玻璃の夏 ~狐の嫁入り物騙り~
毎日毎日、茹だるような暑さが続いている。もうそろそろ高気圧くんも夏季休暇なり盆休みなりをとってもいいように思えて来るのだが、彼は今年も手加減なしでそのあり余る労働意欲を発揮したいらしい。まったく、とんだワーカーホリックもあったもんだ。周りの人間がどれだけ迷惑しているのか、彼は気がついているのかね。
なんて取り留めもない思案を巡らせながら、ふと空を仰いで見た。そこから去来する感慨は、やっぱりどうしようもないくらい空は青くて、やっぱりどうしようもないくらい空は高いなんていう、大学の文学部にまで入ったのを自分でも疑ってしまうほどの、やっぱりどうしようもないくらい語彙の貧困さを改めて確認しただけの、やっぱりどうしようもないくらい自分には意味も価値もないと突きつけられたような気分だけだった。
などと自分を見失ってる風の青年を頭の中で演じていると、ようやく石段の頂上まで辿りつくことが出来た。
ついさっきまで苦労して登っていた石段を振り返ってみると、そこには果てしない海と空と、所在なさげに浮かぶ有限の島国が広がっていた。
少しだけ息が上がる肺に栄養を与えてやる為に、煙草を一本銜えて火を点ける。
夏場の炎天下というバッドロケーションで呑む煙草も、何がしかの達成感というスパイスがあれば、なるほど美味いものだと実感出来る。
「ふぅ~……」紫煙と溜息をいっしょに漏らす。
何はともあれ、もうこの島への逗留も、残る所あと一日となったわけだ。
ちょいと視線を下へ傾けてやると、そこには海に沈んでしまった港と、わずかに水を被った島を囲む県道とがあった。
四方すべてを海に囲まれたこの島は今でこそ孤島だが、元々は本土と地続きのれっきとした半島だった。
近年の海水面の上昇だの、なんたらかんたら現象だのおかげで、県道と鉄道が通った本土と地続きだった土地は、もう三年も前に完全に海へ沈んでしまった。
それからはまるで恒例行事か何かのように海はどんどんこの島を浸食していき、こと今年にいたっては、島の四十パーセントは人が住める場所じゃなくなった。
こんな内容がテレビのニュースで流れていても、きっといつもの僕ならたいして気にも留めず、画面の端にある天気予報のマークでも観ていたことだろう。
けれども身内がこの島に住んでいるのだから、そんな悠長に構えてもいられない。
丁度一週間前のことだ。大学が夏休みだった僕に、両親が急にアルバイトを依頼してきた。それがこの石動半島に住む祖父母の引越しの手伝いだ。
祖父母の家はある程度の高台に位置しているため、すぐには浸水することはない。が、市の対策室が来年の六月までに島を離れるようにとの退去勧告を突きつけて来たのだ。
元々異常なまでに過疎化が進んでおり、島に残されていたのは漁業を営む祖父たちのほんの一握りの島民だけだった。この島で生まれ育った祖父母は、最後の最後まで居座り続けると引越しを頑ななまでに拒んでいたが、昨今の異常気象で懸念されている大型台風に背中を押されるかたちで、ようやく離島を決意した。
引越し屋に頼めばいいものを、自分たちの力だけで出ていくと聞かない祖父母の手助けをするのに、暇を飽かしていた僕に白羽の矢が立ったのだ。
けれどホント言うと、僕は暇であってはいけない。なぜなら大学の卒業論文に着手していなければならなかったし、もういい加減この時期に就職活動も終わらせておきたかった。そして何より、学生生活最後の夏といえば、彼女との思い出づくりと相場が決まっている。
が、僕はそのどれからも逃げ出した。論文で書きたい内容など思いつかず、昨年から続けていた就活はここに来て息が切れ中弛み状態に。そして……そんなうだつの上がらない僕に愛想を尽かせたのか、三年間つき合っていた彼女が別れ話を突きつけて来た。
特に彼女を留めておく理由のなかった僕は、彼女の宣告を一も二もなく了承した。そうしたら急に、彼女はその場に泣き崩れてしまった。
──なんで?
──どうして?
