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Samsara~愛の輪廻~Ⅲ  作者: 二条順子
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10.過去からの訪問者(2)

「あなたは、ピアノもおやりになるの?」

リズは窓際のピアノをじっと見つめる男に声をかけた。

アレックスの知り合いだというその若い日本人は妻とヨーロッパへ向かう途中、

ニューイングランドの紅葉を観賞するためここに立ち寄った。


「いえ、僕はバイオリンだけで精一杯です」

「じゃ、アレックスと同じね。奥さまは?」

「子供の頃に少しだけ…」

男の妻ははにかむように応えた。


「そう、よろしければ自由に弾いてくださいな。自分では弾けないくせに、

私、ピアノが大好きなの。この間もあなた方のような若いカップルがここに

いらしてね、彼女のほうが、アレックスも関心するほどのピアニストで、

二人でちょっとしたミニコンサートを開いてくれたのよ」

リズは嬉しそうに微笑んだ。


「そう言えばアレックス、才能あるピアニストが今度の演奏会に参加してくれる

ことになったと、ずいぶん喜んでいました。その人のことかな?」

「ええ、たぶん彼女に間違えないわ。あの曲をあんなにすばらしく弾けるのです

もの」

「どんな曲なんですか?」

リズの持ってきた楽譜を手にした男の顔色が変わった。

「こんな難しい曲を楽譜を全く見ないで弾いたのよ。まるで、本物の鐘の音の

ようだったわ…」

リズはあの夜のことを思い出したようにうっとりとした表情を浮かべる。


「どんな、人ですか?」

「あなたの奥さまのように、とてもチャーミングな日本人女性よ。

あっ、そうそう、確かあの夜皆で撮った写真があったはず…」

リズから写真を受け取った男は食い入るようにじっと見つめたまま、

金縛りにでもあったようにその場を動こうとはしなかった。


「どうなさったの、崇之さん?」

男の妻は心配そうに夫の顔を覗き込んだ。



* * * * * * * 



「高村先生、実はまた一名お願いしたいのですが…」

耕平は前任の医師から引き続き、旅行代理店からの依頼で急病や怪我をした

日本人旅行者を診ている。ボストンを訪れる日本人の数が年々増加し、先月も

ツアー客の一人が足を骨折し運ばれてきた。今回は新婚旅行中に風邪を拗らせた

二十代の若い女性だった。


「ホテルの部屋で一日ゆっくり休養すれば大丈夫ですよ。明日の出発にも

支障はないでしょう。」

「ありがとうございました。あの、主人が、先生にご挨拶したいと、外で

待っているのですが…」

女は主人という言葉を少し恥じらうように口にした。

初々しい若妻ぶりが耕平には微笑ましかった。

「それは、ご丁寧に。じゃ、入ってもらって下さい」

女はいそいそと夫を呼びに行った。


「失礼します」

「あっ…」

耕平は思わず声を上げた。

「高村先生、その節は大変お世話になりました」

事前に耕平のことを聞いていたのか木戸は平然と挨拶した。

「麗子、君は先に行っててくれないか、父のことでちょっと先生にお話が

あるから」

彼女は少し怪訝そうな顔をしたが、夫の指示に従って部屋の外に出て行った。


「先生、彼女は、亜希は無事だったのですね?!」

さっきまでの冷静さを失い興奮気味に言った。

「どうしてそれを? 彼女に会ったのですか?」

「いえ、……。」

木戸はケープ・コッド『リズの家』でのことを話した。


「木戸さん、亜希のことで、ぜひ君に話しておかなければならないことが

あります。ここではなんですから、あとでホテルのロビーででもお会い

できませんか?」

「わかりました」

二人は木戸の滞在先のホテルで会うことにした。




『リズの家』で亜希の写真を見て以来、崇之は心の動揺を抑えることができない

でいる。アレックスと連絡が取れず出発を明日に控え、亜希の消息を確かめる

術がないと諦めていた矢先、偶然、高村がこっちの病院にいることを知った。


「すみません、待たせてしまって。急患が入ったもので」

「こちらのほうこそ、お忙しいところを恐縮です」

約束の時間に遅れ急いで駆けつけ他のだろう、高村の息は少し上がっている。


「奥さんはいかかですか?」

「薬が効いているようでずっと眠っています」

「そう、それは良かった」

「先生は亜希に会ったのですね?!」

崇之は一刻も早く本題に入りたかった。


「ええ… 実は、彼女は今めぐみという名で、ある男性と幸せに暮らしています。」

「めぐみ?? どういうことですか?」

「記憶喪失ってご存知ですよね……。」


「まさか、そんなことが!?」

崇之は絶句した。

亜希の記憶の中で自分たち二人の存在は完全に消失してしまっていると、

高村は説明した。彼の言葉がにわかには信じられなかった。



「木戸さん、君も結婚して新しい人生が始まったばかりですよね。亜希も、

めぐみとして有賀健介という青年医師と出逢い新たな人生を歩もうとして

います。君も僕も、かつて彼女を愛し愛された男として、亜希の幸せを

このままそっと見守ってやるべきだとは思いませんか?」

前妻に対する深い愛情が滲み出ている言葉だった。


「彼女は今、本当に幸せなんですか?」

「彼はとても良い青年です。亜希のことを心から愛している。彼となら、

今度こそきっと幸せになれると思う、いや、ならなくちゃいけない。

そうでしょ?」

「……」


高村の言うとおり、亜希のことを信じてやれず幸福にできなかった二人の

男は、過去の遺物として彼女の前から黙って消え去るべきかもしれない。

そうしなければならないと、崇之は自らに言い聞かせた。





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