表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

殻をまとい。②

「光生くん、こっちだよー!」

爽子が無邪気さを装って手を振る先に、彼がいた。

酒井光生。

25歳。

蝉をつまんで歩いていた私に、興味を持った変わり者。

その彼が、今、はにかんだ笑顔を薄く浮かべて、私と爽子が座る席に歩いて来る。

青いツナギの作業着。

栗色の、少し長めの髪。さらさらとした前髪が、切れ長の瞳にかかっている。すんなりとのびた鼻筋に、薄めの唇。

背は170センチそこそこか。

陽に焼けた肌に包まれた、痩せ気味の体。

それが今、私の横に立つ。

「すぐわかった?ここ」

爽子が笑顔で、自分の隣の席を手で示す。

「あ、はい」

一瞬迷う素振りを見せてから、彼は、勧められるままに私の前に座る。

「爽子さんの地図、わかりやすかったです」

答えながら、私に笑いかけてくる。

「すみません、おじゃまかなって思ったんですけど、」

「あたしが無理矢理誘ったんだよ、ねー」

彼の言葉を遮って、爽子がおどけて見せた。

「お昼、まだだって言うし、あたしもたまにはがっつり食べたいし、なら若いもんが一緒の方がいいかなーって思ってさ」

で、上尾グリルか。確信犯め。

軽く爽子を睨む。

その私に目元で笑いかけると、爽子はランチのメニューを広げた。

「昼休みは短いぞ、さっさと頼もうぜえ」

はい、と素直に酒井光生はメニューを覗きこんだ。

と言っても、この店のランチはハンバーグしかない。

熱々の鉄板に、じゅうじゅうと言いながら出される肉の塊。そのグラム数を選ぶだけだ。

酒井は300グラム、爽子は200、私は一番少ない100を選んだ。

「まぁたそれしか食べないの?バテるよ?」

爽子はあきれ顔をするけれど、スープにサラダ、ライスにコーヒーまでついてくるランチセットだ。

私は爽子を無視して、ライスも半分にしてくれるよう、店員に頼んだ。

「少食なんですか、真琴さん?」

水を一口飲んでから、酒井が私を真っ直ぐに見て訊いた。

真琴さん、て。

いきなり名前で呼ばれた私は、上目遣いのまま、目を見開いた。

あ。

声にならない声を上げ、酒井はうろたえる。

「あ、すみません、爽子さんが真琴、真琴って言うから、僕もつい…」

横田さんて呼びますね。

口の中でもごもご言う酒井の隣で、爽子がにやにやとしている。

「名前でいいですよ」

私は諦めて言った。

私を名前で呼ぶ男性は、父と兄と、別れた人だけだったから。

ちょっと驚いただけだから。

心の中でそう呟いてから、私は顔を上げた。

酒井を、彼がそうしたように真っ直ぐに見る。

「横田真琴です。改めて、よろしくね」

口角を持ち上げて、笑って見せる。

あ、と酒井は椅子に座り直すようにして、背筋を伸ばした。

「酒井光生です、よろしくお願いします」

まるで眩しいものを見たように、目を細めている。

「加地爽子でーす」

その横から、爽子がおちゃらけて割り込んできた。

「あんたは今更いい」

ぴしりと言う私に

「なぁんでよぉ」

と爽子が頬を膨らました時、ランチセットのスープとサラダが運ばれてきた。


「何考えてんのよ、いったい」

次の配送先へ向かう酒井のトラックを、会社の前で見送った。

またねぇ、と両腕を降り続けている爽子を、私は突っつく。

爽子の柔らかなわき腹に、人差し指が浅く包まれた。

身をよじるようにして逃げながら、爽子は笑う。

今日も強い陽が、黄色く辺りを照らしている。

空気は、熱くねっとりと肌にまとわりつく。

「紹介してくれって頼まれたから」

爽子の朗らかな声に、いくつもの蝉の鳴き声が重なる。

「頼まれたって…」

「若いだけに積極的だよね。しっかりアドレス訊いてったし」

