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狭間の女  作者: 春田夏木
7/8

後編:男(1)

少し長くなりました。

-7-


「いてえ……う……」


 尋常ではなかった。激しい痛み。体のあらゆる箇所が痛んだ。大声で叫んで痛みを発散させようにも満足に声すら出ない。


 地を這いずるような声とも言い難い音しか出なかった。


 ストレッチャーの上で暴れたせいで床に落ち、その状態から動けずに10分が経つ。


「なんだ……これ……」


 呟いてみたものの胸部や顔が痛むだけで無論、言葉になって聞こえることもなかった。


 激しい痛みはあるものの、少し考える脳が起きてきたのか自分の体の怪我の具合を考える。


 まず視界が不良なのは顔が腫れているからなのだろう。そして顔の中心部が鼓動と同時に脈打って痛い。鼻骨骨折だろうか。呼吸もしずらい。落下の衝撃で内臓もやられたのかもしれない。頭痛はもちろんのこと、一番の不都合は骨盤がやられているということ。


 俺が立ち上がれずにいる原因はそれだった。素人の俺でもそれくらいは分かる。何より当事者なのだから。


 そこまで考えて気になることが出てきた。


「……」


 ここまで痛いと言うのに血は一滴たりとも出てきていない。これは不幸中の幸いと言うべきかもしれない。






 人が来るかもしれない、それに賭けて痛みをこらえてジッとすること早40分。


 この飾り気のない霊安室に壁かけの時計があるのは救いだった。時間がわからないことほど不安で焦るものはない。二度とごめんだ。


「くうぅ……」


 ここが病室であればナースコールができた。しかしここは霊安室。死人の横たわる部屋にそんなものがあるはずがない。


 少し前――15分前くらいだろうか――にこの部屋の前を通る人の気配がした。 

 手首に強烈な痛みを感じるものの動かせる右手の肘でストレッチャーを押してガチャガチャと音をたてるが、ストッパーがあるせいで大した音は出ない。それでも残念なことに足音は遠ざかった。


「くそ……クソぉ……」


 苦痛に顔を歪めてうつ伏せの体をどうにかして起こそうとするが力が入らない。唯一使える右手も肘から上だけだし、下半身はどうしようもない。耐え切れず再び脱力した。

 時計の秒針が時を刻む音だけが響いている。

 人は来ない。


 それからまた10分が過ぎようとしている。

 