そんな率直な疑問が、頭の中に自動列挙される。
あとでそのことを友人に話してみると、「ゼ~ンブ、お前が悪い」と一方的に決めつけられてしまった。
確かに、自分が他の人たちと多少ズレてるのは分かっていた。もしかしたらそれが別れる原因になったのかもしれない。
僕にはずっとある違和感がつき纏っていた。それは月を一つ跨ぐ度、歳を一つとる度、自分の中の〝ナニか〟が失われていくような、身を切るとも削るとも違う、寂寞とした空白感。その〝ナニか〟が何なのかは、自分でも理解らない。けど、それは確実に僕から抜け落ちていく。
大人になればどうにかなるかと思った。大人になって、自由になって、注意も叱られもしない、そんな子供の頃に夢見た憧れが手に入れば、もしかしたらどうにか出来るかもって、そんな淡い幻想を抱いた時もあった。
でも結局、いつしか足掻くのを忘れて、他人と、何より自分との折り合いをつけることばかりうまくなって、騙し騙し……大人になってしまった。
「……あ」
いつの間にかヒィルターが焦げるまで煙草を吸っていた。
吸殻を携帯灰皿に片して息が落ち着いているのを確認すると、重たい腰を石段から持ち上げた。
今日の午前のところで、ようやく引越しの作業が一段落ついた。あとは今晩一晩泊まり、明日の昼に祖父の漁船で本土へ渡ればいいだけ。
長くもあり短くもあった一週間が、あと少しで終わろうとしている。
しかし明日の昼まではまた随分と時間がある。しかもこの島に来て初めてのまとまった余暇だ。祖父母は好きに時間をつぶせと言ったが、ただでさえ田舎で何もなかったのに、この水没騒ぎで店屋のことごとくがもうすでに島から消えてしまっている。どうしたもんかとズボンを捲って島を散策していると、はたと見覚えのある鳥居が目に止まり、気がつくと吸い寄せられるように神社の石段を上っていた。
「けど、ま、見事に打ち捨てられたもんだな」
境内には至る所で落ち葉が重なり、手水舎の水は緑色に濁ってアメンボやらの虫がいくつも浮かんでいる。たしかこの時期なら、盆祭りだか納涼祭だかの準備でそこそこ活気づいているはずなのだが……。
「それももう叶わぬ朝露の如し、か」
仕方が無いので適当に参拝だけしてやろうと石畳を進んで社殿の前へと赴いた。
各硬貨をそれぞれ一枚ずつ、合計六十六円を賽銭箱に投げ込んでから鈴を鳴らし、二礼二拝一拍と、全国的にみて一番無難な拝み方をする。神主がいなくなり、きっと御神体も本土のどこかへ移されているだろうけど、日本人は曖昧さ(グレー)の中から何か(サムシング)を得る民族なのだと昔誰かが言っていた。だからこうやって手を合わせるのにも、きっと何がしかの意味はあるだろう。
そんな誰かさんからの受け売りを心の中で噛みしめていると、不意に社殿の中でカタッという乾いた音が鳴った。半開きの扉から射すわずかな日の光で、皿のような平べったいシルエットが見える。
数十秒から一分くらいか、僕はその場で逡巡して、躊躇いながらもそっと扉を開けた。
暗い社殿は、まるでそこに〝闇〟が沈殿しているみたく、濃い湿気とカビの匂いで満ちている。僕はその〝闇〟をかき分けながら、覚束ない足取りで音の正体を拾い上げる。
入ってきた時よりも幾分足早に外に出ると、すぐにそれが何なのかが判明した。
「……狐」
澱と共に社殿の床で横たわっていた物──それは木で出来た狐のお面だった。
全体は薄く乳白色に塗られ、頬や額は桃色に色づき、飛びだした耳や口は鮮やかな紅色で強調されている。張り子のお面とはまさに一線を画した上物。おそらく面打ち師によって丹精込めて彫られた一品なのだろう。埃でくすんでもなお、そこには独特の妖しさが今もはっきりと息づいていた。
それ故に、僕はこの面を目にした瞬間──思いだした。
識っていた。僕は、この狐面を、以前にもここでこうして手にしていたのだ。
あれはそう、ここへ最後に訪れた時のこと、小学四年の十歳の夏だった。
………
ぼくはその夏、お父さんとお母さんと三人で、海に囲まれたおばあちゃん家に遊びに来ていた。
来る時にのった電車は、右と左を海にはさまれながら、まるで本当に海の上を走っているようだった。
久しぶりにあったおじいちゃんとおばあちゃんはとっても優しくて、毎日おいしい魚料理を食べさせてくれる。
島にきてから何日かたったころ、おばあちゃんがぼくに夏祭りに着ていくためにと、濃い青色の浴衣を着せてくれた。
海から照り返す夕日をあびながら、お父さんとお母さん、両方の手を握り神社までの道を歩いた。近づくにつれて大きくなる祭りばやしに、気持ちが高鳴っていった。
左右のはじっこに旗竿が立てられた長い長い石段を上った先の境内は、普段はあまり見ない島のみんなでごった返していた。おじいちゃんおばあちゃんたちみたいなお年寄りから、ぼくくらいの年代の子たちまで、はっぴや浴衣を着て楽しそうにさわいでる。
ぼくは早く遊びたくて、二人の手を力いっぱい引いて人ごみの中に分け入った。
射的や水風船、トウモロコシにかき氷。視線をどこに移しても、そこには面白そうなものがあふれていた。
いつもだったらお菓子だってめったに買ってはくれないお母さんが、この日にかぎっては二つ返事でなんでも買ってくれた。
でも二人がいっしょにいてくれたのは、たぶん着いてからの三十分くらい。なんかやぶから棒にお父さんの友達だっていう人が話しかけて来たと思ったら、お父さんもお母さんも、それからいくら手を引っぱっても全然動いてくれなかった。
