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狭間の女  作者: 春田夏木
6/8

中編:男(3)

-6-


 大きなガラスの窓からは燦々と光が差し込んでいる。俺が居るのは面会ルームと銘打たれている場所だ。


 すぐ近くでは、俺が居るとは夢にも思わないだろう高校生のカップルが仲よさげに話をしている。彼女は車椅子に乗っていて、どうやら脚の骨折をしているよう。話を聞いていると彼氏は学校をさぼってお見舞いに来たらしく彼女に怒られていた。それでも彼女は嬉しそうにしているのを見て、その場を離れた。






 どうしようもなかった。

 俺はこのまま体には戻れず、6時間後には火葬され、一生が終わるのだ。


 そもそも死を宣告された体に戻ったとして、そこで俺が生き返る可能性は果たしてどれだけあるのか。しばらくあの殺風景な霊安室で俺の体を見つめて呆然と立ち尽くしていたが、あと15時間もここに居るわけにはいかないと思い立ち、気付くと母の病室に来ていた。


 この階には内臓の悪い患者が多かったはずだ。


 母は数年前から腎不全で人工透析を定期的に行っていたが、半年前に合併症を起こしてからは入院生活を余儀なくされている。詳しい説明は父と母しか聞いていないせいで俺は詳しいことは何も知らない。以前の俺は興味すらなかったのだ。だから知ろうとも思わなかった。余命わずかだとかそういう大きな病気――例えば癌とかであればもっと踏み込んで訊いていただろう。


 しかし、俺は自分の事で精いっぱいだった。仕事を首にされないよう、上司に媚びを売り、無理をしてでも残業、残業……そうして気がつけば父は交通事故で死に、母は緊急入院だ。


 心配はしたものの、母は心配いらないと言った。

 俺は、余計な迷惑かけるなと酷いことを言った。

 母は笑いながらごめんねと言った。月に数回見舞いに行けば、来なくてもよかったのにと俺の体を心配してくれた。


 その母が今目の前に居る。


 白いシーツの上で眠っている。ひどく痩せたように見える母は、顔色も悪かったが静かな寝息で生きていると分かる。


「母さん。寝てんのか」


 聞こえるはずもないのに俺は話しかけた。


「俺、死んじゃったよ。もっとお見舞いに来ればよかったな……母さんもうすぐ退院だろ、荷物の整理とか貴也呼びつけてやらせろよ。自分だけでしようとすんじゃねえぞ」


 俺は死にたくない。初めてそう思った。


「入院費用とかは心配いらないよ。親父の保険と貯金あるから……まあ生活は苦しくなるだろうけど貴也も居るんだし無理すんなよ」


「俺最低だ。本当にごめん」


 自殺なんて考えなければよかった。母に背を向け、窓の外に意識を集中させた。


「いやだねえ……」


 ハッと振りかえると母が顔だけをこちらに向けて微笑んでいた。


「か、母さん?」

「貴也ったら変なところが抜けてるのね」


 笑みを崩さずそう言う母の焦点は確かに俺の眼に合っていた。


「死んだ死んだ、って病室でそんなこと大声で言わないでってたしなめたんだけど、それに理由を訊いても自殺だなんだってわけのわからないこと……朋也生きてるじゃないの」


 ふふ、と力なく笑いながら布団の中から左手を出し、伸ばしてきた。

 その手と母の顔を交互に見、自嘲的な笑みがこぼれた。


「やだわ、病人が手を握って欲しがってるのに何照れてるの? 年頃の男子じゃないんだから」


 母はいつもの俺が見舞いに来たときと何も変わらない様子で顔をしかめた。こんな風に自分のことを病人と言ったのは初めてだったが。


「……母さん?」


 おずおず口にすると、なによ、とふてくされてそう返してきた。


「見えるの、俺が」

「わたしは目だけはいいんだけどね」

「聞こえるのか」

「耳だって悪くないわよ。悪いのは腎臓。まさか朋也、母さんがどうして入院してるか理解してなかったの?」


 目を見開いて大げさにおどけている。


「ほら」


 顔色と同様白い手を、ベッドの外でぶらぶらさせて手を握れと催促してくる。

 どうせすり抜ける、そう思いながら母の手を握った。


「マジで……」

「何がよ」


 左右に揺れていた母の手が止まっていた。


 俺は母の手を握っていた。


「なんで……」


 俺の思い違いなんかじゃなく、はっきりと母の手のぬくもりが感じられる。

 こちらに戻ってきてから何かに触る、というのはこれが初めてだ。


「……母さんちょっと痩せた?」

「あら、分かる? 嫌ねえ。病院食が低カロリーだからかしら」

「半年も入院してるんだもんな」

「そうよ。でも……もうすぐ退院だから」


 退院だというのに大して嬉しそうではない。目を伏せて小さく息を吐いている。


「嬉しくないのかよ」

「嬉しいに決まってるでしょ」


 そう言うと布団の中にしまっていた右手を出して枕元に置いてあるリモコンに手を伸ばした。慣れた手つきでボタンを押すと、母の寝ているベッドの頭部分が持ち上がった。


 ――そうか、何かがいつもと違うと思っていたが、ベッドの背が倒れたままだったのだ。いつもはこうして45度くらい起き上っていた。そこに母はもたれかかり、俺が来ると笑顔で手を振っていたのだ。


