表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

殻をまとい。

長く付き合った人と別れたのは、もう半年も前だ。

今は一人で暮らす、マンションのドアを開ける度に思う。

なぜ私は、まだここに居るのだろう?と。

青い歯ブラシ。

白いマグカップ。

ストライプ柄のタオル。

黒いTシャツ。

彼が使っていた、そんな物たちを、まだ捨てられずにいる。

私は、なんて女々しい女なのだろう?

寝室のダブルベッドだって、一人で眠る今は無駄に広い。

冬はコタツになるテーブルも、土鍋も、私には大き過ぎる。

捨てればいい。

今の私に合った物に、買い換えるのだ。

そうして、彼のいない明日を、新しく始めるべきなのだ。

解っている。爽子に言われるまでもなく。

けれど。

でも。

彼は、部屋の鍵を置いていかずに出て行った。

2人で暮らした家の鍵を持って行った、から。

いつか、不意に、戻って来るかもしれない。

戻って来ないまでも、気まぐれに、ふと訪れたくなるかもしれない。

私は、時々空想してしまうのだ。

何年も、私と共に生きた、この部屋のドアを彼が開ける日のことを。

それはきっと、平日の昼間。

外回りの営業。偶然に彼は、以前住んでいた街を通りかかる。

懐かしいな。

そう呟くだろうか。

営業車の時計は、私が仕事に行っている時を示している。

キーホルダーには、捨てられずにいる鍵がぶら下がったままだ。

ハンドルを切る彼。

懐かしい、白い小さなマンションが見えてくる。

その前で暫し佇んだ後で、彼は車を出るのだ。

掲げらた表札は、まだ私が住み続けていることを、教えてくれるだろう。

だから、彼は躊躇いながらも、この部屋のドアを開けるのだ。

そこには、何も変わらない風景がある。

2人掛けのベージュのソファ、淡いオレンジのカーテン。

私と彼が幸せだった頃の記憶、そのままがある。

彼は悔やむだろう。

この暮らしを、私を手放した自分を、愚かだったと責めるだろう。

だから、だから。


「…わかって、るんだけどね」

私は、苦笑まじりで呟く。

あり得ない、そんなこと。

すれ違い出してから、別れを受け入れるまでの、あの自分の醜さったらなかった。

私より先に気持ちにケリをつけた彼に、縋った。責めた。しまいには、憎んだ。

言葉を尽くし、優しさを使い果たした彼が、私を突き放すために出て行ったのは当然のこと。

それしか、もう彼に出来ることはなかったのだろう。

だからあり得ない、のだ。

彼が、この部屋の鍵を使うことは二度とない。

私への、あるいは私と過ごした時間への、未練などある筈がない。

わかっている。

だから私は、今朝もため息をつきながら、部屋に鍵をかける。

一体、私は、いつまでここに居るのだろう?

留まり続けるのだろう?


私鉄に揺られ、私は毎朝、9時半には会社に着く。

始業は10時だけれど、ぎりぎりに着いて、慌ただしく仕事を始めるのは性に合わない。

まだ人気のないロッカールームで、のんびりと制服に着替える。

自分の机でもある、受付のカウンターを一通り拭く。

並べられたパンフレットの類を、補充し整頓しているうちに、後輩が慌ただしく出勤してくる。

まだ学生気分の抜けない新人にも、穏やかに微笑むためのこんな時間が、私には必要なのだ。

私が勤めているのは、洗面所や風呂場周りを得意とする、住宅機器メーカーだ。

副都心、と言われて久しい街に本社がある。

自社ビルの1階は、ショールームになっている。

このショールームと、2階以上に位置する各セクションへの来客を出迎え、案内する。それが私の仕事だ。

正直、30歳を過ぎた女に、この業務は厳しい。

自分で言うのも何だけれど、受付嬢は外見で選ばれる。

顔、姿形はもちろん、受け答えに垣間見えるノーブルな空気、というものが大事だ。

と、私をここに抜擢した当時の人事部長は言った。

君は、最初から受付に据えるために採用されたのだよ、と。

住宅機器メーカーでは一流企業と言われる会社に、就職を決めた。その自負が、打ち砕かれた瞬間だった。

見た目かよ。

胸の内で、そう毒づいたことを覚えている。

つまりは、中身のない人形ってことかよ?