そしたらお母さんは少し鬱陶しそうに財布を取り出して「これでなんでも好きな物を買って来なさい」と、五百円玉を一枚くれた。
ぼくは急いで同い年くらいの子たちが集まる型抜き屋へ走った。さすがにお母さんも、さっきはこういった遊びにお金はだしてくれなかった。
知らない子たちと肩を並べながら、ぼくは滝のような汗を首に感じつつ一心不乱に曲がった針をにぎった。けど、どうもこの抜き型というのは、想像してたのよりはるかに難しい。ちゃんと抜ければ三百円になる、わりかし簡単そうな物でも、気を抜くとパリッと真っ二つ。
「あ~あ、なんだよ、つまんね。もういこ」
となりの戦友たちが、次々に離れていく。
ぼくもそんなまわりの空気に流されてか、熱くなっていたものが急速に冷えっていった。
しぶしぶ立ち上がり屋台から離れると、残ったお金をあらためて計算し直す。
かなり少なくなっちゃいるが、どうにかかき氷が一つ買えるくらいの金額はあった。
「レモン味ください」
ジャラジャラジャラって、これでもかってくらい細かいお金をおじさんにわたしてやる。
一つ一つ小銭を数えるおじさんを尻目に、ぼくはそそくさとお社の階段まで移動する。
それからシャクシャク紙コップの中の氷をかきまぜ、遠目からお祭りの様子をながめていたら、不意に奇妙な気持ちが降りて来た。
こんなにも活気づいている景色のはじっこで、自分はなんでこんなに落ちついているのかな、って。そこにはまるで見えない壁があるみたいだった。
なんだかそれが、少しだけ物悲しくもあった。もしかしたら、こういう気持ちのつみ重ねが、大人になるってことなのか……。
するといきなり後ろの方で、カタッっていう物音がした。
どうやら物音はお社の中で鳴ったみたい。気になったぼくは、おそるおそるお社の扉を開けてみた。
扉の中は暗くて、ひんやり湿っぽい空気がたまっている。
なれないゲタでゆっくり気をつけて歩いていると、つま先にコツンと当たる平べったい物を発見した。ひろい上げてみると、それはどうやらキツネのお面のようだった。
扉の格子窓からさすお祭りの明かりで、うすぼんやりとだけどかたちが見て取れる。
外の屋台にもキツネのお面は売られていたけど、なんだかこれは竹格子でかざられているのとはずいぶん様子がちがうみたい。
本物のキツネなんて見たことないけど、もしかしたらこれは本物のキツネの皮をはいで作ったのかもしれない。なぜだかふと、そんなことを思ってしまった。
木で出来てるのに、毛も生えてないのに。
お面なんて被って喜ぶほどもう子供じゃないはずなのに、ぼくはこのお面を無性に被りたくてしょうがなくなっていた。
軽く浴衣の袖でほこりを落として、そっと顔に当ててみる。
「…………」
こんな暗がりじゃ、なにがなんだかよく分からない。ぼくはお面の両はじにあった赤い紐を後ろでくくってお社からでた。
石ただみをはさんだ屋台の道を歩きながら、ぼくはお父さんお母さんを探した。すると、
「おい、狐がいるぞ」
「やだ! どこから入ったの」
「こんな小さな島の森にもいるんだな」
まわりの大人たちがぼくの方を見ながら、口々に「キツネ、キツネ」と指をさす。
最初はぼくもこのキツネのお面をほめられているんだと思って、少し鼻が高かった。でも、すぐにそうじゃないって分かった。だって、ぼくよりも年上の子たちが、旗竿を持っていきなり追っかけて来たんだもの。
お社にあったお面を勝手に持ちだしたのがばれたのかと思って、ぼくは一目散に屋台裏の木々の中へ飛びこんだ。
「はぁ……、はぁ……」
一生懸命走ったせいで、あっという間に息が上がってしまった。
まわりを見わたしてみると、いつの間にか竹やぶにいるのに気づいた。
全然知らない場所だった。
明かりなんてどこにもなかったけど、大きなお月さまとどっかから飛んで来るホタルのおかげで、ギリギリどこに何があってあぶないのかだけは分かる。
こんな事になるのなら、お母さんたちのところに逃げるんだった。きっと二人からも怒られるんだろうけど、迷子になるよりずっとマシだった。
すごく、不安になってきた。
「おかーさん、ねえ、おかーさんってば!」
知らないうちに、ぼくはお母さんのことを呼びながらベソをかいていた。
とてもこわくて、こわかった。
そんな時だった。すごい小さいけど、どこか遠くで鳴る太鼓や笛の音が聴こえてきた。
──祭りばやしだ!
この音がしている方へいけば、お父さんとお母さんのところに帰れる。
目のまわりのなみだを浴衣の袖でゴシゴシこすってから、転ばないようにゆっくり……でも早足で向かった。
すると竹やぶの間からぼぅっと、淡いかすかな明かりが灯っているのが見えてくる。
ぼくは嬉しさのあまり、その場から一気に走りだした。早くこんな気味の悪いところから抜けだしたくて。
でもぼくは、すっ転んでしまった。おっきな石に、ゲタの歯がかんだみたい。しかも足首がいように痛い。ネンザ……かもしれない。
本当に、不幸は不幸を呼ぶみたい。でも幸い、遠くにあった明かりはかなり近いところまで来ていた。これだったらちょっと大きな声を上げれば気づいてもらえる。
顔を隠している草をかき分け、お祭りの様子をうかがった。が、
「────っ!!」
目の前に広がる光景に、ぼくの言葉は迷子になった。
だって、ダッテだってダッテだってダッテ────だって!!
