地中から。
足元で、何かが動いていた。
茶色。
私の親指、1本ほどの生き物。
「…蝉?」
声に出して呟いてしまう。
そう、それはまだ殻を纏った1匹の蝉だった。
殻に覆われたままなのか、背中に羽はない。そのせいで、見慣れた蝉の姿ではない。
幼い頃に母の故郷で見た、水が張られた田に居た、タガメにそっくりだ。
丸みを帯びた、どこかこっけいな虫。
けれど、首から先は確かに蝉だった。
横にはみ出したふたつの目が、特徴的な顔。
それがよたよたと、アスファルトの上を歩いている。
建物の入口にある、ちゃちな花壇を目指しているようだ。
私は膝を折ってしゃがみ込む。
伸ばした爪に気をつけながら、そうっと蝉をつまむ。
そのまま立ち上がり、花壇に植えられた、まだ若い桜の根元に連れて行った。
つい先日、梅雨明けが発表された。
それまで肌寒い日が続き、夜は掛け布団を離せなかったほどなのに。
たいして雨が降らないまま梅雨が明け、その途端に、最高気温が35度を越える日が続いている。
急な季節の変化に、30を過ぎた身体はついてゆけずにいた。
蝉も、同じなんだろう。
桜の根元で、もぞもぞと動く茶色を見下ろす。
いきなりの真夏日。
けれど夏は短い。
蝉の一生は、もっと短い。
鳴かなければ。恋をしなければ。子供を残さなければ。
その焦りが、アスファルトの上に迷い出させたか。
「ま、頑張んなさい」
小さく声をかけてから、立ち上がる。
手にしていた財布を持ち直すと、私は建物の入口へと歩き出した。
私には、もう焦るものがない。
だから、ゆっくりと。
翌日。
いつものように、ランチを終えて会社に戻った私の耳に、蝉の声が飛び込んできた。
見上げると、桜の幹、上の方に1匹の蝉が張り付いている。
羽を震わせている。
ふっ。
思わず口元が緩んだ。
視線を外し、建物の入口に身体を向ける。
一歩を踏み出そうとした、その向こうに、1台のトラックが停められていることに気づく。
そう言えば、いつもこれ位の時間に、配送のトラックが来ていた。
資材課への物品搬入だったか。
そう思い浮かべたものの、他部署の業務に興味はない。
通り過ぎようとして、何気なく目を向けただけだった。
荷台の扉が、こちらに向けて開いている。
中には、大小様々な段ボールがみっちり積まれていた。
その手前に、紺色の作業着を着た男がいた。
いや、男の子に近いか。
ほっそりとした上半身には、段ボールがひとつ、抱え込まれている。
今まさに、トラックの荷台から降ろされようとしている。
その態勢のまま、なぜか男の子は私を振り向いていた。
笑っていた。そして、
「こんにちは!」
声をかけてきた。
「…こんにちは」
一日中、私は受付に座っている。それが仕事だ。
こちらが覚えていなくても、知らない間に見知られていることは多い。
誰だ?
訝しりながらも、とりあえず営業スマイルを浮かべて見せる。
そんな私に構わず、彼は無理な態勢のままで続けた。
「蝉、無事でしたね」
「…?」
思わず、桜を振り返る。
相変わらず、蝉は鳴き続けている。
「あなたが助けた蝉じゃないですか、あれ」
「…見られてたのかしら、私?」
視線を戻した私に、彼は頷いた。
そして、せわしなく言葉を続けた。
「女の人って、虫、苦手じゃないですか?でも、あなたは迷わないで掴んでたから」
よく灼けた、彼の顔がさらにほころぶ。
「かっこいーなって」
「褒めてます?」
私は、わざとシブい顔をした。
「ほ、褒めてますっ」
慌てたように、彼はぶんぶんと首を縦に振った。
「ありがとう」
その仕草に、思わず笑ってしまう。
つられたように笑顔になった彼に、私は軽く会釈をしてから歩き出した。
その私の背中を、彼の声が追いかけて来る。
「優しい人なんだなって!」
振り向くと、段ボールを抱え込み、首だけを捻じ曲げて、私を見ている。
「思ったから、あの…突然で、すみませんでした」
顎を突き出すように、頭を下げる。
ううん。
首を横に振って見せ、私はまた歩き出した。
背中に、彼の視線を感じながら。
建物の中は、程よくエアコンが効いていた。
私は、自分の持ち場である受付を横切り、ロッカー室へ向かう。
横目で見る限り、受付に慌ただしさは感じられない。
外部からの来客と思しき、スーツ姿の男性が2人。こちらに背を向けて、案内を待っているだけのようだ。
私はゆっくりとロッカー室へ入り、化粧ポーチを取り出した。
トイレへ向かう私の後ろから、爽子が追って出て来た。
いたの?
