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Samsara~愛の輪廻~Ⅲ  作者: 二条順子
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01.過去のない女(1)

愛の輪廻りんねーー 命に限りがあるように永遠に続く愛は存在しないかもしれないけれど、死と再生を繰り返す不滅の愛は在ると信じたい……。



~めぐみ、その愛 Ⅰ~

健介はERから廻されてきた患者の寝顔をじっと見つめていた。

肌理が細かく陶器のように透き通った白い肌、桜貝を合わせたような形の良い唇、

長い睫が不安げに小刻みに震えている。普段、濃厚な白人女の顔を見慣れている

せいか、日本人形のような清楚で可憐な美しさが彼の眼に新鮮に映った。



「よう、ケン! 日本に残してきた‘カノジョ’が恋しくなったか?」

いつの間に来たのか同僚のライアンが後ろに立っていた。

「…可哀想に、まだ身元も分からないらしいぞ。それにしてもひでぇ話だよな…」

  

  ーー三日前、この若い女は路上に倒れているところを救急車で

    搬送されてきた。目撃者の話では、住宅街を制限速度を超えて

    走っていたタクシーがカーブを曲がり切れず、街路樹に衝突した。

    アラブ系とみられる運転手は、意識を失った客を路上に放置し

    猛スピードで逃げ去ったらしい。9.11以来アラブ系に対して

    当局の取り締まりが厳しく、おそらく不法滞在の運転手は怖く

    なって逃げ出したのだろう。幸い彼女は翌日には意識を取り

    戻した。外傷はほとんどなくMRIやCT検査の結果、脳に

    異常は見られないが、ショックのためか一時的に記憶を失い

    自分の名前すら憶えていない。所持品はタクシーの中に残した

    ままで身元を確認できるようなものは何も身につけていなかった。

    血液検査の結果に異常が見つかり、血液疾患の専門医である

    健介のところに廻されてきたーー


「…ナースの話だと、英語もかなりできるそうだ。観光客じゃ、なさそうだな。

てことは、こっち住みか?… 結婚指輪はと、ないから、独身だな。

それにしても綺麗な顔してるなあ…」

ライアンはあれこれと自分勝手に詮索し興味津津と言うように女の顔を覗き

込んだ。

「しっかし、おまえは相変わらずだなぁー 例のシンディーとはその後、

どうなった?」

「彼女とはとっくに過去形さ。目、覚ましたら知らせろよ、顔、拝みに来るから。

じゃ、またあとでな」

陽気なイタリア系アメリカ人のライアン・カぺーリは片目を瞑って病室を出て

行った。ライアンと健介は同じメディカルスクールの同期だった。


健介は病室の窓の外に目を遣った。

ここ数日、初夏を思わせるような陽気が続いている。この分だとポトマック川

沿いの桜も今週いっぱいで終わってしまうかもしれない。

(日本で最後に桜を見てからもう何年になるだろう…)

