に不自由がないなら、どおって

ことないよな」


健介はめぐみに合わせるつもりで軽く言ってのけた。

背中を向けたまま、めぐみはこくりと頷いた。

この時、彼女の心の奥底に潜む悲しみを健介はまだ気づいていなかった。



* * * * * * * 



午前中の外来を終え、一階のロビーに下りて来ると受付の辺りに人だかりができ

何やら騒がしかった。


「ケン、君は確か日本語ができるんだったよね、ちょっと助けてくれないかな?」

健介の姿を見つけた顔見知りの事務長が、困りはてた様子で駆け寄ってきた。

受付職員の差別的な応対が気に食わないと、日米のハーフらしき女が文句を

言っているが、彼女の英語はかなりブロークンで要領を得ないらしい。



「どうかされましたか?」

健介は丁寧な敬語で話しかけた。

スラングを駆使したブロークン・イングリッシュで事務員に詰め寄っていた

女は、突然の日本語に驚いたように振り向いた。

褐色の肌に細かく縮れた髪の毛、一見黒人風だが顔の造りはどう見ても東洋人で

ある。肌蹴たコートから胸の谷間を誇らしげに覗かせ、安物のジュエリーを

所狭しとつけている。いかにも水商売風の女だった。


「えっ? あっ、あんた、もしかしてケン!?」

女は健介の顔と首から下げているIDを何度も見比べた。

「あたし、あたしよ。ほら、横須賀の『ホーム』でいっしょだったマ・リ・エ!」

「……」

「…それにしても、出世したもんね。あのケンがドクターだなんて…

いや~だ、まだわかんないの? 自分の童貞を奪った女の顔も思い出せない

なんて、ずいぶんじゃん!」

大げさにウィンクして見せる女のあけすけな物言いに健介は赤面しそうに

なった。周りに日本語が解る人間がいないのが幸いだった。


健介は養父母の死後、親戚中をたらい回しにされた挙句十三歳の時、横須賀に

ある日米の孤児を収容する施設に送られた。そこで出会ったのが二歳年上の

マリエだった。日本人の母親と黒人兵の間に生まれたマリエは、まだ赤ん坊の

時に施設の前に捨てられていた。姉御肌で年下の孤児たちの面倒を良く見て

くれた。外で虐められそうになると身体を張って相手に向かっていった。

中学を卒業すると施設を飛び出し、基地の周辺にあるバーで米兵相手の商売を

しているという噂はあったが、その後の彼女の消息は誰も知らなかった。


「…マリエ?!」

「やっと、思い出してくれたみたいね。今さ、ここにいるの。一度来てみて。」

マリエが差し出したビジネスカードには、ダウンタウンにあるカラオケバーの

名前が記されていた。



* * * * * * * 



めぐみはあの事故以来はじめて音楽アカデミーを訪れた。

さっきからずっとピアノの前に座ったまま、じっと鍵盤をみつめている。

健介の前ではああ言ったものの、ピアノに触れればもしかしたら、麻痺した

指が以前のような感覚を取り戻してくれるかもしれない、奇跡が起こるかも

しれない、そんな一分の望みを胸にここへ来た。が、いざピアノを前に

すると、鍵盤に触れるのが怖くなった。


めぐみにとってピアノは、真っ暗に閉ざされた記憶の中から漏れてきた

一筋の光だった。過去の自分と現在の自分を結ぶ唯一の接点だった。

健介と暮らし始めた頃、記憶を取り戻すことを恐れていた。だが今は、例え

それがどんな悲惨なものであっても、過去を取り戻し、正面から向き合い、

すべてを清算した上で、健介との今の愛を育んでいきたいと思うようになった。


瞑想するように静かに目を閉じた。

『別れの曲』の楽譜が瞼の裏に鮮明に写し出される・・・

子供の頃から慣れ親しんだ練習曲、ショパンのエチュードの中で最も好きな曲。

大きな深呼吸をして、めぐみは恐る恐る鍵盤の上に両手を置いた。脳からの

指令が両手に伝達され十本の指は鍵盤の上を軽やかに舞いはじめる、左手の指は

伴奏を、そして右手の指はホ長調の甘美な旋律を奏でる、はずなのに・・・

右手の五指はまるで金縛りにでもあったように鍵盤の上でかたまったまま、何の

動きも見せようとはしない。

(動いて! お願いだから、動いて!)

めぐみは鍵盤の上に顔をうずめた。小さな背中が大きく震えている。



その様子を部屋の片隅でじっと見守る男の姿があった。

同じ音楽をやる者として、彼女の悲しみ、苦しみ、絶望が、痛いほど伝わって

くる。そばに駆け寄り力いっぱい抱きしめてやりたいという衝動を、崇之は

必死で堪えた。

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