 ――開けてください……お願いしますよ。


 唐突に外から声が聞こえた。

 女の声だ。もう一人は男。声は聞こえないが、他にもたくさんの人の気配がする。


「あ……う…………」


 扉の鍵が開く音がして数秒後にゆっくりとドアが開いた。

 俺は短い悲鳴を聞きながら、もう限界だった。






 人の顔を見て、その目が確かに俺を見ていることに安堵したのか、あのまま霊安室の冷たい床の上で気を失ったようだった。

 視界は相変わらず不良で、どうもぼやけて見える。それでも目の前に居るのが誰なのかくらいは分かる。


「兄貴! 兄貴! 起きた!」


 体に抱きついているのは紛れもない、弟の貴也だった。一瞬何かの間違いかと思うほどの衝撃を受けた。貴也が泣いていたからだ。


「先生! 来て! 兄貴が!」


 俺の頭上にあるらしいナースコールを押した貴也は興奮している。


『大久保さん落ち着いてください。大丈夫ですか? すぐ向かいますからね』


 頭上から女性の柔らかい声が聞こえる。すぐに通信が切れ、足音が近づいてきたかと思えば先ほどの声の主が現れた。

 どうやら彼女ひとりではないらしい。低めの声の女性が貴也に近寄った。


「弟さんは少し外で待っていてくださいね」


 そう言われると貴也は素直にその女性に腕を引かれながら部屋の外に出た。

 それと入れ違いに、先生と呼ばれている男が俺の顔を覗き込んだ。目の前で指をふらふらと動かされる。反射的にそれを目で追う。


「おっけーおっけー」


 そう言うとすぐに視界から消えた。


「先生、意識戻りましたね」

「おう。バイタルはどう?」

「安定してます」


 心地よい優しい声色の看護師と男性医師の会話は意味のわからない単語ばかりだったが、どうやら俺は頭を固定されているらしい。どうりでこれ以上頭が動かないわけだ。

 ガチャガチャと何かを準備している音がうるさい中、周りに人の気配が充満しているのに気付いた。俺の狭い視界の中にもふたり以外に3人が確認できる。


「わかる? ここ病院だぞ」

「あ……」

「ああ声出ずらいかな。肋骨折れて肺に刺さってたからね。我慢してくれるかな。右手動かせると思うんだけど、やってみて」


 やってみろと言うが右手首がジンジンする。しかしそれは痛みというよりも脈打っているのを強く感じるだけだったから言われたとおりに右手を上げる。


「おお、いいねいいね。問題なさそうだね。質問するからイェスなら動かして、ノーなら動かさないで」


 イェスなので軽く浮かせる。


「君は大久保朋也さんかな」


 動かす。


「ええーっと……間違いないね」


 これは問いではなく自分に言い聞かせているようだ。


「あ……の……」

「喋りたいか」


 顎を掻きながら医師は少し考えたのち、酸素マスクを軽くずらしてくれた。


「痛み止めと麻酔がまだ効いてるから何も感じないだろうけど、大久保さんの体は重傷だからね。無理に喋らないように」

「おれ、いきてる」

「……そうだね」


 医師はそれだけ言うと看護師に何かを耳打ちして部屋から出て行った。


「あの」


 色々と訊きたいことがある。仕方なく挙動不審な看護師に声をかけた。


「は……はい、なんでしょうか」

「ここは」

「SICUです。かなり重篤な症状だったんですよ。こっちの心臓が止まるかと思って――」


 しまった、と思ったのかあからさまに目を逸らして作り笑いを浮かべて何やら作業に戻った。

 俺はそんな看護師を目で追いながらSICUとは何の略なのかと考えてICUと似たようなものかと自己完結させる。たしか集中治療室だったと思う。


「自分も……安心、しましたよ……死んだかと思って」


 笑おうとするも顔の皮膚が引きつって不快なのでやめる。


「俺を見つけたのは……誰」

「事務員の方だそうです。女性の。ちょっと用があって霊安室の前を通ったら変な音がしたってことで警備員さんも呼んで確認に行ったら大久保さんが倒れてて」


 あの悲鳴を上げた人だろうと推測する。異音に気づいてくれたことに感謝だ。

 看護師は俺の足元に移動して右ふくらはぎを触っている。見えないからよくわからないが包帯か何かを巻き直しているようだ。


「あとは警備員さんの他に、リハビリ室の男性を3人連れてたみたいです。覚えてませんか? それも仕方ないのかな。皆さんが駆け寄ったのと同時に気を失われたようですからね」


 そこまで言うと手を止めて俺から離れた。


「やだ、もう来ちゃった。大久保さん気分悪くありませんか?」


 走り寄ってきた看護師はぶつくさ言いながらも点滴の位置を移動させて、いくつか椅子をベッド横に寄せる。


「誰が来たんですか」

「警察の方が」


 そうする必要があるのか疑問だが看護師は耳打ちでそっと言った。


「やだなー本当やだー」


 誰に言うでもなく小声で呟くと大きく息を吐いてベッドから離れた。看護師は小走りにドアまで行き、数秒後には煙の臭いと共に警察官が2名入ってきた。


「どうも、新宿警察署の谷川といいます」

「同じく横田です。昨日とは違ってお元気そうで何よりです」


 明らかに無理矢理作ったような笑顔の横田と、怪訝そうな顔を隠さない谷川。

 この谷川という名前には聞き憶えがあった。


「何か、用ですか」

「ええ。ふたつみっつ訊きたいんですが……小山さん退室願えますか」

「わかりました。ただ、大久保さんはまだ輸血途中ですから、くれぐれも無理させないようにお願いします。失礼します」


 小山と呼ばれた看護師は淑やかに逃げるように病室――SICUから出て行った。

 ドアが閉まるのを確認し、谷川は音を立ててパイプ椅子を引くと乱暴に座った。どうも大きな音がすると耳がキンキンする。谷川から漂う煙たさも不快だ。横田は俺の視界には入っていない。

