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2 来

 仕事からの帰り道。夜空を見上げれば、夕方の雨が嘘の様にくっきりと月が浮かんでいた。雲一つ無い空を見ていると、あの事が白中夢だった気すらしてくる。

――夢、ならいいんだが……

 今までに何度か、ぼんやりとした影だとか暗闇の中で薄っすらと浮かび上がる顔だとか、その手の類のものを見た事はある。所謂(いわゆる)、霊感が有ると言うやつだ。人に見えないものが見える事は、卓也に取っては残念だが良く在る事だった。

 だが、今回の様に生身と見紛うようなのは初めてだ。それだけに、自分の背筋を暑さからではない汗が伝う。ぼんやりとしていた影ですら、碌でも無い目に遭わされた記憶もある。なのに、今回は未知とも言えるレベルではないか。正直、何を仕出かすのか想像もつかないのだ。

 かと言って、何か出来るでもないのも事実だ。卓哉は所詮『見える』だけだった。祓うだの何だの、テレビや漫画の真似事は出来無い。尽くす人事も無く、天命を待つだけと言った所か。

 ならば考えても仕方が無いと大きなため息きを漏らし、卓哉は足を進めた。程無くして卓哉は自分のアパートへとたどり着く。広くはないが住み慣れた我が家。それを見て、卓也は訳も無く安堵を覚えた。だがドアを開けた瞬間、部屋の中を見て卓哉は凍り付く。

「お帰り」

 狭い部屋には不釣り合いだったが、それでもなけなしの給料で買ったソファー。そこに我が物顔で座り、その人物はしなっとそんな台詞を吐いた。それは紛れもなく、夕立で出会った少年だった。

「鍵は掛ってたよな……」

 思わず卓也はそう呟いた。一瞬、彼が人間では無い事を忘れてしまったのだ。それは多分、少年が今朝卓也が冷蔵庫に入れていた筈の缶ビールを取り出し、勝手に一杯やっていたからだろう。人間臭いその行動に、卓也は呆然としていた。

「あぁ、掛ってた、掛ってた。てか、今アンタ自分で鍵開けなかった?」

 言われ、そう言えばそうだったと納得し掛ける。だが、すぐにそんな問答をしている場合では無いと気付いた。

「何をしに来た」

 人外の少年を睨み付けながら、卓哉はそう言った。こう言う『モノ』相手には、本来無視を決め込むのが一番だ。だがそう出来なかった時は、常に強気で立ち向かう。それがベストなのだと、卓哉は経験から知っていた。

「愚問だなぁ……行くって言ったじゃん、俺」

 卓哉の視線に気圧される事もなく、少年はやれやれと言った感で缶ビールに口を付けた。そんな様子に、さっきまで溜めていた筈の気力が萎えそうになる。卓哉はかなり強面の部類だ。こんな風に睨み付ければ、大概は相手が引く。それは人間以外も同様だった。それが初めて軽く流され、卓哉は相手のペースに飲まれそうになっていた。

 これではいけないと、卓哉は頭を振る。いっそ、一度部屋を出てしまった方が良いかと思い、黙って体を反転させた。そして一歩踏み出そうとした瞬間、目の前に、少年が、居た。

「……っ!」

 動揺を隠しつつちらりと後ろを見れば、先程まで少年が居たテーブルには飲み掛けの缶ビールが置いてある。それは、確かに少年が今までそこに居た証だった。

――どうやって……

 少年は後ろで両手を合わせ、今までずっとそこに居た様な顔をしている。そんな馬鹿な、と卓哉が無意識に体を後ろに逸らせば、それに合わせる様に少年の体が動いた。

「逃げる?」

 言いながら覗き込んでくる少年の顔は微笑んでいるのに、その瞳は欠片も笑んでいない。夜の闇より尚深いその黒に吸い込まれそうに思えて、卓哉は眩暈(めまい)を覚えた。

 その隙を突いた様に、少年が距離を縮める。視線はそのままに、体が触れるか触れないかのギリギリの位置に。ほんの少し目を細め、少年は軽く卓也のシャツを嗅ぐ仕草をした。

「……血の、臭いがする」

 笑う様な少年の言葉に、今朝方見た死体が卓哉の脳裏を過ぎった。


 壊れた人形の様に転がる制服のままの女子高生。その首は(はさみ)で切られたかの様に三分の一程も割れて、そこからは断ち切られた筋肉と脂肪、そして骨すら見えている。今風の短いスカートから覗く二本の脚。それは片方が太腿が紫色に変色して倍にも腫れ上がり、もう片方は有り得ない方向に曲がっていた。瞳は何か恐ろしい物でも見たのか見開かれたまま。その瞳孔は美しい程に真っ黒に開き切り、そこには彼女が最期に見たであろう恐怖の残滓が見えるかの様だった。