お祭りをしている神社だって思ったそこは、二本足で立って進むキツネの行列だったんだもの。
みんな時代劇なんかで観るような着物を着ていて、それぞれ小さいタンスみたいなのを手に持ったり、ツヅラなんかを棒で背負ったりしていた。遠くで聴こえた祭りばやしは、ちんどん屋みたく歩きながら太鼓や横笛を演奏していた。でもそれは明るい景気のいいリズムじゃなくて、どこかしんみりする和楽器の音色。
おとぎ話から飛びだしたような情景に最初はおどろきこそしたけれど、どこか仲間に入ってみたい、別に仲間に入ってもいいんじゃないか、ってそんな気持ちが心の底で芽生えてきた。キツネのお面を被ってる自信なのかもしれない。
でもダメだ。この足じゃ、向こうにはいけない。だからと言って、声をだす勇気もない。
「……女の子だ」
行列のまん中で二匹の狐がカゴを前と後ろで運んでいる。その横にいる同い年くらいの着物を着た女の子を、ぼくは見つけた。しかもその子は、キツネのかっこうじゃない。ぼくが知っている、普通の女の子の姿形をしていた。長い黒髪の頭には白粉をぬったみたいなお面が、かたむいて被られている。
するとその子もぼくの視線に気づいたのか、列からはずれて、なれた足取りでぼくのすぐ前までやって来た。
「どうしたの? 足、痛い痛いの?」
「……うん」
心配そうな顔で上からのぞき込む女の子。
「ちょっと待ってて」
そう言うと、女の子はやぶの中から、大きな葉っぱの草を一枚もいで来て、ぼくのくじいた足に優しく当てた。
「てあてってね」
「ん?」
「手を当てるから、手当てっていうんだよ」
女の子はささやく声で葉っぱの上から手を当ててくれた。温かかった。気持ちがよかった。
「はい、もう治った」
手を離す女の子。いくらなんでもそんなに早くは、そう思いながらも少し動かしてみると、
「あれ? 痛く、ない」
魔法でもかけたかのように、痛みはどこかへ消えていってしまっていた。
「立てる?」
さしのべてくれた女の子の手は、やわらかった。
そうしてキツネの行列の、女の子がもといたカゴの横についた。
「じゃ、これ持って」
わたされたのは、みんなが持ってるのと同じ、ぼぅっとオレンジ色に光るチョウチンだった。
「ねぇ、これからみんな、どこにいくの?」
「お婿さんのお家だよ」
「おむこさん?」
「うん。わたしのね、お姉ちゃんがケッコンするんだ。ね、お姉ちゃん」
カゴに向かって、女の子は話しかけた。
すると声のかわりに、カゴの隙間から手が出て来た。白くて、指の長い、きれいな、女の人の手。
──キツネの手じゃ、ないんだ。
「じつはね、お姉ちゃんはこれからニンゲンのお嫁さんになるんだぁ~。だからこのお面、お姉ちゃんとおそろいなの」
えへへ~、と顔をほころばせる。
でもぼくにはその意味がよく分からなかった。
ぼくはこのあともずっとずっと、この行列を歩きつづけた。
そしたらなんだか、眠たくなって来た。
「どうしたの? 眠い眠いの?」
──う、ん。
途切れがちの意識の中で、たぶんぼくはうなずいた。
ぼくは立っていられなくなって、女の子の肩につかまる。
「まだ〝もののけはい〟になれてないんだね。いいよ、送って上げるから、もう寝な」
女の子の優しくさとす、お母さんのような声に、ぼくはいつしか眠っていた。
目が覚めると、ぼくはおじいちゃんの家のおふとんにいた。朝ごはんの時にお父さんとお母さんから話を聞くと、ぼくはお祭りがあった神社のお社の中で眠っていたという。だから浴衣のままなんだって。
──じゃあ、昨日のは全部夢だったの?
ちがうと思う。だって、昨日とそのままなのは浴衣だけじゃないもの。浴衣の懐の中には、キツネのお面だって入ってるもの。
朝ごはんをかき込むように食べて、すぐにでもあの女の子の事を探しにいくつもりだったが、お母さんにその前にお風呂に入りなさいと言われてしまった。どうせ汗をかくんだから意味ないじゃないか。なんてぼやきながら、ぼくはスクランブルダッシュで体を洗い、お面を持って玄関を飛び出した。
どこを探せばいいかなんて分かんない。けど、とにかく走ってみる事にした。
島をかこむ海岸線をあこがれのロボットになったつもりで突っ切っていると、視界のはじっこに、石の鳥居が通りすぎた。昨日お祭りがあった神社だ。
今度は一人で一気に石段をかけ上がる。
でも、境内には骨組みだけになった屋台が二つ、三つ残ってるだけだった。
お祭りのあとの何とも言えないうら悲しさが、そこにはあった。
ぼくはとぼとぼ境内の中を歩きまわる。
と──、女の子の笑い声が、ふっと耳元をなでた。
けど姿が見あたらない。でもこの気配は、幻なんかじゃない。そう、確信した。
カタッ……。
その物音に、ぼくは視線を落とした。そこにはずっと持ってたせいで忘れていた、キツネのお面が。
どうやって鳴ったんだろう、風で紐がお面にぶつかったから?