 谷川は内ポケットから手帳を出すとペンを走らせ、ページをめくり、指を止め、俺の顔を凝視した。


「……あの」

「自分の名前言えるか。フルネームで。生年月日と歳も」


 矢継ぎ早に質問すると、俺が答えるのを待っている。


 俺はというと頭は上を向いたまま目線を谷川に向け続けるのが辛くなってきた。諦めて目線を天井に戻して呼吸を整える。


「大久保朋也。1983年、10月8日生まれの、26歳」

「昭和何年」

「…………出てきません」

「答えろ。考えろ」

「頭が回らないんです」

「ふざけるな!」


 肩を掴む勢いで突っかかってくる谷川を止めたのは横田だった。


「ケガ人ですよ。ちょっと落ち着きましょう」

「うっせえ! これが落ち着いてられるか……」


 鼻息荒く谷川は俺を指さす。何か化け物でも見るかのような視線に俺は心の中で頭を抱えた。この人たちは俺の死亡を確認しているはずだ。あのとき聞いた会話に出てきた谷川と、今目の前に居る谷川は同一人物とみていいだろう。


「死人が……死人がなんで生きてんだよ」


 頭を掻きむしりながら再びパイプ椅子に大きな音をたてて座ると俺を睨んだ。


「大久保さん。あなた確かに死んだはずなんですよ。馬鹿みたいな話ですが」


 横田が俺の視界の真ん中に飛び込んできた。短髪で見た目爽やかで清潔感がある。

 不自然に笑い、「信じられませんよね。僕たちもです」と気持ち悪いくらいに目を細めた。彼は笑ってるつもりだろうが、どう見ても笑えていない。頬の筋肉がピクピクと動いている。


「なぜ生きてるんですか」

「そんなこと訊かれても……何、言ってるんですか。俺生きてますし」

「ええ。ですから、なぜ生きてるのか不思議で不思議で……あなたにこうして訊いてるんです」

「知りませんよ。そもそも、俺がいつ死んだんですか、勝手に、殺さないでくださいよ」

「自殺しましたか?」

「してません」

「自殺しようとは?」

「……してません」

「でもなあ。じゃあなんで、死んだんだ?」

「俺は、死んでませんよ」

「だぁ、かぁ、らぁ」


 眉間にしわを寄せるとそのまま視界から消えた。

 間髪入れず目の前に何か文字の書かれた紙が飛び込んでくる。


「これ。ここに書いてる文字読める? 今日午後1時に遺体引き取り予定、カッコ業者カッコ閉じる。生きてる人を霊安室には安置しないし、遺体なんて書かないんですよ」


 わかる? と紙が退()けられると鬼の形相の横田が鋭く睨んできた。

 これはややこしいことになってしまった。俺は生き還らないほうがよかったのではないかと思い始める。


 そうこうしてしばしの押し問答を繰り返していると頭の奥がズキズキと脈打ち、目を開けているのも億劫なほどの痛みが襲ってきた。声を上げるほどの痛みでもないせいで反応に困る。


 俺の異変に気付いたのか横田がナースコールで小山を呼んだ。


 何十秒としないうちに駆けつけた小山は、まず俺の目を診た。手や足先を触り、声をかけられる。異常がないとみると、次にあれこれと俺に繋がったチューブの先っちょの機械を見て回った。

 その間、谷川と横田は小声で何か話しているように思ったが、何にしろ頭がぼやっとして定かではない。


「大久保さん聞こえる? ちょっと脳が心配だから検査に行くよ。わかった?」


 いつの間にか来ていた男性医師は俺にそう言った。

 俺はそれに返事をすることなく目を閉じてしまった。なんとか我慢しようとしたが耐え切れず、そのまま意識が遠退いていくのが自分でわかった。






 俺は子どものころからニット帽が嫌いだ。

 その理由は簡単。被るとなぜか心が落ち着かず、かゆくなるからだった。ニット帽だけでなく、野球帽でも小学生の時に被っていた赤白帽も例外ではない。


 どうしてそんな話をするのかというと、頭に似たような歯がゆさを感じるからである。


 目を開けると、さっきと何ら変わりのない天井が真っ先に飛び込んできた。横を見ようと首を右に動かすとそこに小山看護師がいて、そして首が固定されていないことに気付いた。どうりで首回りが軽いわけだ。その代りに頭が気になって気になって、ギプスで重く動かしにくい右手を上げてどうにか指先だけで頭の異物に触れることができた。が、指先に感覚がなく何が何だかわからない。