 首筋から流れる血はとっくに乾いてどす黒くなっていたのに、その量の多さが記憶の中の血の臭いを呼び起こし、鉄にも似た臭いを感じさせる。その時の臭いが蘇り、辺りに漂っている気すらした。


 幻覚を見るのでは無いかと思える程明確に呼び起こされた記憶に、卓也の眩暈が酷くなる。その耳に、少年の声は響き続けた。

「血だけじゃないね……虫の……あぁ、百足の臭いだ」

 睦言を囁く様な優しい声が、思考を支配する。目に見えるのは、少年の黒い瞳。その奥に、何かが映っている。


 少年の瞳に映るのは、うねる百足の腹。その腹がもうこの世に居ない少女に絡み付き、まずは動けなくする為に片方の脚に針を刺した。痛みと恐怖と混乱。少女は必死になって百足の体を剥がそうとそこに爪を掛けるものの、嘲笑う様に爪は割れ、体を締め付ける力は強くなっていく。

 刺された足は次第に腫れ上がり、感覚が鈍くなる。その痺れに膝を突けば、今度は無事残されていた脚に百足の体が絡められた。後ろへ投げ出されていた少女の脚が、ゆっくりと膝から下だけ前方へと動かされていく。関節が痛みの悲鳴を上げても尚、更に前へと……がくんと見て分かる程に膝の骨が動いた。骨が外れ、脚が完全に前に回ったのだ。その痛みからか、自分の体の一部が醜く歪んだ恐怖からか、彼女の動きが一瞬弱まった。悲鳴の形に唇を歪めた彼女の瞳に、絶望的な物が映る。

 百足がこちらを向いていた。その先端には、巨大な裁ち鋏を思わせる一対の鈍く光る牙。それが目に入った瞬間、彼女は再び狂った様にもがき出した。今までの暴れ方が唯の予行演習の様なもがきだったが、それでも自由になるのは両手程度。もう半ば狂っているかも知れない彼女の目の前で、(あざけ)る様に牙が開閉する。自分を死に誘うそれに、諦めたのかそれとも恐怖に凍り付いたのか、遂にピタリと彼女の動きが止まった。それを待っていたかの様に、凶器が彼女の首筋へと絡み付いた。

 血飛沫が、勢い良く空へ向かって飛ぶ。その時、初めて彼女の唇が悲鳴以外の言葉を形作った。

『た、すけ……』

 最後の一文字を言う前に、彼女の瞳の黒が濁る。心臓の動きに合わせる様に飛び散っていた血飛沫は、事切れたのを示す様に徐々に勢いを弱めていく。それでもまだ、弱々しく流れる血を、百足が舌で舐めていた。舌……? いや、あれは舌なんて物ではない。百足の口から伸び出るのは、細い幾つもの触手だ。裂けた肉を思わせる濃い桃色のそれらは、彼女の喉から体の中へ。飲み切れなかった血は、百足の頭を染めながら地面へと向かっていく。歓喜の声を上げながら少女の血を吸い続ける異形の物を映し出すのは、赤く染まった満月……


――何だ、これは……

 少年の瞳に映し出された有り得ない光景に、視界が一瞬暗くなる。自分が今立っているのかさえ危うくなりそうで、卓哉はそれを振り払おうと頭を振った。

「信じない?」

 そう言って笑う少年の口元が、やけにはっきり見えた。なのに眩暈は一層酷くなり、卓哉は喘ぐ様に息を吸う。吸い込んだ空気の臭いは、何時の間にか血のそれから別の物に変わっていた。

――甘い……

 臭いと言うよりも、香り。濃厚な果実の香りにも似たそれが、卓哉の思考を弛緩させていく。瞬間、何も考えられなくなり、遂に卓哉は膝を突いた。それを待っていたかの様に、何かが卓哉の胸を優しく押す。後ろに体が倒れ込む中、卓哉は何とか壁と床に手を突く事で叩き付けられるのを避けた。もう殆ど見えない中で、自分の上に重みがのしかかる感覚だけがした。