考えながら、ぼくはキツネのお面を顔に当てた。
その瞬間、ぶわっ、てセカイが広がった。超拡大望遠鏡と、宝石を中につめた万華鏡を同時にのぞいたみたいなキテレツな出会い。
だって、虫やら動物やら、草やら石やら、なんて言えばいいのか分かんないヘンテコな生き物たちが、地面やら空中のあっちこっちをこちゃこちゃしてるんだもの。
妖怪! 妖怪なの!?
もう、ドキドキが止まらなかった。
「くふふふ……」
今度ははっきり聴こえた。
「お社の後ろ!」
「あっ、みつかっちった」
ぼくらはいっぱい笑って、いっぱい笑った。それからすぐに仲良くなった。
女の子は〝小姫ちゃん〟という名前だった。小姫っていうお面をつけてるから、みんなからそうよばれているんだと。ぼくも名前を言おうとしたけど、先にあだ名をつけられてしまった。
ぼくは〝小狐くん〟らしい。キツネのお面を被ってるから。
そうしてぼくらは、毎日毎日、日が暮れるまでいっしょに遊んだ。森にカブトムシをつかまえにいってカナブンしか採れなかったり、川に山女を釣りにいったのに結局びしょびしょになって空のバケツを持って帰ったり、いつもいき当たりばったりだったけど、それがまた無性におもしろくて仕方なかった。
小姫ちゃんといっしょにいると、いっぱい視える妖怪も、いつしか当たり前の日常になっていた。
毎日がまるで、マーブルのビー玉を太陽にかざした時に見える、ふしぎな光りで包まれているようだった。
「ねぇ……、小狐くん」
「なに、小姫ちゃん」
夕暮れ。その日は神社で一日中カゲフミをして遊んだ。もう帰ろうね、って二人で話した時だった。先に石段をおりようとすると、小姫ちゃんがぼくのTシャツの裾をつかんだ。
「わたしさ……じつはキツネなんだ」
「うん、知ってるよ」
何となくだけど、そんな気はしてた。
「やっぱり? ……じゃあ、このお面をとるとニンゲンの姿じゃいられないっていうのも、知ってる?」
「そうなの?」
小姫ちゃんはこくりと、えんりょがちにうなずく。
「もしかして、ぼくのこのお面もそうなの? なくても小姫ちゃんのことは見えるけど、妖怪は視えないもの」
「うん、みんなには小狐くんが本物のキツネに観えてるんだよ。それと、この子たちは妖怪じゃないよ」
小姫ちゃんは、宙を泳ぐヘビの流れにそって白い腕をさしだした。
「わたしやこの子たちは〝もののけはい〟。みんなみんなそれぞれ意味を持ってそこに在るの。だからね、わたしおもうの。小狐くんがお姉ちゃんの嫁入り行列の時にわたしの〝けはい〟を感じてくれたのには、きっと意味があるって。だからね、その……ね」
どうしたんだろう小姫ちゃん。お腹でも痛いのかな、うつむきながら、手と足の親指をこちょこちょしだして。
「約束……してほしいの」
「約束って、どんな?」
「明日もし、おたがいのお面をとってもいっしょに遊ぶことが出来たら……」
──できたら?
「わたし、小狐くんのお嫁さんになってもいーい?」
うれしかった、まさかぼくだけじゃなくて、小姫ちゃんもぼくの事を好きでいてくれたなんて。
「じゃあ、指切りして」
小姫ちゃんの小さくてやわらかい小指に、ぼくはそっと日に焼けた小指をからめた。
「じゃ、また明日ねー」
家に帰る途中、お面もしてないのに〝もののけはい〟を視ることができていたけど、そんなことはもうどうでもいい。早く家に帰ったお風呂でバシャバシャさわぐか、おふとんの中で今日あった出来事を思いだしながら手足をバタバタさせたかった。
次の朝、ぼくは突然の風邪にたおれた。昼ごろになると熱は四十度をこえていた。
お父さんやおじいちゃんたちは、押っ取り刀でぼくを本土の病院へつれていこうとしたけど、その日ちょうど、島には台風五号が直撃していた。
そのせいで本土へいく電車はストップし、おじんちゃんの船もとても海に出られなかった。
──こひめちゃんとのやくそく、まもれなかったなぁ……。
ぼんやりした頭でも、それだけがどうしても気がかりだった。
──ないて、ないかなぁ……。
昼も夜もなく横になりつづけ、いったい何日間ここでこうしているのか分からなくなってしまっていた。僕のとなりにいたお母さんは、看病でつかれて寝てしまい、ぼくは一人で夢とも現実ともつかない意識の中でうなされていた。
するといきなり、ぼくの寝室の障子が開け放たれた。そこから部屋に入ってくるのは、キツネ行列でいっしょだった二匹の大人のキツネ。後ろ足で立って歩き、股引に簡単な小袖に腕を通した格好をしている。
「いよう、辛そうだな坊主」
「〝もののけはい〟が感じられるようになったからって、はしゃぎ過ぎたな。おかげで十や二十じゃきかないくらいの雑鬼がお前さんの身体に棲み憑いちまったじゃねぇか。このままほっといたら死んじまうぞ? おい」
──いまのぼくには……ふたりのいってることの……はんぶんも、わからない。
「ああ、ああ、いいって、いいっていちいち反応しなくても。俺たちもお嬢に言いつかって来ただけだから。じゃあお前そっち持って……いっせーのーせっ!」
──よくじょうきょうが……のみこめないけど……このふたりがしたのは、おふとんのじょうげをひっくりかえした、だけ?
