12.感謝祭
毎年十一月の第四木曜日は、アメリカ人にとってクリスマスに次ぐ大きな祝日、
『感謝祭』である。前日の水曜日から日曜にかけて家族のもとへと急ぐ人と車で
陸も空も大渋滞になる。ちょうど日本の帰省ラッシュと同じような民族大移動が
始まるのである。北東部の州ではすでに本格的な冬を迎えており、大雪にでも
見舞われようものなら最悪の場合、四日間の休暇中に家路につけないことも
あり得る。
「ねえ、この七面鳥ほんとに明日までに解凍できるの? まだカチカチよ」
「レシピによると、大丈夫のはずなんだけどな…」
「ライアンに聞いてみれば?」
「ダメダメ、サンクスギビングのターキーも満足に焼けないのか!ってバカに
されるに決まってるよ」
母親との仲が拗れたままでバージニアの実家に帰らないというライアンたちの
ために、今年の感謝祭のディナーは健介とめぐみが担当することになった。
「昨日さ、カフェテリアで高村先生にばったり会ってね、トールさんたちは
キャロラインの実家に行くしガールフレンドも日本に帰ったとかで、一人
みたいだから招待したけど、いいよね?」
健介は初めて会った時から高村に好感を持ち先輩医師としても尊敬している。
「15ポンドのターキーだもの、あと2~3人呼んでも平気よ」
「あっ、あの例のヤツまた作ってくれないかな? あれ、ビールのアテに
最高なんだよな」
「そうね、先生もいらっしゃるんなら、ちょうどいいかもね」
高村はめぐみの作るチーズ入りおやきをとても喜んでくれた。
「ようし、これであとは焼き上がりを待つばかりだ」
翌日、健介は15ポンドの七面鳥を相手に奮闘していた。
ロースト・ターキーは低温でじっくり焼き上げる。普段より早めの感謝祭の
夕食に間に合わせるには、下処理と詰め物をして午前中にはオーブンの中に
入れなければならない。この日は昼過ぎになると各家庭のキッチンから香ばしい
匂いが漂う。日本人が年末に、家々の台所から一斉に洩れてくるおせち料理の
匂いで年の瀬を感じるのと同じように、アメリカ人も感謝祭やクリスマスの
ロースト・ターキーの焼き上がる香りで一年の終わりを実感する。
「ハッピー・サンクスギビング!」
昼過ぎ、手作りのパンプキンパイと花束を抱えたライアンとモニカがやって
きた。
「はい、これは未来の大ピアニストのために!」
ライアンは跪いてめぐみに花束を差し出した。
「もう、またライアンったら、そんなにからかわないでよ」
「でもメグ、ほんと凄いわよ。あのスタインベックの弟子になるなんて…
来月のコンサートには絶対、行くからね!」
「それまで、もってくれればいいけどな…」
ライアンは妻のお腹に手をあてた。
予定日まで一か月以上もあるというのに、モニカはすでに臨月のような大きな
お腹をかかえている。
「誰だろ?」
健介の携帯が鳴った。
高村からだった。今朝から風邪気味で皆に移すと悪いので今日は遠慮する
という電話だった。
「先生一人で大丈夫かしら…」
めぐみは心配そうに言った。
「あとで食事でも運んであげよう」
「そうね」
「おお、いい匂いがしてきたぞ。どうやらターキーとの格闘は上手くいった
ようだな、ケン」
「正直、こんな大変なもんだとは思わなかったよ」
ライアンは七面鳥の丸焼きに初挑戦した健介の健闘を称えた。
「けど、グレイビーは俺に任せろよ。なんたって、うちのおふくろの味
だけは、……」
ライアンはあとの言葉を呑みこむと、いつになく沈んだ表情になった。
「大丈夫、来年は親子三人、バージニアのお家でお母さんのターキーを思いっ
きり味わっているわよ。天使のようなベビーの顔を見れば、誰だって何だって
許してしまうもの。エンゼルは神の使いでしょ、敬虔なカトリック教徒の
お母さんが神の意志に逆らうわけないじゃない、ねえ、ケン?」