「あ、起きましたね。おはようございます。触らないでくださいね、頭の手術したのでネット被せてあります」

「……小山さん」

「あれ名前いつの間に」


 ふわっと花のような笑みを満開にさせて「警察の人に訊きました?」と首をかしげながら俺の手を布団の上に下ろさせる。


「俺は」

「また意識失っちゃって……脳内で出血してたんですよ。でも心配いりません。手術しましたから!」


 手に持っている紙を見せられる。読んでもさっぱりだったがカルテか何かだろう。俺の名前が書かれている。

 カルテなんかどうでもいい。訊きたいことがある。とても大事なことだ。


「あの、ひとついいですか?」

「はいどうぞ」


 小山はペンを走らせる手を止め、ボールペンを胸ポケットに差す。にこやかな表情で俺の言葉を待っている。


「今何時ですか?」

「時間? 夜の10時18分28……30秒ですね」


 右手首の腕時計を見、細かく秒数まで教えてくれた。


 訊きたいことがそれかと言いたげな目ではあったが何も言ってこない。彼女は堅苦しさはないものの友達同士のような軽い会話はしないのだろう。俺より年下か同い年か……看護師というのはこういうものなのだろうか。


「夜ってことは、それじゃあその意識失ったときはお昼か夕方ですか?」


 全ての動きを止めて、こちらを見る。口が半開きだ。

 やや沈黙。


「そうですね。夕方です。ただ、前日の、です」

「――ってことは」

「24時間以上眠ってらしたんです」

「じゃあ」

「だいたいですけど、霊安室にいた大久保さんを発見したのが正午で、SICUで目覚めたのがその日の夕方です。と言っても7時前なんだけど――それから今ですね」


 俺は再びの嫌な時間のズレに嘆息する。まさか生き還ってからも時間を飛び越えるとは思っていなかった。――意識がなかっただけなのだが。


「びっくりしますよね。よくあるんです。タイムマシンで未来に来た、みたいな」

「そうですか」

「……そうだ、体温測らせてください」


 前言撤回する。案外軽い会話をする看護師だ。

 腰辺りのポケットから体温計を出すと、てっきり脇に挟むと思っていたのに耳の穴に差し込んで数秒で「ありがとうございます」と体温を確認するとポケットに仕舞った。

 ボールペンで手の甲に体温を書いてひとりで頷いている。


「おっけーです。微熱あるけど問題ないですよ、数日もすれば平熱に戻ると思いますから――そうそう、2回目の意識不明のときは40度の高熱だったんです。あんなのでよく警察と話できましたね、そっちが驚きです。もう警察も細かいことはどうだっていいじゃないですか。ねえ」


 「そう思いません?」と頬を膨らませてあのときと似たような表情になった。SICUに谷口と横田が訪ねて来たときと同じだ。心底面倒そうである。


「小山さんは細かいことはどうでもいいんですか?」

「だってそうじゃありません? あ、仕事に関しては細かすぎるくらい細かいですよ。医療は小さなミスが命に直接関係してきますから。うやむやになんてしません」

「それと一緒じゃ……」

「じゃあ大久保さんは警察が納得するように細かくまでお話したんですか? 警察に」


 小山は軽く腰をかがめて顔を近づけてくる。


「こんな超常現象みたいなこと」

「超常現象?」

「大久保さん幽体離脱してたんじゃありませんかね。わたしの見立てではそうなんです」

「幽体離脱?」

「わたしも幽体離脱したことがあって……誰も信じてくれないんですけどね」


 少し前の俺であればこんなことを言う看護師の頭を心配するものだが、今なら少し信じる気にもなる。

 幽体離脱――俺はしたのだろうか。


「何も覚えてません?」

「……いえ、特には」

「ということはぼんやりと?」

「……何も」

「そうですか。それにしても不思議ですね。いや、怖い。心臓が止まって呼吸もしていない人間が1日以上経ってから生き返るなんて……」


 この話を続けるつもりなのか近くに置いてあるイスを掴み寄せ、それに腰掛けた。

 俺はこんな話を広げるつもりは毛頭ないのだが。しかしもしかすれば警察を納得させるような結論に行きつくかもしれない。俺ひとりでは全くどう説明すれば一番いいのかわからないから、ちょうどいいのかもしれない。


