中編:男(2)
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とにかく心の中で強く願っていた。
手を痛いくらいに握りしめた。背中から衝撃を感じた直後、一瞬何もないところに浮かんだ感覚があった。しかしその間も考えていたのは自分の体に戻ることだけだった。
いつまで経ってもあの浮遊感の余韻が消えないでいて恐怖から目が開けられなかった。
もしかしたら多田の言うように成仏してしまったのかもしれないと考えかけて、握る手に力を込めた。
俺は今、明らかに地面に足をつけている。
それは確かに足裏から伝わる感覚だった。
「ここは現世だ。俺が元居た場所だ……」
口に出してそう言ってみたものの明確な恐怖が未だ心の中に渦巻いていた。
ところが言葉を発したのがよかったのか、距離感は掴めないものの人の声が聞こえた。どうやら聴覚が機能し始めたらしい。すぐ近くの車のエンジン音も聞きとることができた。多田や沙織の声は聞こえない。気配すら感じない。
「ということはどういうことだ」
覚悟を決め、大きく深呼吸して勢いよく目を開けた。
「ここは」
屋上だった。灰色のセメントがその場の空気を冷たく感じさせる。
あの夜のアクシデントはほんの数十分前という感覚だが、沙織ちゃんの話によるとそうではないらしいし、実際そのようだ。
太陽は低い位置にあり、それが東か西かは見当がつかないが沈みゆく太陽ではないと分かった。
「……朝?」
ふらふらと、沙織と取っ組み合いになった――おそらくこの辺りだろう――屋上の縁に近づいた。
膝をつき、手をかけて下を覗き込む。
人が歩いている。俺はあの二人の言う現世に戻ってこられたのだろうか。俺の体はどこにもなかった。
還ってきたのは確かだろう。なぜならこの屋上は多田のマンションの屋上ではなくて、俺の死を受け入れて手招きしてくれたあの屋上だったからだ。
それでもここが現世であるという確かな証拠を探さなければならない。簡単だ。それは俺の体。
早々に屋上を後にすると、鼻息荒く細い路地を駆けていた。
沙織の言った時間の差、というのがどれくらいなのかが次の不安要素として襲いかかってきていた俺は、血眼になって時計を探した。が、どういうわけかなかなか見つからない。手っ取り早いのはコンビニだ。どこか飲み屋でもいい。
「そうか! 飲み屋だ……」
そういう店ならいたるところにある。適当に目についたスナックなのかバーなのか、ドアノブに手をかける。
が、するりと通り抜けて何度やっても触れない。
沙織の話を思い出した。
魂だけの俺には何も触れることはできないのだ。
ゆっくりと手を伸ばしてドアに――抜けた。
「マジで……」
唾をのみ、もう片方の手もドアを通り抜けさせた。
軽く息を吐いて足を進める。
なんの問題もなく、抵抗もなく、店内に入った。
これに驚きながらも、魂だからだ実体がないんだと考えるとその驚きもすぐに消えた。
「もうそろそろ閉めたいんだけどなあ」
「す、すみません」
反射的に謝ったがそれは俺に向けられた言葉ではないことにすぐに気付いた。
その声の主はカウンターで空のグラスを片手に新聞を読む客に言っているのだった。
「これ読んだら出てくよ」
不機嫌そうに返した太った男は肉付きのいい指で新聞をめくる。
「朝刊は俺の楽しみなんですよ。折り目の綺麗な分厚い朝刊がね。そんなにぐしゃぐしゃにしないでください」
「客に文句言うんじゃねえぞコラ」
随分と態度の悪い客だ。
俺も居酒屋でバイトしていた頃はよく絡まれた。しかしカウンターを拭いている店員は嫌な顔ひとつせず相手している。
「それ、読み終わるのどれくらいかかります?」
手を休めることなく訊いた。
「さあな。水くれ」
「あれ? もしかして気持ち悪いんですか? だから飲みすぎだって言ったじゃないですか」
「うっせえ……」
店員はカウンターの中に入って綺麗なグラスに水を入れると客に出した。
「どうぞ」
「おうよ」
グラスはよく磨かれているのか輝いている。店仕舞いをしていることから察すると、つい先ほど磨かれた物なのだろう。
「ぬるいんだよ馬鹿野郎が」
「難癖つけないでください」
「ぬるいからぬるいっつってんだよ」
語気を荒げる客に一歩も引かず、しかしなだめることもせずに会話をする店員に俺は目を奪われていた。
今まで俺は自分のことしか頭にないまま働いていたのだ。
タチの悪い客に動じず余裕を持った店員の態度に心が痛んだ。
そこらの客の回転を気にする居酒屋とこういう小さなバーでは違いがあって然りなのかもしれないが、根本的な客への接し方は同じでなければいけないはずだ。
「氷入れましょうか?」
「いらねえよクソが」
「クソ……これでも店長なんですよ」
「馬鹿にしてんのか? それくらい知ってる」
店長と言われた男の顔をよく見れば俺と歳の差はなそうだ。
醸し出す雰囲気は年上ではないかと思っても、見た目だけはそうでもない。
考えるのを止めて客に近付く。急がなければならないのだ。
後ろから覗き込むだけでは日付は見当たらず、仕方なく体勢をあれこれ変え、ようやく発見した。
「9月19日――」
俺が屋上に行った日は17日の夜だ。もうすぐで日を跨ぐところだったはずだから18日とする。そこから考えるとだいたい1日。店内を見回して時計を探す。壁に掛けられたアナログの時計は7時前。単純に考えて30時間は経っている計算になる。