「さあ、これで明朝にはよくなってるだろ」
「もし俺たちが何をしたのか知りたかったら、『死神』って落語の演目を聴きな。面白いから。じゃあな」
そう言って、キツネたちはもと来た障子から消えてしまった。
朝になると、風邪はすっかりよくなっていた。ついで言うと、台風も昨日の夜のうちに通り過ぎていた。
ぼくは今すぐにでも小姫ちゃんに会いにいきたくて、神社にいくと言ったけれど、まだ安静にしていなさいと、その日は一日家から出してもらえなかった。
気づくと、ぼくはあの妖怪たち──〝もののけはい〟を、感じれなくなっていた。
そうしてその次の日は、島から帰る日だった。
本土への電車は朝・昼・晩の三本しかないので、ぼくらは朝一で発つ事になった。でもどうしても小姫ちゃんとの約束が気がかりだったぼくは、島の無人駅から飛び出して神社へ向かった。
でも、境内には人っ子一人いやしなかった。
ぼくはさけんだ。「小姫ちゃーん! 小姫ちゃーん!」て。でも、聴こえてくるのはうるさい蝉の合唱ばかり。
ぼくの好きだった女の子の声は──もう二度と返ってこなかった。
………
一頻り思い出に浸ったところで、僕はまた一本煙草を燻らせる。
あの後、僕は持っていた狐面をこの社殿へと返した。もうこんな物を被っても、何も視えはしないのは分かっていたから。
いや、違うな。怖かったんだ、たぶん。もし、これを使っても、小姫ちゃんという〝もののけはい〟を感じれなくなってしまっていたら。そう思うと、二の足ばかりが宙を泳いだ。
現実を直視するのから逃げたんだと、僕は思う。
「……現実?」
現実っていうのは、ビー玉を散りばめたあの一夏の思い出のことなのか、それともその後のただただ僕という存在を漫然と蝕み続けて来た、この煙草の煙のような灰色の日々だったのか。
「僕にはもう……、分からなくなってしまったよ」
あれからずっと、僕は〝フリ〟をして今日まで生きて来た。喜んでいるフリ、怒っているフリ、哀しんでいるフリ。そして……、生きているフリ。
誰にも理解されない孤独を胸に、遍くセカイの片すみで、渇いたのどを掻きむしっていた。
それでも、僕にとってこの島が変わらずここにあり続けているというのは、紛れもない救いだった。彼女と過ごした夏は、島という結晶として僕が死んでもそこに永遠に存在し続けるのだと、そんな無根拠な安心感があった。
けれどもこの島はあと数年の寿命ののち、海へと沈み──泡沫とともに散ってしまう。
それを、僕はここに来て思い知らされた、打ちのめされた。
手にある狐面を一瞥して、最後に一度だけ被る事を決意する。もし、これで何も視る事が叶わなければ、僕は心の端っこを切り捨てて、この島に埋めて帰ろう。
目を閉じて、静かに仮面へ顔をあずける。
「……、……くっ」
──怖くて、目蓋を開ける事が出来ない!
──またっ、僕は失ってしまうのか!?
「あれ、先客さんですか」
唐突に、背中で柔らかな声がさえずった。
後ろを振り向くと、そこには女の人がいた。白いワンピースを着て、大きな麦わら帽子から流れた長い黒髪は、ワンピースの裾とともに風に弄ばれている。
僕は思わず、息を呑んだ。
振り向きざまの一瞬、僕は彼女の姿にしっぽと耳をダブらせた。狐の、橙色のしっぽと耳を。そしてその顔に──。
「小姫……ちゃん」
かつてこの島でともに遊び、笑い、そして約束を交わした少女の面影を、重ねてしまった。
「こひ……? なんですかキツネさん?」
──キツネ?