「俺は本当に死んでいたんですか?」

「ええ、それは立派に……あ」


 軽く笑ってごまかす小山に苦笑を返す。


「救急車で運ばれて、死亡確認がされたのが新宿の病院なんです。それから警察署に引き取られて、弟さんがそこからここに遺体――大久保さんを運ばせて、そのときに山崎先生が診てます。わたしも見ましたよ」

「やまさき?」

「担当医です。さっき一度会いましたよね、意識失う前に」


 ああ、あの人かと思いながらも俺は頭を悩ませた。少なくとも俺の死を目で見た人物が7人はいることになる。実際はもっといるだろうことは確かだ。

 こんなことが外に知れたら大事になる。メディアや新聞に大きく見出しが載ったりするのだろうか。

 穏便に何事もなかったように済ませるにはどうすればいいか、ひとつしか思い浮かばない。


「……誤診、じゃないですか?」


 さっきよりも長い沈黙が流れる。


「はい?」

「いや……誤診ってことにできないんですか? って意味です」

「それはまずいですよ~。その前に死亡の誤診なんてありえませんって」


 言ってから後悔した。小山の言うとおりだ。もしできたとしても故意じゃないとありえない。そうなれば死亡確認をした医師に警察の目が向いてしまう。山崎医師にも。


「もしかして、死んだことをなかったことにしたいんですか?」

「そういうわけじゃ」

「イコールあの死の1日を覚えてるってことですね」

「はあ?」

「ですから、幽体離脱してた記憶があるんですよね。それか何かを知っているから、そんなに悩んでるんです。じゃなきゃ警察には知らん顔してればいいだけですもん。そもそも普通は目覚めていきなり死んでたんですよ、とか言われれば混乱したり怒ったりするもんじゃないですか。おかしいですよ」

「知りません」


 なごやかでない空気が間に流れ、無機質な機械の音だけが鳴っている。小山は居心地が悪くなったのかゆっくり立ち上がると静かにカルテを手に取った。


「そろそろ仕事に戻りますね。ちょっと喋りすぎちゃいました。失礼しまぁす」


 ドアが閉まる音がしてからは、一気に静けさがやってきた。 

 薄暗い中、天井を見ながら小山の言葉を思い出す。なかったことにするには、しらを切り通すしかないのか……。






「やっと起きた……おはよう」

「貴也?」


 目の前には弟がいた。


 昨夜あのまま考え続け、気付くと眠っていた。そして朝、寝起き早々騒がしい周りに疲れた俺は担当医の山崎や整形外科やら脳外科やらの医師が去ってから、自発的に眠りに落ちた。

 途中、小山に起こされ、ぼんやりした中で採血された記憶がある。

 あとは何か触られるような感触はあったが、目を開けることはなかっただろう。


 それからどれくらいが経ったのか確かめようと首をめぐらし、目玉を精いっぱい動かすが時計はない。


「17時過ぎだけど」


 腕時計を見せながらそう言う貴也に、やはり違和感しかない。まるで別人だ。


「兄貴疲れてる?」

「……なんだよ」


 病院の関係者や警察――谷川と横田――他にも数名の偉い学者、面倒なことに午前中は「少し話を」の嵐だった。白衣の天使かと思うほどの気配り上手で笑顔の素晴らしい小山看護師も少しうざったく感じるほどで、それに昨夜のこともあってか少し遠慮がちだ。その遠慮が更にうざったい。