「その様子だと、俺達みたいなのにはあんまり遭った事ないんだね」

 上から降ってくる言葉に、少年が自分の上に馬乗りになっているのが分かった。振り払おうと腕を動かしたつもりだったが、指先が微かに震えただけに終わる。

「俺達みたいなのは、人を『喰う』んだよ」

 少年の指先が、卓哉の頬の輪郭をなぞる。その冷たい指先が何かを品定めしている様で、卓哉は不快に感じた。

「喰い方はそれぞれだけどね……あんな風に血ごと喰うのは出来たてかな? まだ、やり方が上手くない。」

 少年は話しながら、指先を滑らす。触れたのは、少女に付けられた死の証と同じ場所。自然、卓哉の体が強張った。

「傷なんか付けなくても、喰えるのに、ねぇ」

 首筋から指先の感覚が消え、卓哉は少し安堵した。だが、次の瞬間、代わりに何か湿った感覚が降ってくる。柔らかな髪が頬の辺りを(くすぐ)った事で、それが少年の舌であると認識出来た。

 だがそれは、ゾッとする程の冷たさ。凡そ人の体温と言う物が感じられない、異質な感覚。赤い月に映し出された百足の触手が思い出されて、卓哉の心臓がどくんと大きく脈打った。このままでは、確実に殺される。そう思った。

――動けっ……

 すぐそこまで迫っている死に、卓哉は必死になって動かない体に命令した。背中に張り付く恐怖とは裏腹に、少年の舌は甘美で()せ返る程の甘い匂いと相俟って、卓哉の体の力を奪おうとする。しかし、その誘惑に負ければ、待っているのは唯一つの結末なのだ。それを自分の意識に刻み、卓哉は必死で抵抗する。

 そうしている間にも、少年の舌は動いていた。首筋を降り、鎖骨に。邪魔なシャツのボタンを外すと、舌は一度離れ、代わりに指先が剥き出しにされた胸元に触れた。胸の中央より、やや左。

「……ここに、人間は命を集めてるよね」

 くすくす笑う少年の声。触れるそこは……

――心臓……

 思い至った瞬間、卓哉の右腕が動いた。漸く意識に従った腕は、少年をその恐怖ごと振り払う様に殴り掛かった。少年が驚く気配と同時に、体に掛かる重みが失せる。

 先程までの事が嘘の様に眩暈も匂いも消え、卓哉は勢い良く起き上がり臨戦態勢を取る。視界の右端、外に続く窓の側。少年の姿は何時の間にかそこへ移動していた。

「やっぱり、強いね」

 窓に背を預け、少年はまたくすくすと笑った。ちょっとしたゲームに負けてしまった。そんな感じを卓哉は受けた。

「今日は帰るよ」

 窓の桟に手を掛けると、少年は窓の外へと体を滑り込ませる。落ちる、と卓哉が思った瞬間、少年は綺麗に一回転して窓の向こうからこちらを覗いた。

「また、ね……」

 優美な笑みと言葉を残し、少年は背を向けて去っていった。漸く危機を乗り越えた卓哉は、小さく嘆息し立ち上がった。まだ部屋の中にあの甘い匂いが漂っている気がして、窓へと向かう。

 窓からは、民家やアパートの明かりが小さく瞬いている。それもその筈、ここは七階。それを少年はそこに地面でもあるかの如く、歩いて行ったのだ。卓哉は苦い思いでそこを見詰めていると、窓の外に羽が舞っているのが見えた。思わず手を伸ばし掛け、卓哉はそこにある冷たい硝子に気づき手を止める。窓は、鍵すら開いてはいなかったのだ。


 少年の姿がそこに無い事を確認する様に、卓也は窓を開けた。滑る様に舞い込んだ一枚の羽は、少年の髪の様に艶やかな黒。何となく、死をイメージさせる色に思えた。卓也は忌々しい思いで、その羽に手を伸ばす。羽を手に取った瞬間、不意に卓哉は思い出していた。あの甘い匂いは肉の腐る臭いに似ていた、と。

今回はお付き合い頂き、ありがとうございます。妖怪物好きが高じて、遂に書き始めてしまいました。二〜三週間に一度程度の更新になってしまうのですが、これからも宜しくお願いします。

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