歩み寄って来た女の人が、下から覗き込みながら尋ねた。それでやっと、自分の顔にはりついたお面の事を思い出す。
気恥かしさが込み上げた。すぐに外そうと、頭の後ろで結んだ紐をほどこうとする……が、急いだせいで固結びにみたくなっているのか、弄るたびにきつくなっていく。
「ちょっと見せてください。無理にほどこうとすると余計に固くなっちゃいますから」
「え、あ……はい」
言われるまま、身を反転させ後頭部をあずける。
「────」
「…………」
なんなんだ、この降って湧いたような状況は、そしてこの沈黙は。
「はいっ。キレイにほどけました。気をつけてくださいね、丁度よくわたしが居合わせなかったら、あなたはこれからイナリ戦士『キツネ仮面』として、一生みんなから鼻つまみ者にされるところだったんですよ?」
「はあ……アリガトウゴザイマス、ナントオレイヲイッタライイカ」
「あれあれ、なんだか御不満そうですね。助けてもらっておいてその態度はないんじゃないですか?」
「いえ、感謝はしてますよ……ホントウニ」
「う~ん」
そんな唸りながら睨まないでくださいよ、こっちの立つ瀬がないじゃないですか。
「まっ、ヨシとしましょう。こんなところで会うのも他生の縁かもしれませんし。ねぇ、少しお話しをきいてもらえませんか?」
僕の手から狐面を取ると、それを自分の顔に当てて「カワイイですか?」などと訊いて来る。
その異形めいた神楽の面は、若い女性が被るにはあまりにも突飛だった。が、「ねえ、どうですか? 似合いますか?」と、頭や腰をふるその仕草は、不覚にも愛らしかった。
まただ。また僕は一瞬、彼女に狐のしっぽと耳を重ねてしまった。
もしかしたら、と。期待めいた感情が萌え芽のように湧いて来る。
「子供の頃、わたしここで結婚の約束をしたことがあるんです」
女の人のその言葉に、僕は瞠目した。
「いえ、正確には結婚の約束の約束、なんですけどね。結婚の約束をするから、また明日ここで会おうねっていう、そんな約束。ふふ、おかしいですよね」
そう笑む女の人の口元から、ちらりと皓歯がのぞいた。僕はたまらず尋ねた。
「相手の子は……その約束を、ちゃんと守りに来たんですか?」
いいえ、と女の人はやおら首を横にふる。
「でもね、その相手の子は、どうやら風邪をこじらせたみたいなんです。ひどい、それはひどい夏風邪だったようで、その子は……」
女の人の雰囲気と声の調子に影がさした。僕はそれがいたたまれず、つい、
「もしかしてそのまま死んじゃったとか、そういうオチ?」
会話のいやな流れを打ちどめようと、戯けた台詞を口にする。
すると案の定、彼女は「いーっ」と口を尖らせた。
「ちがいますよーだ! ちゃんと生きてますー……たぶん」
「たぶん?」
「……風邪が治ったっていうのは人づてに聞いたんですけど、もうその子とは十年以上も会ってないんです。だから今、どこで何をしているのかも……全然、分かんないんです」
言いながら、彼女は狐面の紐をするりとほどくと、ゆっくりと物憂いに翳る横顔を、僕にさらした。
この暑い真夏の太陽の下で、全身が粟立った。
──その男の子は、いつもその狐のお面を被っていなかった?
──小姫ちゃん、僕だよ! 小狐だよ!
どう言えばいいんだろう。何を言えばすぐに気づいてもらえるんだろう。伝えたかった、そして確かめたかった。
震えて動かないのどは──言葉なんていらないと、必要ないと、そう言っているようですらあった。
どこかに失くしてしまった欠片と、半身に、僕は再び巡り合うことが出来たのだ。
まなじりを決し、痙攣するのどで唾を呑みくだし、まっすぐ彼女の瞳を凝視する。と、彼女はひまわりの微笑みをこちらに向け、僕が口を開けるよりも先に、こう──告げた。
「でもね、わたし今度結婚するんです」
何かが、崩れ落ちる音がした。刹那、白濁した靄が、頭蓋の全天をおおう。
──けっ……こん?
──誰と、なんの為に!?
取り留めもない疑問が、浮いては沈みを繰り返す。
ただそんな中でも、僕は彼女から目を離すことが出来なかった。彼女の方も、僕を見つめるその顔に微笑みが消えることはなかった。
そして彼女はそっと石畳を歩みだす。
「結婚が決まった時、わたしは子供の頃にした約束をふと思い出したんです。そしたら、長らく遠ざかっていたはずのこの島に、舞い戻っていました」
僕らの遥か頭上を、飛行機が青空に白線を引くように飛んでいた。彼女はそれをながめながら、右手を軽く空気をつかむように耳に当てる。
「訊いてみたかったんですわたし、あの頃のわたしに。
ハロー、ハロー。わたしは今でも、あの頃みたいに輝いていますか?
汚れたりしていませんか?
わたしは少しだけ戸惑っています。
わたしがこの島を出たかわりに手にした憧れの自由は、あなたの持ってるビー玉といったいどっちが高価だと思いますか?
わたしはよく分からなくなってきました。
小さい時に作ったあの砂のお城は、今もちゃんとそこにありますか?
寄せては返す時間のさざ波に、くずれちゃったりしていませんか?
わたしは独りぼっちじゃありませんか?