多田や沙織と共にした時間は1時間もないはずだ。
沙織の言うとおり相当に時間のズレがある。
怒号をあげそうな客とそれを淡々とかわす店長とのやり取りが継続している中、俺は店を出た。
走り続けてどれくらいか。体力の限界でその場に座り込む。
息が苦しいわけではない。得体の知れない何かがとても苦しかった。魂が何かを欲しているのだと直感的に感じた。
しかしゆっくりもしていられない。
とにかく自分の体を探さなければという一心で警察署や病院を回った。
人とコミュニケーションが取れないことが辛かった。そもそも周りの人には姿すら見えていないのだからどうしようもない。
沙織もどんなにか辛かっただろう。
新宿警察署をはじめに近場の警察署を回ったが体はない。ここも駄目かと外に出ようとしたとき、ふいに耳に入ってきた。
「おい聞いたか」
「なんだよ」
「歌舞伎町の身投げの遺体」
「ああ、弟だっけ? 確認しに来たな」
「そう。それが千代田区の病院までわざわざ運ばせたらしいんだわ」
「だいぶ取り乱してたみたいだな。死んでるわけないって泣きわめいたとかで殴られたって、谷川が愚痴ってたぞ……で、なんでそんな話するんだよ。自殺なんて珍しくもないだろ」
「そうなんだがちょっとな、あの遺体気になって」
「大丈夫か? 憑かれてたりして」
「そういうのじゃないんだ」
大口開けて笑う警官に俺は肩を下げる。
背の高い方の警官は確かに歌舞伎町の、と言った。弟というのも気になる。俺には弟がいるのだ。
それにしてもこの会話に出くわしたのは奇跡としか言いようがない。それに千代田区の病院となれば、思いつく場所がある。俺の行きつけの病院であり、母が入院している病院でもあるのだ。
「でも俺が死んだからって取り乱すか? あの貴也が……」
そうなのだ。
貴也は俺が死んだら喜ぶまではしないにしろ泣くとは到底思えない。俺は自殺決行の前日に弟と喧嘩した。それはもう酷い、人生最大と言ってもいい。殴り合いなんかではない、口だけであんなにも激しい喧嘩ができるものかと今でも信じがたい。それほどの喧嘩だった。
それに弟とは元から仲が良くない。
二つ歳の離れた弟と俺の差は、中学生の頃には明白だっただろう。それが弟が高校に入学してからはその差をありありと見せつけられた。高校入学から既に俺とは違うエリート街道を進み始めた弟に憎しみが芽生えた。あいつは俺が落ちた高校に首席で入学したのだ。仲の良い兄弟であれば、こうまで醜い関係にならなかったのかもしれないが今更な話だ。
俺は一般的な大学を、留年して5年かけて卒業した。留年するまではバイトで学費を稼いだが、父に学問に専念しろと言われ、卒業するまでの2年親に甘えた。
弟は高校から大学卒業まで問題なく通り過ぎ、一流企業に新卒で雇われ、二つの歳の差は大したものではなかった。あっという間にどちらが兄か分からなくなった。
俺が実家に金を入れるのは2か月に一度。それも弟の金額の半分。
俺は情けなかった。弟が嫌いだった。
それと同じように弟も俺を嫌っていた。それはお互い感じ取っていたのだろう。
そして俺たちの仲が完全に崩れた決定的な出来事はおそらく父の死だ。
交通事故だった。大型トラックの前方不注意。中古のキャデラックに乗って走っていた父は、対向車線から飛び出してくる巨大な物体にどうすることもできなかった。即死。横転したトラック、ぺしゃんこの父の愛車、ガソリンが道路に垂れ出し危険な中、救出作業によって引きずり出された父はそれは見るも無残な姿だったに違いない。
いや、無残だった。事故の知らせが入り、急いで向かえば悲惨な事故現場。危険だからと警察の人に押さえられていたが出てきた父の姿を思うと、今でも吐き気がする。
電車とバスを駆使し、俺の体のあるであろう――母も居る――病院に着いた。
時計を見れば20分程度が経っていた。
俺の体はあの警官に遺体と言われていた。弟が死んでるわけがないと言っても、俺は死んだのだろう。警察署に居たということはそういうことだ。
「てことは霊安室か。こういうのって上の階にはないよな」
病院の案内板を見てもどこにも霊安室という文字はなかった。
救急搬送される入り口からあてもなく進み、普通なら入らないようなところを歩いた。不思議なことに匂いがしたのだ。俺はその匂いに誘われるかのように自然と駆け足になっていた。気付けば街を走っていたときに感じた疲れがなかった。
突き当りの部屋。
そこで俺の足は止まった。なぜならその扉の向こうから俺の匂いがするからだ。
慌てることなく静かに部屋の中に入った。
室内は殺風景で、ストレッチャーがひとつあった。頭側と見られる方には簡素に火のついていない線香と菊の花が供えられていた。白い部屋に白い布をかぶった遺体。俺の体。
まだ確かめてもいないのに俺は確信していた。
多田の言ったように体と魂は引かれ合っているのだ。
布を捲り、顔を見て、愛しさがこみ上げてきた。
一度は死のうと思っていた自分が不思議なくらい、今は生を求めている。
青白い痩せこけた頬を撫で――触れないのだが――動きを止めた。
そうだ。触れないのだ。
「俺はどうやって自分の体に戻るんだよ……」
嬉しさの後、やってきたのは絶望だった。
自分の体に抱きつくように腕を回したり、助走をつけて飛び込んだり、何をしようが俺は体から離れた魂のままだった。空を掴むだけだった。