殻をまとい。
長く付き合った人と別れたのは、もう半年も前だ。
今は一人で暮らす、マンションのドアを開ける度に思う。
なぜ私は、まだここに居るのだろう?と。
青い歯ブラシ。
白いマグカップ。
ストライプ柄のタオル。
黒いTシャツ。
彼が使っていた、そんな物たちを、まだ捨てられずにいる。
私は、なんて女々しい女なのだろう?
寝室のダブルベッドだって、一人で眠る今は無駄に広い。
冬はコタツになるテーブルも、土鍋も、私には大き過ぎる。
捨てればいい。
今の私に合った物に、買い換えるのだ。
そうして、彼のいない明日を、新しく始めるべきなのだ。
解っている。爽子に言われるまでもなく。
けれど。
でも。
彼は、部屋の鍵を置いていかずに出て行った。
2人で暮らした家の鍵を持って行った、から。
いつか、不意に、戻って来るかもしれない。
戻って来ないまでも、気まぐれに、ふと訪れたくなるかもしれない。
私は、時々空想してしまうのだ。
何年も、私と共に生きた、この部屋のドアを彼が開ける日のことを。
それはきっと、平日の昼間。
外回りの営業。偶然に彼は、以前住んでいた街を通りかかる。
懐かしいな。
そう呟くだろうか。
営業車の時計は、私が仕事に行っている時を示している。
キーホルダーには、捨てられずにいる鍵がぶら下がったままだ。
ハンドルを切る彼。
懐かしい、白い小さなマンションが見えてくる。
その前で暫し佇んだ後で、彼は車を出るのだ。
掲げらた表札は、まだ私が住み続けていることを、教えてくれるだろう。
だから、彼は躊躇いながらも、この部屋のドアを開けるのだ。
そこには、何も変わらない風景がある。
2人掛けのベージュのソファ、淡いオレンジのカーテン。
私と彼が幸せだった頃の記憶、そのままがある。
彼は悔やむだろう。
この暮らしを、私を手放した自分を、愚かだったと責めるだろう。
だから、だから。
「…わかって、るんだけどね」
私は、苦笑まじりで呟く。
あり得ない、そんなこと。
すれ違い出してから、別れを受け入れるまでの、あの自分の醜さったらなかった。
私より先に気持ちにケリをつけた彼に、縋った。責めた。しまいには、憎んだ。
言葉を尽くし、優しさを使い果たした彼が、私を突き放すために出て行ったのは当然のこと。
それしか、もう彼に出来ることはなかったのだろう。
だからあり得ない、のだ。
彼が、この部屋の鍵を使うことは二度とない。
私への、あるいは私と過ごした時間への、未練などある筈がない。
わかっている。
だから私は、今朝もため息をつきながら、部屋に鍵をかける。
一体、私は、いつまでここに居るのだろう?
留まり続けるのだろう?
私鉄に揺られ、私は毎朝、9時半には会社に着く。
始業は10時だけれど、ぎりぎりに着いて、慌ただしく仕事を始めるのは性に合わない。
まだ人気のないロッカールームで、のんびりと制服に着替える。
自分の机でもある、受付のカウンターを一通り拭く。
並べられたパンフレットの類を、補充し整頓しているうちに、後輩が慌ただしく出勤してくる。
まだ学生気分の抜けない新人にも、穏やかに微笑むためのこんな時間が、私には必要なのだ。
私が勤めているのは、洗面所や風呂場周りを得意とする、住宅機器メーカーだ。
副都心、と言われて久しい街に本社がある。
自社ビルの1階は、ショールームになっている。
このショールームと、2階以上に位置する各セクションへの来客を出迎え、案内する。それが私の仕事だ。
正直、30歳を過ぎた女に、この業務は厳しい。
自分で言うのも何だけれど、受付嬢は外見で選ばれる。
顔、姿形はもちろん、受け答えに垣間見えるノーブルな空気、というものが大事だ。
と、私をここに抜擢した当時の人事部長は言った。
君は、最初から受付に据えるために採用されたのだよ、と。
住宅機器メーカーでは一流企業と言われる会社に、就職を決めた。その自負が、打ち砕かれた瞬間だった。
見た目かよ。
胸の内で、そう毒づいたことを覚えている。
つまりは、中身のない人形ってことかよ?