その悔しさが、けれど私を支えた。

受付のプロフェッショナルになってやる。見た目だけじゃないと、上に解らせてやる。

その頑張りが裏目に出たのか。

入社以来、受付業務一辺倒の社員。

つまり、他では使えない無駄なベテラン。

それが今の私だ。

受付に配置された社員は、大抵が、早い時期にコトブキ退社を決める。

業務柄、人との接点は多い。

取引先の企業からは、営業マンがしょっちゅう案内を乞いにやって来る。

扱う商品には、福祉や医療の現場で使われる物もあるから、施設や病院からの見学者も多い。

時にはマスコミ関係者も訪れる。

そんな男性たちからすれば、柔らかな笑顔でそつ無く対応する私たちは、何割増も美しく見えるらしい。さりげなく連絡先を渡される。食事に誘われる。

社内からの誘いもある。

社内恋愛の花形だの、お嫁さん候補トップクラスだの、結婚適齢期の男性社員はお世辞を言う。そして、連絡先を訊ねてくるのだ。

さらに、爽子などはぬけぬけとのたまう。

我が社の受付嬢が参加するとなれば、合コン相手のランクが上がるから。

と、私や後輩を自分が仕切る席に駆り出す。

確かに、爽子が開く合コンの相手はレベルが高い。

一流企業の社員、医者、弁護士。いわゆるエリートと呼ばれる男性たちだ。

そういった、与えられたチャンスを掴み、後輩たちは、就職から数年の間に寿退社を決めて行く。

何人も、そうして見送って来た。

けれど私は、今日も受付に座っている。

絶え間なく訪れる、来客や見学者を笑顔で出迎える。

各セクションへ内線を入れ、アポイントを確かめ、応接スペースへ案内したり。

見学者を引き連れ、ショールーム内をまわったり。

中には、そのまま商談になる客もいる。思わぬ大口の取引に繋がることもある。

気は抜けない。

だから私は、今日も最高の笑顔を浮かべる。

商品カタログを渡す指先にも、気を張る。

けれど、そんな自分に限界を感じてもいた。

すぐ隣で接客中の後輩は、まだ23歳になったばかりだ。

ファンデーションを薄くのせただけの肌は、白くつややかで。

それに比べ、化粧水、美容液、乳液、メイク下地、そしてようやくのファンデ。幾重にも重ねた私の肌は、すでにかさつきを覚えている。

笑えば、目もとだけでなく、口元にも醜いシワが浮かぶ。

夏の今はまだいい。

冬場は、顔全体に細かなちりめん皺が浮かぶのだ。

この、今の私が人前に立つのは辛い。

ああ。

福祉を学んでいるという、専門学校の生徒たちを連れ、ショールームへ向かいながら、私は小さくため息をつく。

結婚したかった。

そう、私は結婚したかったのだ、彼と。

一流企業ではなかったけれど、安定した中堅建設会社の営業マン。

見た目も、柔らかな物腰も、申し分なかった。誰に引き合わせても、恥ずかしくなかった。

さすが真琴さん、素敵な人をつかまえたよね。

そんな囁きに見送られ、ここから、幸せな笑顔で脱出するはずだったのに。

どこで、間違えたのだろう。私は。


「まっこと!」

ランチのために社を出た所で、背後から、突然抱きつかれた。

こんなことをする人間は、社内で一人しかいない。

「珍しいね、爽子。今日は外ゴハンなの?」

振り返らずに答える。

今日も暑い。

じりじりと、陽はアスファルトを焼いている。蝉の声が響く。

「ご飯炊き忘れちゃってさ」

爽子が肩を並べて来た。

手にした財布で、顔に日陰を作っている。

「たまには、真琴とランチでもしよっかなって」

眩しげに細めた目で、私に笑いかける。

普段の爽子は、手作り弁当派だ。

夜な夜な合コンだ、デートだ、女子会だと遊び歩く友は、そのための節約を欠かさない。

「上尾グリルにしない?」

「随分がっつりいくのね」

乗り気になれない私の腕を掴み、爽子は

「暑い時こそがっつり食べなきゃ!」

と大股で歩き出す。

焼いた鉄板ごと出されるハンバーグが売りの、安い美味いがっつり、な洋食屋へと私も、引きずられるようにして入った。

店内は7割がたがうまっていた。

店員に訊かれ、爽子は

「3人」

と指を3本立てて見せ、さっさと窓側のテーブルに座る。

「…3人?」

訝しりながらも、その向かいに腰かける。

「ね、爽子、」

これから混み出すであろう、人気の店だ。

ゆったりと座りたいかも知れないけど、2人で4人がけのテーブルを使うのはどうかと思うよ?

言おうとした私の背後を、爽子が見る。

瞬時に笑顔になる。そして

「こっちだよー」

よく通る声で叫ぶと同時に、白いきれいな腕を上げた。

え?

振り向くと、そこに彼がいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