二人を思い遣るめぐみのやさしい言葉に健介も大きく頷いた。
「ありがとうメグ、あなたの言う通りだわ。ライアン、この子の名前、
アンジェラにしましょうよ」
「うん、いい名前だ。きっと天使のような子になるぞ」
ライアンにまたいつもの明るい笑顔が戻った。
* * * * * * *
耕平はベッドの中で玉子酒を啜っていた。
その温かな液体は、朝から何も口にしていない空っぽの腸に滲み渡り、
寒気のする身体を心地よく暖めてくれる。めぐみが作ってくれた玉子酒、
それは志津江から陽子。そして亜希へと伝承された高村家の味だった。
杏子はビザの更新のために帰国した。
三人で寿司屋へ行った夜、彼女はひどく疲れた顔をして明け方に戻ってきた。
三沢もあれ以来ロビーで会っても、まともに目を合わせようとしない。
おそらくあの後どこかで二人だけの二次会を楽しんだのだろう。
そんなことはどうでも良かった。子供という接点だけで繋がっている杏子との
冷え切った関係を耕平は持て余している。自尊心の人一倍高い杏子は、自分の
愛を受け入れない男を決して許そうとはしない。耕平を苦しめることに生甲斐
を見出しているとさえ思えるような彼女の言動には恐怖心すら覚える。
気を取り直すように、めぐみの作った ‘おやき’ を口に入れた。
記憶の中で唯一残されていた音楽が彼女を生き生きと甦らせた。
眩しいくらいに輝く彼女の笑顔を見るたびに、耕平は救われる思いがする。
* * * * * * *
十二月に入ると、コンサートに向け追い込みのハードなレッスンが続いた。
水曜の午後に加え、来週からは土日の午前中も他のメンバーたちとの合同
練習が始まる。健介の心配をよそにめぐみは張り切っていた。
金曜の夜、二人は感謝祭の日の礼にと高村から食事に誘われた。
「この間のお礼のつもりだから二人とも遠慮しないで、さあ、どんどん
注文して。あの玉子酒のおかげで風邪が一気に吹っ飛んだ。あっ、ケンの
ターキーもなかなかのものだったよ」
「じゃ、遠慮なくいただきまーす!」
健介は久しぶりの寿司にぱくついた。
「コンサートの準備のほうは順調?」
「ええ、先生もぜひいらしてね。あっ、でもクラシックお好きですか?」
「好きだよ。そんな風には見えない?」
「はい、いえ、ごめんなさい…」
「以前にも同じようなこと言われたことがあったな…」
高村は苦笑した。
「あ、でもこっちのドクターは手術中に好みの音楽をかけるそうですね」
「そうそう、ちょっと日本では考えられないけどね。最初のオペの前に
曲は何にするって聞かれてびっくりしたな」
アメリカでは手術中に執刀医の好きな音楽を流す。気持ちをリラックスさせる
ためのようだが、最近の若い外科医の手術室にはロックミュージックが
ガンガン鳴り響くことも珍しくないらしい。
「それで、高村先生のテーマ曲は何なんですか?」
「エルガー」
「まさか、『愛の挨拶』だったりして?」
「あたり!」
「うわー ロマンティック! 聞いた、ケン? あっ、わかんないか…
あなたはクラッシクまるでダメだもんね」
寿司を頬張っていた健介が噎せかえした。
「だいじょうぶ? ほら、お茶飲んで」
「ひどいなあ、俺だってベートーベンくらいは知ってるよ。で、その愛の何とか
って、どんな曲?」
「エルガーはすっごい愛妻家だったの。『愛の挨拶』は、まだ二人が婚約中に
彼が未来の奥さんのために作曲して贈った曲。ねえ、先生?」
高村はにっこりと頷いた。
「さっきから気になってるんだけど、メグも先生も変わった寿司の食べ方
するね」
「そうかな…」
二人はガリをハケのように使って醤油を寿司ネタにつけている。
「でも、こうすると、ネタとシャリが離れないで上手く食べられるでしょ」
めぐみは実演して見せた。
彼女の仕草を黙って見つめる高村の眼差しに健介は何か暖かいものを感じた。