ハロー、ハロー。わたし(あなた)は今も、そこで笑ってくれていますか?」
いつしか僕も、彼女と同じように視えない受話器を握っていた。
「答えは、聞くことが出来ましたか?」
すると彼女は飛行機雲を見上げ一拍あけたのち、大きく両腕を広げた。
「あなたは永遠があると思いますか? それをただの言葉だと、思ってはいませんか? 永遠に憧れるその心が、美しく思えたりするだけだと、決めつけてはいませんか?
沈みゆくこの島でも、毎年かならず夏は訪れます。蝉はどうしようもなくうるさくて、強い潮風にあてられると髪はすぐにちぢれちゃって。
その一つ一つは、玻璃を通した景色の欠片。
たとえそれが砕けたとしても、その一粒一粒は、絶対になくならない原子の証。
この世は原子の万華鏡。覗くたびに模様の変わる、思い出の残照。
だから傷ついたりしないで。すくい上げたその砂は、握ってしまえば落ちるけど、でもなくなったりはしないでしょう?
逆にわたしはあなたに訊きます。
子供ノコロニ 見テイタ世界ヲ アナタハ今モ 憶エテイマスカ?」
──憶エテイルヨ。
受話器の先から、聴こえるはずのない声が、聴こえた気がした。
彼女は急に恥ずかしそうに顔を赤らめると、麦わら帽子を目深にかぶって俯いてしまった。
「あはははは……なんてことを石動半島ココロ電波FMから受信したんですけど、すごく変……ですよね?」
「ええ、すごく変です」
そう返すと、彼女の表情からは今にも「ガーン!」という効果音が聴こえてきそうだった。
「すごく変ですけど……僕もその〝すごく変〟の一人なので、嫌いじゃないです。すごく変ですけど」
そうして、僕らは申し合わせたように打ち笑んだ。
海から昇る潮の香りと、濃い草いきれでむせそうになりながら、僕らは膝を交えて子供の頃の思い出を語り合った。
いつとはなしに日は暮れだし、黄昏を告げるひぐらしが鳴きだしたころ、彼女は会話を打ち切るようにしずしずと立ち上がった。
「電車が来る頃だから、わたしもういかないと」
夕暮れは、どこか彼女の面差しにも影を落としているようだった。
「なら見送ります」
いっしょに石段を下りてみると、おそらく満ち潮だったのだろう、海岸線沿いの県道は来た時にもまして水位が高くなっていた。
男の僕なら濡れるのは腰までだが、女の子の人の場合はそうもいかない、か。よし!
「え……?」
「乗ってください、急がないと、帰りの電車がいってしまいます」
僕はその場にしゃがみ、彼女が背中に乗ってくれるのを待った。彼女は少し躊躇いながらも、そっと体重をかけて、僕に身体を預けた。
背中から感じる温もりと重さをたしかめながら、足を港へと進めた。
「この時間が永遠に続けばいいのに」
なんてことは、頭の中で思っただけで、口には出していない。出せるわけがなかった。
そうしていつの間にか、僕らは無人駅へと辿りついていた。辿りついて、しまっていた。
駅にはもう一両だての電車が来ていて、僕が「どっこいしょ」と言いながら降ろしてやると「わたしそんなに重たくないです!」と軽く背中を叩かれてしまった。
僕らはホームと電車で向かい合った。
「…………」
「────」
あれだけ色んな話をしたのに、不思議と別れの言葉が出てこなかった。
発車のベルが鳴り響く。もう開閉ボタンを押してドアを閉めなきゃいけない。
僕は不意に、なぜか男である事の責任感のようなものを感じて、何も言わずにボタンに手を伸ばした。こういうなんの言葉も交わさない別れがあるのだと、どこか体育会系めいた美学が過ったのかもしれない。けどその時だった。
「アリガト、じゃあね────小狐くん」
ドアが閉まる瞬間を見計らったように、彼女はその言葉を投げかけた。
そうして、花嫁を乗せた電車は発車した。海の上を、気持ちよく走っていく。
僕はおもむろに手にしていた狐のお面を顔に重ねた。
すると遠くにみえる対岸の街の灯りと、電車のヘッドライトが合わさって、まるで海を移動する狐の嫁入り行列のような光景が、僕の目の前に広がったのだ。
やっぱり彼女は──本物の狐で、僕の大好きだった小姫ちゃんだったんだ。
日はすっかり暮れ、星が歌うように瞬きはじめた頃、ふっと夜空を仰いでみた。右手には、視えない受話器をにぎりながら。
「宇宙はどんどん膨らんでいく。それと同時に冷めてもいく。
僕ら人間も、どこか宇宙みたいに冷めながら、少しずつ大人になっていくのかもしれない。
時はただ冷静に、現象と沈黙の中で人と物とを変えてゆく。
それは、温めの方程式。
それでも、地球は旅をする。時速十万七千二百八十キロの速さで、〝今日〟という日の旅を続ける。
…………だけど一年後にはまた、こうしてまた故郷へと帰って来る」
──オカエリナサイ。
それは、夏の声。〝もののけはい〟の囁きが夏の調べとなって、そっと僕の耳元を薙いでいった。