13. 無情の雪
「十二月のシカゴなんて、どんな罰ゲームだよ!」
同僚の代理で急遽、学会行きが決まった健介は朝から不機嫌だった。
ボストンから二時間ほどのフライトだが、この時期のシカゴ周辺は大雪になる
ことが多い。そうなると空港は欠航便が相次ぎ大混乱する。
「大雪にならないといいわね」
めぐみは恨めしそうに窓の外に目を遣った。
昨夜から降り出した雪が地面を白く覆いはじめている。
「じゃ、行ってくるよ。金曜の夜には戻るから…」
「気をつけてね」
「…このまま雪がひどくなるようだったら、今日のレッスンはキャンセル
したほうがいいぞ。風邪でも引いたら大変だから」
「分かってる、でも心配しないで… 行ってらっしゃい」
めぐみはいつもの笑顔を浮かべた。
健介を見送った後アレックスや他のメンバーたちと音合わせのため、いつも
より早めに家を出た。
「メグ、これからレッスン?」
「ええ… まさか、こんな日にお出かけ?」
臨月を迎えたモニカが、ダッフルコートに厚手のスキー帽、手袋、ブーツと
いう重装備でエレベーターに乗り込んできた。ライアンの忘れ物を病院まで
届けるという。
「ダメダメ、雪道で滑って転んだりしたら大変じゃない。いいわ、私が
届けてあげる」
モニカから紙袋を受け取るとコンドミニアムから最寄りのTのステーションへと
急いだ。外はすっかり雪景色に変わり歩道はすでに真っ白な雪で覆われていた。
「ドクター・タカムラ、至急ERへ応援に行ってください‼︎」
午前中のオペを終えカフェテリアで珈琲を飲んでいた耕平のもとへ、
研修医が血相を変えて飛びこんできた。
交差点で信号待ちをしていた列に、雪でコントロール失った車が突っ込み、
多数の負傷者が出ているという。
「酸素! 輸血! 挿管準備!…急げ‼︎」
救急隊員が続々と怪我人を運び込み、ERの中は野戦病院のようになっていた。
「先生、出血が酷くて血圧がどんどん下がっています! 意識レベルも低下
してます!」
研修医が耕平に向かって声を上げた。
目の前に横たわる若い女は顔面蒼白で右肩から肘にかけて裂傷があった。
傷口から鮮血がどくどくと流れ出し白いシーツがみるみる真っ赤に
染まっていく・・・
「しっかりするんだ、亜希!」
耕平は思わず彼女の名を叫んでいた。
* * * * * * *
健介のもとに事故の一報が届いたのはその日の夕方になってからだった。
最終便でボストンに戻る予定が、シカゴ地方は何年かぶりの大吹雪に見舞われ
オヘア空港は全面閉鎖された。結局、健介が病床についたのは事故から二日目の昼過ぎだった。鎮痛剤が効いて眠っているめぐみの傍にライアンとモニカが付き添っていた。
「ケン、ごめんなさい。私がいけないの、メグに頼んだばっかりに。
私の代わりにこんなことになってしまって…」
「メグにはほんとに感謝してるよ。モニカとアンジェラの二人を守って
もらって」
涙ぐむ身重の妻をいたわるようにライアンはモニカを抱き寄せた。
「二人ともそんなに気にするなよ。命には別状ないんだから。それより、
傍に付いててくれてありがとな」
ライアンから事故に遭った経緯を聞かされていた健介は、二人の気持ちを
思いわざと平然と振る舞った。
「俺たちよりドクター・タカムラだよ、ずっとメグの傍についていたのは。
ナースが感心してた、日本のドクターはあんなにも患者に親身になるのかって。
彼にメグのAAのこと、話しておいて良かったな、ケン」
「……」
高村にめぐみの血液疾患のことを話した覚えはなかった。
ERの医師たちからも出血多量でかなり危険な状態だったと聞かされた。
彼女を救ったのは、ドクター・タカムラの迅速かつ的確な判断があったからだ
と彼らは口々に言う。
「どう、傷口は痛まない?」
「はい、名外科医のおかげです」
めぐみはベッドの上でぺこりとお辞儀をした。
「でも、先生のエルガーが聴けなかったのは残念!」
「緊急オペにテーマ曲は流れないよ」
「あっ、そっか」
二人の楽しそうなやりとりをドアの外で耳にした健介は、なぜか、すぐに
ノックをするのが躊躇われ、その場に立ち尽くしていた。
暫くして高村が病室から出てきた。
「先生、このたびはお世話を掛けました」
健介は先輩医師に慇懃に頭を下げた。
「君もシカゴで足止めをくらって、大変だったね」
「うわさでは聞いてましたが、冬のシカゴは最悪です」
「そうらしいね… ケン、あとでちょっと僕のオフィスに寄ってくれない
かな。」
「わかりました」
病室に入ると、さっきまでの高村との会話の様子とは一変し、めぐみは
右手を悲しげに見つめていた。
「どう、気分は?」
「うん、大丈夫」
「コンサートのことは残念だけど、“命あっての物種” だからな」
「そうね… でも、アレックスたちに迷惑かけることになって…」
めぐみの表情が曇った。
「そうだ、彼から電話があったよ。そのことはくれぐれも気にしないように
って。次のコンサートのためにも、今は一日も早く元気になることだけ考えて
ほしいって」
クリスマスコンサートは一週間後に迫っていた。
その日のために頑張ってきためぐみの気持ちを思うと、どうしても晴れの舞台に
立たせたやりたかった。
高村のオフィスで、健介は事故前後のめぐみのCT写真をじっと眺めていた。
ガラスの破片が右上腕部に突き刺さり、かなり深い部分で神経の一部を損傷
している。リハビリで日常生活に支障がないくらいの機能回復は望めても、
繊細な指の動きを要求されるピアニストとしての微妙な感覚を取り戻すのは
困難かもしれない。
「彼女には当分この事は黙っておいた方がいいだろう」
「そうですね…」
二人の医師の顔に苦悩の色が浮かんだ。
失われた記憶の中から甦ったピアニストとしての才能が、今まさに開花しよう
とした矢先、無情にもその命を奪われてしまった。