1 視
その日、彼は久々に夕立なんてものに出会った。大柄な体を激しい雨が打つ様は、巌に滝が当たるのを思わせる。元々そうなのだが、今は雨に打たれた不機嫌さで、彼は人でも殴り殺しそうな顔をしていた。体格の良い強面の男。周りの人々は露骨に視線を避け、それがまた彼の表情の悪さに一役買っていた。
――朝は晴れてたのにな。
異常気象の為か、ここ数年は夕立などと言う季節の風物詩は見られなかった。それが、人々が忘れた頃にやってきたものだから、通りの誰もが傘など持ってはいない。当然、彼も両手共に手ぶらだった。
仕方無しに彼――鴻上卓哉は近くの店の軒下へと駆け込んだ。夕立ならば、長くても1時間しない内に止むだろう。そう急ぐ用事が在る訳でもないし、暇ではあるが暫くここに居れば良い。そんな風に思い、ぼんやりと雨の降る街中を見ていた。
急な雨に慌てて自分の鞄を傘代わりに走るサラリーマン。開き直っているのか、生来の無邪気さなのか、歓声を上げながら跳ね回る子供達。様々な人が、それでも目的地へと足を向けていた。そんな中……
――え?
何故か、一人の少年が目に止まった。車道を挟んだ向かいの歩道の上。雨の中、傘も差さずに佇んでいる。俯いたままで、息をしているのかも怪しい。その様子は、このまま雨に流され、空気に溶けて行く気すらした。
「あっ……」
どうしてそんな風に思ったのか、理解する寸前に少年が顔を上げた。卓也の視線に気づいたように、真っ直ぐにこちらを見る。目が、合った。
――しまった……
後悔したものの、遅い。確りと彼はこちらを見ている。瞬間、雨に追われて走っていた女性が、少年の身体を通り抜けて向かいの歩道を横切って行った。苦い顔をしながら、卓哉は無意識に背広の内ポケットから煙草を出す。
少年が消え入りそうだった理由は簡単だ。誰も……そう、その場に居た卓哉以外の人間誰もが、少年の存在を無視していたからだ。いや、無視とは違う。無視ならば、少なくともその場に少年が存在している事を認めている。けれども、そうではなかった。誰もが彼を見る事すら能わない。
今時珍しい程の漆黒の髪に、俯いていた時ですら分かる程の容姿の整った少年。なのに、誰もが視線すら向ける事も無くその場を通り過ぎていく。卓哉と同じ軒下で雨宿りをしている人々もそうだ。卓哉以外、誰も少年の存在に気づかない。
目を逸らすべきか、それとも視線はそのままで、放っておくべきか、卓也は逡巡する。そうしながらも結局、卓哉は視線を逸らせずにいた。
――泣いて、いる……?
そんな気がしたからだ。雨で随分とずぶ濡れで、顔を伝うのが何なのか分かる筈もないのに。何故だか、そう感じられたのだ。最早、視線は縫い付けられたかの様に動かせない。そんな卓哉を見て、少年はほんの少しだけ首を傾げた。何かを確認する様に、空ろな瞳で卓也を観察する。
暫くの間、そうして二人は見詰め合っていた。時折、車道を走る車が二人の間を通ったが、それを通して少年の視線は卓也に突き刺さっている。何台目かの車が横切った後、少年の瞳の表情が変わった。さっきまでの空ろさとは違い、そこには生きた者だけが持つ光がある。完全な黒に輝くその瞳で卓也を見詰めながら、少年はその顔に笑みを浮かべた。悪い予感が、した。
「…………」
笑んだ形から、唇が何か言葉を作り出す。それなりの距離、強い雨脚が作る轟音、車の音。聞こえる筈など無い。なのに……
聞こえない筈の声が聞こえた気がして、思わず卓也は目を閉じた。その眉間には、深く皺が刻まれている。大きくため息をつきながら目を開けたが、案の定もう少年の姿はそこに無かった。これから何が起きるのか、考えるだけで頭痛がする。卓也は苦虫を噛み潰した様な顔で、内ポケットから煙草を取り出す。重い気持ちで煙を吐き出す卓也の耳に、先程の言葉が木霊した。
『そこに、行くよ……』
冗談では無いぞと小さく呟く。だがその言葉は、無情な雨に掻き消されて行った。