 だから正直なところ貴也の言うとおり俺は疲れている。しかし一番の理由は痛み止めの座薬を入れていても全身が痛いということなのだが。


「俺って死んだのか?」

「……死んだと思うけど。戸籍上では生きてる」

「戸籍?」

「もう俺も混乱してて……死にましたよっていうのを受け入れたら、次は緊急手術中ですって、なんだよそれ」


 床に置いた鞄からクリアファイルに挟まった何かを取り出す。

 中から出てきたのは死亡届と書かれた薄っぺらい紙だった。いかにもな黒いラインがいやな気分にさせる。そこには新宿の病院で深夜、夜勤中だった歳の若い医師のサインとハンコがある。死亡診断をした人物だ。もちろん貴也のサインもある。


「これ病院側で処理するって言ってたけど、どうしても……俺が出すつもりで持ってたのに出せなくて」

「そういうことか」


 死亡届が出されていないとなれば俺は、貴也の言うとおり戸籍上は死んでいない。ピンピンしている。


「だから俺は死んでないんだよ」

「どういう意味?」

「おまえ――貴也が死亡届を出さなかったから、俺は死んでなかった」


 相変わらず突拍子もない話だがしょうがない。これを無理矢理でも押し通せばいいじゃないか。他に方法がないのだから。――あるとすれば全てを正直に話す、だが、これは精神疾患を疑われそうなので早々から却下だ。


「なんだそれ……そんなわけないだろ」

「そうじゃなきゃ説明つかねえだろ」


 優しくたしなめるように言うと貴也はそれ以上何も言わず口をつぐんだ。


 いくら弟であっても話すべきではないだろう。本当のことは俺以外は知らなくていい。多田と、沙織と。

 科学じゃ解明できないことは世の中に存在する。幽体離脱を信じる小山看護師であれば、胸を躍らせて聞くだろう話がある。

 だとしても、それは俺が墓場まで持っていくべき話だ。






「それじゃ退院の準備は完了ですね」


 いつも以上に明るい声色の小山は目尻にしわを寄せて満面の笑みを見せている。それにつられて隣のベッドで横になっているひげ面のおじさんが笑う。


 周囲の人たちの首を何度も捻らせる毎日が過ぎて、ひと月が経ったある日、谷川と横田はスッパリと来なくなった。その前日も同様に病室へ来て、いつもと同じ会話を繰り返し、そのまま納得することなく帰ると思いきや、その日は違った。「今回の件は俺と横田の勘違いということで終わらせます」と言い、ふたり揃って疲れ果てた顔をして病室を後にした。押し通せばどうにかなるものだと俺は学んだ。


「朋也も退院か、寂しくなるな」

「変なことするから治りが遅いんですよ。安静にしてればこんなに長引かなかったのに」


 ここ、3階の東側の病棟には整形外科にかかっている患者ばかりが集まっている。つまりこの病室にも骨折の患者しかいない。彼はバイク事故で股関節を骨折しているらしいが詳しくは聞いていない。他に、高校生と俺と同い年ほどの男のふたりがいる。

 この病室に移ったのはひと月前。手術をしてから1週間でSICUを出られた。しかし痛み止めが少しでも切れると容赦ない痛みが全身を襲うため、それから2カ月は個室で過ごした。ひと月という短い期間だったが彼らとはなかなかいい具合に打ち解けられたと思う。以前の自分では考えられない。