 母がボタンから指を離すと結構な音量で響いていた機械音が止まり、母は右手で体重を支えて体勢を直す。


「よいしょっと」


 たったそれだけの動きで息が切れている。本人はどうもない風を装っているようだが、例えば――走った後、苦しくてハアハアと口で息をしたいときに、恥ずかしいからといって我慢をすると鼻の穴が開いたりする。周りの人間は息苦しいなら素直にすればいいのにと思っても、本人は誰にも気付かれていないと思っている、それに似たような感じがする。実際に鼻の穴が開いているわけではない。


「それで……朋也はここに何しに来たの?」


 唐突だった。

 さっきまでとは違う空気が漂う。病室は初めから静かだったが静かすぎて耳が痛い。


「朋也は死んだの?」

「……俺は死んだ」

「生きてるわ」


 妙なことを言う。


「生きてるじゃないの。それじゃあ今こうして会話してるあなたは誰かしら」

「俺だ」

「朋也でしょ?」

「そう」


 でも違う。大久保朋也は、あの肉体とこの魂が一緒だからこそ存在し得るものだ。魂だけの今の俺は、母の言う朋也ではないだろう。


「朋也――あなたはあなたよ」


 目尻にしわを寄せて口角を上げるパジャマ姿の母は、いつもの愛に溢れた優しい母そのままだった。


「母さんに何がわかるんだ!」


 俺はもう体に戻れない。大久保朋也は死んだ。そう思うと母の言葉が頭にきた。母に緩く握られた手を振り払い、背を向け、窓の外に視線を移した。


「何に苛立ってるの。朋也、いい話をしてあげるわ。――体と魂の話」

「魂……」


 心の中で小さく反芻(はんすう)する。


「魂と体は磁石なの。だから何があったって魂は体を求めるし、体だって魂を求める。お互い引き合ってるのよ。人が死ぬのは……魂が死んだとき。体は魂が生きていれば絶対に死なない。死ねないでしょ心配で」


 軽く後ろを見ると母はベッドに背をあずけて目をつぶっていた。


「まあ……信じなきゃ体は愛想尽かして死ぬのかもしれないけどね。朋くんみたいに死んだ死んだって言ってたら本当に死んじゃうわよ」


 ――信じなきゃ叶うもんも叶わないんだ。

 多田の言葉が頭の中に響いた。


 母はおかしい。なぜ気付かなかった。初めに声が聞こえたことからおかしいのだ。

 沙織との出会いを思い出せ。あの日の屋上では沙織は魂だけで、俺は人間だった。俺が沙織を見れたのも触れたのも、俺が死に近づいていたからだろう。


 それなら今のこの状況はなぜか――母があのときの俺と同じ立場にいるからだ。


「……母さん」

「信じればいいの。迷っちゃダメ。本当に戻りたいんでしょ」


 振り返ると母はまだ目を閉じたままで、そう続けた。


「早くしなきゃね。貴也の話じゃ今日中に火葬だって、急がなきゃ」


 目を見張った。もう母は悟っているのだろうか。


「でも……」


 母の体に縋りつくように肩を掴むと、母がゆっくり目を開けた。


「大丈夫」


 そう言いながら、肩を掴んで震えていた俺の手の甲を優しく撫でた。


「こんなところでモタモタしてていいのかしらねえ」

「でも母さん」

「いいの。気にしないで、早く行きなさい。本当の朋也でまたここに来ればいいじゃない」


 目を細める母に俺は何も言えなかった。


「すぐ来るから」


 それだけで精いっぱいだった。






 俺はどうして気がつかなかったのだろう。この半年、ひと月に数回とはいえ見舞っていたのに――いや、(かえ)ってそれだけ会う間隔が空いていたのだから、普通なら変化に気付くはずだ。全てを父に任せて病状もまともに把握していなかった。俺が高校生ならまだしも社会人だ。仕事に必死だったからと言い訳をするもうひとりの自分がたまらなく恥ずかしい。


 目の前には白い布をかぶった俺が居る。


 母や多田や沙織の言ったこと、信じるしかないのだ。

 俺の中にある迷いが体に戻れなかった理由だろう。


 屋上からふたりに突き落とされたあの瞬間、俺の心は無だった。一心に還ることを願い、空っぽだった。


「迷うな俺。体は俺を受け入れてくれる」


 布をかぶったままの体に抱きつくと、固くて冷たいものの懐かしい感触が手のひらから伝わってくる。むなしくすり抜けるばかりだったさっきとは違う。


 そのままどれくらいが経ったか、数秒か、もっと長い時間だったのかもしれない。


 俺は頭が回るような感覚と共に激しい痛みが襲ってきたことで、生き返ったのだと気付いた。

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