その悔しさが、けれど私を支えた。
受付のプロフェッショナルになってやる。見た目だけじゃないと、上に解らせてやる。
その頑張りが裏目に出たのか。
入社以来、受付業務一辺倒の社員。
つまり、他では使えない無駄なベテラン。
それが今の私だ。
受付に配置された社員は、大抵が、早い時期にコトブキ退社を決める。
業務柄、人との接点は多い。
取引先の企業からは、営業マンがしょっちゅう案内を乞いにやって来る。
扱う商品には、福祉や医療の現場で使われる物もあるから、施設や病院からの見学者も多い。
時にはマスコミ関係者も訪れる。
そんな男性たちからすれば、柔らかな笑顔でそつ無く対応する私たちは、何割増も美しく見えるらしい。さりげなく連絡先を渡される。食事に誘われる。
社内からの誘いもある。
社内恋愛の花形だの、お嫁さん候補トップクラスだの、結婚適齢期の男性社員はお世辞を言う。そして、連絡先を訊ねてくるのだ。
さらに、爽子などはぬけぬけとのたまう。
我が社の受付嬢が参加するとなれば、合コン相手のランクが上がるから。
と、私や後輩を自分が仕切る席に駆り出す。
確かに、爽子が開く合コンの相手はレベルが高い。
一流企業の社員、医者、弁護士。いわゆるエリートと呼ばれる男性たちだ。
そういった、与えられたチャンスを掴み、後輩たちは、就職から数年の間に寿退社を決めて行く。
何人も、そうして見送って来た。
けれど私は、今日も受付に座っている。
絶え間なく訪れる、来客や見学者を笑顔で出迎える。
各セクションへ内線を入れ、アポイントを確かめ、応接スペースへ案内したり。
見学者を引き連れ、ショールーム内をまわったり。
中には、そのまま商談になる客もいる。思わぬ大口の取引に繋がることもある。
気は抜けない。
だから私は、今日も最高の笑顔を浮かべる。
商品カタログを渡す指先にも、気を張る。
けれど、そんな自分に限界を感じてもいた。
すぐ隣で接客中の後輩は、まだ23歳になったばかりだ。
ファンデーションを薄くのせただけの肌は、白くつややかで。
それに比べ、化粧水、美容液、乳液、メイク下地、そしてようやくのファンデ。幾重にも重ねた私の肌は、すでにかさつきを覚えている。
笑えば、目もとだけでなく、口元にも醜いシワが浮かぶ。
夏の今はまだいい。
冬場は、顔全体に細かなちりめん皺が浮かぶのだ。
この、今の私が人前に立つのは辛い。
ああ。
福祉を学んでいるという、専門学校の生徒たちを連れ、ショールームへ向かいながら、私は小さくため息をつく。
結婚したかった。
そう、私は結婚したかったのだ、彼と。
一流企業ではなかったけれど、安定した中堅建設会社の営業マン。
見た目も、柔らかな物腰も、申し分なかった。誰に引き合わせても、恥ずかしくなかった。
さすが真琴さん、素敵な人をつかまえたよね。
そんな囁きに見送られ、ここから、幸せな笑顔で脱出するはずだったのに。
どこで、間違えたのだろう。私は。
「まっこと!」
ランチのために社を出た所で、背後から、突然抱きつかれた。
こんなことをする人間は、社内で一人しかいない。
「珍しいね、爽子。今日は外ゴハンなの?」
振り返らずに答える。
今日も暑い。
じりじりと、陽はアスファルトを焼いている。蝉の声が響く。
「ご飯炊き忘れちゃってさ」
爽子が肩を並べて来た。
手にした財布で、顔に日陰を作っている。
「たまには、真琴とランチでもしよっかなって」
眩しげに細めた目で、私に笑いかける。
普段の爽子は、手作り弁当派だ。
夜な夜な合コンだ、デートだ、女子会だと遊び歩く友は、そのための節約を欠かさない。
「上尾グリルにしない?」
「随分がっつりいくのね」
乗り気になれない私の腕を掴み、爽子は
「暑い時こそがっつり食べなきゃ!」
と大股で歩き出す。
焼いた鉄板ごと出されるハンバーグが売りの、安い美味いがっつり、な洋食屋へと私も、引きずられるようにして入った。
店内は7割がたがうまっていた。
店員に訊かれ、爽子は
「3人」
と指を3本立てて見せ、さっさと窓側のテーブルに座る。
「…3人?」
訝しりながらも、その向かいに腰かける。
「ね、爽子、」
これから混み出すであろう、人気の店だ。
ゆったりと座りたいかも知れないけど、2人で4人がけのテーブルを使うのはどうかと思うよ?
言おうとした私の背後を、爽子が見る。
瞬時に笑顔になる。そして
「こっちだよー」
よく通る声で叫ぶと同時に、白いきれいな腕を上げた。
え?
振り向くと、そこに彼がいた。