暑いな、戻ろうよ。

朗らかなまま続けると、爽子は会社の自動ドアへと歩き出した。

後を追い、建物の中に入る。

背後でガラスの扉が閉まると、途端に蝉の声がトーンダウンした。

ひんやりとした空気が、腕をさらりと撫でてくる。

そう、酒井は私のアドレスを訊いてきた。

まだ良く知らない男性に自分の連絡先を教えるのは、抵抗があった。

けれど爽子の目線に背を押されるように、私は携帯を取り出した。彼にメアドを示して見せた。

見せてしまった、な。

受付に立つ後輩が、お帰りなさいと唇だけで言って寄越す。

来客はいない。

ただいま、と笑いかけてからロッカールームへ歩いた。

爽子は、タバコに行くと身振りで言い、階段へと消えて行く。

全席禁煙の店が増えた。

美味しいゴハンとタバコを同時に味わえない。食後の一服すら、社に戻ってからだ。

愛煙家の爽子の、それが一番の悩みらしい。

どちらかと言えば嫌煙家の私には、分煙が進むことはありがたいのだけれども。

今ごろ、と私はふと思う。

歯ブラシのセットを手に、トイレへ移動しながら。

今ごろ、酒井光生もタバコを吸いたい、と思っているのだろうか。

禁煙のトラックの運転席で。食後の一服をしそびれてしまった、と。

思っているのだろうか。

勢いよく水を出し、歯ブラシを浸す。

シトラスのフレーバーが気に入っている、歯みがきをチューブから押し出す。

何なんだろう?

歯ブラシを口に押し込みながら、呟いてみる。

これは出逢いなのか。

爽子のいたずらでしかないのか。

「何なんだろう?」

声に出して言ってから、気づく。

混乱している自分に。


ぶーん。


制服のポケットに入れっぱなしの携帯が、突然震えた。

一度だけのバイブは、メール着信の合図だ。

時々メールしてもいいすか?

私のアドレスを自分の携帯に打ち込みながら、快活に訊いた酒井の声がよみがえる。

栗色の眼が、私を上目遣いに見ていた。口元から、整った白い歯が覗いていた。

その残像を追い払うように、私は口をゆすぐ、

わざとゆっくり。何度も、丁寧に。

歯ブラシのセットをロッカーにしまい、化粧ポーチを取り出す。

またゆっくりと化粧を直す。

それから、ようやく私は携帯を取り出した。

就業中の携帯所持は禁じられている。

他の部署と違い、私たち受付が下を向き、携帯をいじっていては仕事にならない。

だから私は、昼休み終了と共にバックにそれをしまう。

今日もそうだ。

昨日と変わらない、その作業だ。

言い聞かせても、なぜか鼓動が早まる。指先が緊張している。

ばかみたい。

声に出さずに呟いてから、わざと乱暴に画面を自分に向けた。

ホームボタンを押し、画面を表示する。

受け取ったメールのプレビューが、画面の真ん中に現れた。


さっきはありがとうございました^ ^


その一行が視界に飛び込んでくる。

見知らぬアドレスに、KO-KIの文字が混ざっていることを認めて、私は携帯を消した。

鼓動が早い。

まるで、全身が心臓になってしまったようだ。

違う。

私は音を立てて、ロッカーの扉を閉めた。

違う、これは恋じゃない。

そして背筋を伸ばし、ロッカールームを出て行く。

午後は、都内で手広く有料老人ホームを経営する法人から、見学者が訪れる。

社の新商品を上手くアピール出来れば、大口の商談に結びつくかもしれない。

営業部から、そんなプレッシャーをかけられているのだ。

気合いを入れなければ。

集中しなければ。

私は自分に言い聞かせながら歩く。

違う、これは恋じゃない。

私はもう恋はしない。

だから違う。違うんだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