彫りの深い横顔に翳りが走った。


有賀健介は両親の顔も名も知らない日米の混血児だった。

三十二年前、南カリフォルニアの病院に事故で瀕死の重傷を負った身元不明の

若い男女が運ばれてきた。男は死亡、脳死状態の母体から帝王切開で胎児が

取り出された。偶々同じ病院に居合わせた日本人夫婦がその子を引き取った。

横浜の貿易商、有賀健二郎と妻の友美は長年子供に恵まれず、養子にした健介を

実の子のように溺愛した。成長するにつれ日本人離れしていく容姿から、虐めに

合うことを懸念しインターナショナルスクールに通わせるなど、両親の深い

愛情に包まれ幸せな幼年期を過ごす。が、彼が八歳の時、健二郎は経営に行き

詰まり会社は倒産、多額の負債を抱え込んでしまう。結局、健介を残し妻と

無理心中を図った。

一人になった健介は親戚中をたらい回しにされた挙句、中学生になると

養護施設に送られる。そこにも自分の居場所はなく、悪い仲間と吊るんで

非行に走る。幸い米国籍を有していたためアメリカのフォスターホーム

(里親制度)の対象となり十六歳の時に渡米した。そこは横浜時代のような

裕福な家庭ではなかったが、目の色、肌の色、髪の色の違う子供たちを分け

隔てなく受け入れてくれた。

抜群の成績でハイスクールを出た健介は、奨学金で東部の名門大学、メディカル

スクールを共に首席で卒業した。アメリカで医者になるには四年制大学を卒業後

さらに四年間の医科大学院メディカルスクールを終業しなければならない。そして、一年のインターン

シップ、二年間の研修期間を経て一人前の医者となる。



* * * * * * * 



「気分はどうです? どこか痛むところ、ありませんか?」

「……」

外見からは想像もできないような流暢な日本語に、女は驚いたように

健介の顔を見た。

「有賀健介といいます。今日から貴女の主治医です」

「ありが、先生?」

健介はにっこりと頷いた。

「わたしは… 」

彼女は言葉に詰まった。その表情は不安と困惑に満ちている。

「今は何も心配しないで。大丈夫、必ず記憶は戻ります。検査の結果、

脳には何の異常も認められませんから、事故による一過性のもので

しょう」

健介の言葉に安心したように彼女の表情が少し和らいだ。

「ただ… 血液検査の結果にちょっと問題があるので、そっちの方は

もう少し詳しい検査が必要になると思います」

彼女の表情が再び曇った。

健介は、しまったと思った。記憶喪失という重圧に押しつぶされ

そうになっている患者に、さらなる不安を煽るようなことを今、口に

すべきではなかった。

「大丈夫、あくまで念のためなので…。」

不用意に言ってしまった事を打ち消すように慌てて言葉を続けた。

だが、廻されてきたカルテには、かなり重度の貧血で早急な骨髄検査が

必要と記されている。「とにかく、検査してみましょう」という健介の

言葉に女はこくりと頷いた。


一週間が経過したが、依然として記憶は戻らず身元も不明のままである。

地元警察に家族や友人からの捜索願も出ておらず、ワシントンの日本

大使館に問い合わせても、在留邦人や日本人渡航者の中にそれらしい

該当者はいなかった。

骨髄検査の結果、AA(再生不良性貧血)であることが判明した。

重症と診断された場合の治療法としては、まず骨髄移植が選ばれる。

それが不可能な時は、免疫抑制療法(ATG)がおこなわれるが、

治療開始から効果が得られるまでには少なくとも二,三ヶ月を要する。


病院側は女の対処に苦慮していた。身元不明の人間をずっと入院させて

置くわけにはいかない。が、人道的立場から病人を無闇矢鱈に放り出す

事も出来ない。結局、もう一週間様子を見て、家族や身元引受人が

現れない場合は公的機関に委ねるという結論を出した。



* * * * * * * 



輸血と感染症に対する抗生剤の投与などの当座の治療で、女の症状は

小康状態を保っていた。が、骨髄移植が無理なら免疫抑制療法などの

根本的な治療を早急に始めない限り回復は見込めない。


「彼女の主治医として、一刻も早くATGを始めたいと思います」

健介は上司である血液内科の医長に掛け合った。

「ケン、君の気持ちは分かるが、上の決定には逆らえんよ」

「しかしこのままでは… 治療を受けさせるために身元引受人が必要と

いうなら、僕がなります」

健介はなおも喰い下がった。

「落ち着きたまえ、一時の感情や安っぽいヒューマニズムで行動すれば、

きっとあとで後悔することになるぞ」

普段は冷静沈着な部下が、いつになく熱くなっている様子に医長は健介を

諭した。

病院側の、公的機関に丸投げしこれ以上身元不明の女とは関わりたくない

という姿勢に、健介はどうしても納得がいかなかった。それは単に目の前で

苦しむ自分の患者に何もできないというジレンマだけではない。

同じように身元不明者として、我が子の顔を見ることなく死んで行った母親へ

の想いが心のどこかにあるのかもしれない。


「くそっ!」

やり場のない怒りをぶつけるようにソーダの空き缶を乱暴にゴミ箱に投げ

捨てた。

「そんなカッカすんなよ、血圧あがるぞ」

ちょうどコーヒーブレイクでカフェテリアに姿を現したライアンが声をかけた。

「話は聞いたよ。おまえ、まさかマジで彼女の身元引受人になる気じゃない

だろうな?」

「俺は本気さ!」

「いまだに家族も誰も現れないんだぞ。訳アリかヤバい筋の女って可能性もある

わけだし…」

「だから、見殺しにしろって言うのか!?」

健介は声を荒げた。

当初は病院関係者の誰もが、身元が判明するのにそう時間は掛からないだろう

と楽観視していた。が、二週間が経過しても家族が現れないどころか、

行方不明者や捜索願の対象者リストにも該当者がいないことから、麻薬密売、

犯罪絡みのマフィアやジャパニーズヤクザの女かもしれない、などという

まことしやかな噂が立ち始めた。彼女のことをミステリアスな “オリエンタル

ビューティ”と呼ぶ者さえいた。


「彼女に、なんか可愛い日本の名前を付けてやったらどうだ、ケン? 名無しの

ゴンベイのままじゃ可哀想だよ」

頭に血が上っている同僚を宥めるようにライアンが提案した。

そう言われてみると、彼女のことを‘君’とか‘貴女’としか呼んでいない

ことに初めて気づいた。

「そうだな…」

そう言ったまま健介は黙っていたが、しばらくして、'めぐみ’ にしようと

ポツリと言った。

「メグミ?… メグ、か… そう言えばハイスクール時代の元カノにメーガン、

愛称メグっていう髪の綺麗な娘がいたっけな… メグ、それいいよ、いいよ、

なんか彼女のイメージにビッタリだ! じゃ、これからさっそくメグのところへ

行こうぜ」

いつものように一人ではしゃいで、さっさと彼女の病室に向かった。

二人は昔から月と太陽、陰と陽のように対照的だった。

いつも物静かで自分の感情を表に出さないポーカーフェイスの健介に対し、

ライアンはとにかく明るい。いつも誰からへとなくジョークを飛ばしその場の

雰囲気を和ませる。子供からも好かれ小児科医はまさに彼の天職だと、健介は

思っている。


「ハ~イ、メグ! 気分はどう?」

「…」

「このドクター・アリーガが、君に素敵な名前を付けてくれたよ。

メ・グ・ミ… 君は今日から ‘メグ’ 僕は ‘ライアン’ そう、君と僕で

“メグ・ライアン” ハハハァ! どう、気に入った?」

ライアンのわけの分からない話に “めぐみ” は、うつむき加減に

くすっと笑った。


それは、彼女がここへ来てはじめて見せる綺麗な笑顔だった。










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