11.過去からの訪問者(3)
部屋に戻るとアレックス・ジョンソンからメッセージが入っていた。
明日時間が許せばぜひ会いたいという。崇之も彼に会えないままボストンを
発つのは心残りだった。アレックスとは数年前ヨーロッパで知り合い、以来
ずっと交流が続いている。ロンドンへは明日の夕刻便で出発する予定なので、
ニューイングランド音楽アカデミー近くのカフェで昼食を伴にすることにした。
「よう、タカユキ、暫くだったね」
「アレックス元気そうじゃないか」
「あっ、そうそう、結婚おめでとう! あれ、新妻は一緒じゃないのかい?」
「うむ、ちょっと風邪をこじらせてしまって」
「そうか、それは残念だな。」
アメリカ人にしてはどちらかと言えば寡黙で物静かな彼が今日はやけに饒舌で
表情も明るい。
「アレックス、なにか嬉しそうだね。いい事でもあった?」
「分かるかい?」
青い瞳を輝かせた。
「今ね、なんか凄い宝石の原石を発見したような気分なんだ」
クリスマスコンサートに参加する、例のピアニストのことを言っているのだと、
すぐに分かった。それがリズが言うように、本当に亜希のことなのかどうか
確かめてみたかった。
「それって、まさか『リズの家』で偶然出会ったとかいう日本人のこと?」
「実はそうなんだ。ジムも一目で彼女を気に入ってね。来月の演奏会に向け、
直々にレッスンをつけてくれているんだ」
ジェームス・スタインベックはすでに現役を退いてはいるが、アレックスと
同世代の有名なピアニストだった。今は週三日、音楽アカデミーで教えている。
その指導力と厳しさには定評があり、逃げだす学生も少なくないという。
「もうすぐ彼女、レッスンに現れる時間だ。どうだ、タカユキ、君も一緒に
来ないか?」
アレックスは腕時計を見ながら言った。
やはり、亜希のことだった。昨日、高村が言ったように彼女のことはこのまま
そっとして、もう二度と逢わないつもりでいた。だが、アレックスの言葉に
崇之の胸は高鳴り心が動いている。この目で彼女の無事な姿を確認したい、
最後にもう一度、彼女のピアノが聴きたい・・・
崇之はアレックスと伴に音楽アカデミーに向かった。
* * * * * * *
スタインベックはピアノの背後にある椅子に座り、腕組みをし眼を閉じたまま
演奏にじっと聴き入っている。ショパンのエチュードの中でも最も難易度が高い
とされる曲だった。
「どうだ、ジム?」
アレックスが近づき小声で囁いた。
スタインベックは長年来の親友に黙ったまま大きく親指を掲げてみせた。
崇之は胸の動悸が激しくなるのを感じた。
目の前に居るのはまぎれもなく亜希である。彼女のピアノは音大時代の、聴く者の
心に迫ってくるようなダイナミックさを取り戻していた。同時に荒削りな部分が
すっかり消え、その分繊細さが加わり洗練された優美な音色を醸し出している。
スタインベックのような指導者を得て、眠っていた才能が一気に開花したのかも
しれない。
「オーケイ、メグ、今日はここまでにしよう。最後にテンポが速くなるのを
注意すれば、あとは完璧だ。グッジョブ!」
「ありがとう、ジム」
「じゃ、また来週」
次のクラスがあるのか、アレックスと崇之に目礼するとスタインベックは
慌ただしく部屋を出て行った。
振り向いためぐみはアレックスに気づくと、にっこりと軽く手を上げた。
額に汗を滲ませ上気した白い肌がうっすらと桜色に染まっている。
彼女の生き生きとした表情は眩いくらい輝いていた。
「メグ、紹介するよ、友人のタカユキ。彼もバイオリンをやっているんだ」
「とても素晴らしい演奏でしたよ」
「え? あっ、ありがとうございます」
突然の賛辞に驚いたのか、めぐみは照れくさそうに礼を言った。
高村の話を半信半疑で聞いていたが、亜希がまったく自分のことを覚えていない
様子に大きな衝撃を受けた。彼女の記憶の中から、たとえ高村が消えたとしても、
自分のことは残っているかもしれない。そんな淡い期待が心の片隅にあった。
長野の別荘で過ごしたあの豊潤な時間も、初めて結ばれた古都の冬景色も、
葉山の家で愛を確かめ合った日々も・・・
崇之が忘れようとしても決して忘れることのできない二人の想い出は、亜希の
記憶の中からすべて消し去られてしまったというのか・・・
「どうした、タカユキ? まさか新婚ボケじゃないだろうな?!」
呆然としている崇之を冷やかすアレックスの言葉に、はっと我に返った。
「新婚さん、なんですか?」
「ああ、ホヤホヤのね。ハネムーンの真っ最中で、明日はヨーロッパに
お発ち、なっ?」
崇之は何も言えず笑顔で返した。
「わあ、羨ましい! ヨーロッパか、一度でいいから行ってみたいなぁ~」
めぐみは夢見る少女のような表情を浮かべ宙を仰いだ。
崇之は胸にこみ上げてくる感情を押し戻した。本来なら、二人は今ごろパリで
暮らしているはずだった。
「メグだって、クリスマスコンサートの後は、ポップスやボス響からじゃん
じゃんお呼びがかかって、来年の今ごろはヨーロッパツアーに参加している
かもしれないぞ。」
「いやーだ、アレックスったら。そんなわけないでしょ!」
めぐみはアレックスの肩をポンと叩いた。
「ヨーロッパから直接日本に帰国するのかい?」
「うむ」
「残念だな、君にもぜひ来月のコンサート見に来てほしかったな」
「僕もとても残念だ…」
舞台の上でスポットライトを浴び演奏する亜希の姿が目に浮かぶ。
「めぐみさん、一曲リクエストしてもいいですか?」
「……」
「あなたが弾く『さすらい人』をぜひ聴いてみたいんです。お願いできますか?」
「…ええ、私でよければ」
崇之の突然の申し入れに最初は戸惑ったようだが、めぐみは快く承知した。
「さすらい人か、彼女も好きだったな… 」
アレックスは独り言のように呟いた。
シューベルトの幻想曲、第二楽章の瞑想的な旋律が静かに流れる・・・
ピアノに向かうめぐみの後姿に、二人のバイオリニストはそれぞれに
最愛の恋人の面影を追っていた。