目で問う私に、総務課の同期はにやりと笑いかけてくる。
「可愛いコじゃない?」
鏡の前で並ぶと、爽子は、ぐいぐいと歯を磨き出した。
「…見てたの?」
ん、と口の周りを歯磨き粉の泡で白く染めながら、彼女は頷く。
「ケムリ、吸ってたから」
ああと私も頷き、しゃかしゃかと歯を磨き出す。
花壇を見下ろす2階のスペースが、社内唯一の喫煙所だ。
禁煙志向にある男性陣に比べ、女性の喫煙者は、増える傾向にあるらしい。
肩身が狭いと嘆く男性たちを尻目に、爽子たち女性愛煙家は、楽しげに喫煙所にたむろしている。
そこは、様々な情報が飛び交うサロンでもあった。
「ナンパされた?」
口をゆすぎながら、爽子が上目遣いで私を見る。
鏡ごしのその視線に、私は笑顔を向けた。
「まさか。こんなおばちゃん、ナンパされる訳ないでしょ」
泡を吐き出し、蛇口のレバーを下ろす。
「あんな若いコが」
両手で受け止めた温い湯をすする。ぶくぶくと口の中で転がし、吐き出す。
それを繰り返す私に、爽子がくすりと笑った。
「彼、25歳だよ。あたしらと、たいして変わんない」
「6コ違えば、充分変わりますぅ」
言ってから気づく。
「爽子、知ってるの?あのコ?」
「たまぁにタバコで会うね」
爽子は、ファンデーションのコンパクトをぱちりと開いた。
「配達の車が禁煙なんだって。だから、配達先の喫煙所で一服するのがお約束みたいよ」
「ふうん…」
私もファンデーションを取り出す。
2人、身を乗り出すようにして、鏡を凝視する。
そのまま、無言で化粧直しを続けた。
「昨日も、上で一緒だった」
先に終えた爽子が、ポーチをしまいながら口を開く。
そこから見てたのか、彼。
こっそり納得する私を、爽子が横目で見る。
「なんか虫を捕まえてた?」
「…遭難中の蝉を助けてた」
「はぁ?」
爽子は目を見開いた。
ただでさえ大きな二重の目が、さらに大きくなる。
「落ちるよ、目」
「落ちねぇよ」
爽子が、私の肩を軽く小突く。
「地中から出て来たばかりの蝉が歩いてたから。花壇まで連れて行っただけ」
「…真琴らしい」
くっくっと、爽子は肩を揺らす。口元を抑えながら、本気で笑っている。
よく虫を素手で持てるよなぁ。信じらんない。
繰り返し言い、ひとしきり笑ったあとで、爽子が言う。
「彼ね、あ、酒井光生くんて言うんだけどさ、」
さかい、こうき、か。
「タバコ吸うのも忘れて、ぽかんとして下見てるから、なんなのよ?って思ったわけ」
うんうん。
頷きながら、私も化粧ポーチを片づける。
「そしたら、真琴が何かつまんで歩いてるからさぁ」
くっくっと、堪えきれないように爽子がまた笑う。
「なに持ってんのあの子、って思わず言っちゃって、あたし。そしたら酒井くんが、知ってる人ですか?って訊いてきたわけよ」
「良く知ってたわけよね」
しゃっとポーチのジッパーを閉め、私はロッカー室へ歩き出した。
そろそろ休憩時間が終わる。
「そうそう」
追いかけて来た爽子も、並んで歩き出す。
「彼女私と同期よ、横田真琴31歳、最近彼氏と別れてどフリーよって」
「…後半の情報、いらなくない?」
じろりと、爽子を横目で睨む。
「いっちばん大切な情報よぉ!」
ばしりと背中を叩かれた。
「どこに出逢いが転がってるかわかんないんだからね。私は今フリーです、恋を求めてますぅって、アピらなきゃダメなの!」
さらにもう一発、背中を叩かれる。
「…痛いなぁ」
顔をしかめて背中をさすって見せる私に、爽子は真顔で続けた。
「真琴はよく頑張ったよ?」
その爽子の言葉に、私は思わず目を伏せた。
「だからもう、いいんだよ?真琴?」
「…泣かす気?」
そう返すのが、精一杯だった。