 今は朝の7時過ぎ。検温の時間である。この3ヶ月間、毎朝同じ会話をしてきたがそれも今日で終わりだ。


「はい、大久保さんもお願いしますね」

「はいはい」


 渡されたのは体温計だ。慣れた手つきでそれを左脇に挟む。この入院生活中に右手首の骨折は完治しているからだいたいのことは自分でできる。


「最後なんだからあの耳でピってやつでやってくださいよ」

「だからあれは緊急性のあるときと、小さな子供にしか使わないんですって」

「あのときって緊急性ありましたっけ?」

「いや、だからあれは満身創痍の大久保さんじゃ脇に挟めなかったからですよ。何回言わせるんですか」


 カーテンの閉じられた隣のベッドに行ったため顔は見えないが、本気で怒っているわけではないのは声でわかる。


「お前ガキだなあ。そんなに耳でピってされたいのかよ」


 そのカーテンの向こうから浩二が笑った。浩二はさきに言った俺と年の近い大学院生だ。入院中に一番会話をした人物は彼だろう。

 病室がドッと沸くと、浩二がカーテンを開けた。


「そんなにやりたいなら退院してから買えよ。売ってますよね」


 訊かれた小山は顔だけで頷き、ポケットからあの日以来見なかった耳式の体温計が出された。


「もう一度きちんと説明しておきます。これ、あんまり精確ではないんです。たいした誤差でもないけど、やっぱり誤差は誤差ですから。よっぽどじゃない限り使うのは(うと)まれますね」

「らしいよ、ちゃんと聞いた?」


 俺はそこまで耳式体温計を使われたいわけではないのだが、こうして話題があると、静かな入院生活も少しは楽しくなるものだった。どんな小さなことも面白いという奇妙な気持ちで過ごしてきた俺も、とうとう今日の夕刻には晴れて退院だ。体温計の電子音を聞きながら少し感傷に浸ってしまう。






 現在の時刻は午後16時、俺は弟と共にナースステーションに来ている。


 午前中にレントゲンを撮りに行き、医師や技師に「おめでとう」と言われ、リハビリ室で「おめでとう」と言われ、やっと病室で一息ついていると脳神経外科の医師が来て「順調すぎる回復だ」と頭をなでられ、すれ違う看護師たちからは口々に「おめでとうございます」の嵐。退院の日だというのに最後の最後で疲れるという散々な一日だった。


「これ、皆さんで分けて食べてください。おやつにでも」


 弟の貴也が小山に差し出したのは百貨店で買ってきたという菓子折りだ。小山はいつも通りの笑みで受け取った。


「クッキーわたし大好きなんです。これ何個入りなんですかね?」

「全部で16個です。もしかして皆さんの分に足りませんか? やっちゃったな……」

「いえいえ大丈夫です。ひとつずつ配れば十分行きわたりますよ。みっつ食べちゃおっかな」

「食い意地張りすぎ」


 背を向けたままそう言うと瞬間、刺すような視線を感じ、振り向くとやはり小山が俺を睨んでいた。しかしパッと笑顔になり、貴也に向き直る。


「わざわざこんな贅沢な物、ありがとうございます」

「値の張るものじゃありませんが、お世話になったせめてものお礼ですから」

「お礼だなんて、お世話するのがわたしたちの仕事ですから――でもありがとうございます」


 歯を見せて満面の笑みの小山はふと視線を落とし、時計に目をやる。俺も思い出したようにナースステーションの時計を見れば、そろそろタクシーの来る時間だ。退院とはいえ、実はまだまだ完治には程遠い。担当医の山崎医師は俺の退院をずっと渋っていた。その理由は骨盤の骨折だ。まだボルトが入っている。動けるもののこれからしばらく松葉杖が手放せない。

 そのうえ松葉杖を遣って歩くのも、脚も骨折していたせいで筋力は落ちていて非常に不安定だ。

 歩くときはリハビリ中に言われたとおり、ゆっくり焦らず無理をせず、を守らなければ転倒するだろう。そしてひげ面の男のように完治が遠のくのだ。


「そろそろ行きます」


 小山にそう言い、頭を下げるとふらつく体を貴也が横から支え、俺と同じく深く腰を折った。


「やめてくださいよ、なんだか寂しくなります。本当に無理しないでくださいね、できるだけ安静に」

「わかってます。無理するほど体が動かないんで」

「そうですよね、そんな体で退院するなんて……」

「馬鹿な兄貴ですみません」

「馬鹿ってお前」


 小声で三人が笑い合い、少し後ろ髪をひかれながらも、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。

 扉が閉まる瞬間まで小山は笑いながら手を振っていた。






 大方の荷物は前日に貴也が運び出してくれていたが、ほんの少し残っていた物をタクシーに積まなければならなかった。運転手と貴也がトランクに積んでいる間、俺は時間をかけてゆっくりと車内に乗り込み、貴也とタッチの差で早く乗ってきた運転手に行き先を告げる。


 退院したら、真っ先に行かなければならない場所がある。

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