中編:女
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うっすら滲んだ涙をぬぐい、二人の後を追って屋上へ向かった。
「早い……」
階段の前に出たときにはすでに二人の姿はなかった。ただ、頭上からどたばたと足音が聞こえる。
ヒールが邪魔になる。そう考えると戸惑うことなくパンプスを脱いで手に持ち、一気に階段を駆け上がった。
上がると、屋上の扉が開いていた。
フェンスも何もない殺風景な屋上の端に、多田さんと朋也さんが立っていた。
多田さんが左手を上げてわたしを見ている。
朋也さんはというと多田さんの隣で膝をついてうなだれていた。
「どうしたんですか? 多田さん」
首をかしげて訊くと多田さんは顔を歪め、頭を掻きながら言葉を濁す。
不思議に思いながらしゃがみ込んで朋也さんの肩を撫でた。
「聞いたよ」
唐突に朋也さんがそう呟いた。
「何をですか?」
「ここに居るのは死者で、成仏せずにここに居ついてるんだってな。ここに来たらそのまま成仏ってのが普通でもこうやって留まることもあるって……」
「そう、その通り。ちゃんと理解できてるじゃないか。自分が死んだことに気付いてないヤツや気付いていても成仏はしたくないっていう2種類が居る。魂の寿命まで常世――ここに残るヤツだって少なくない」
未だ立ち上がろうとしない朋也さんの頭に手を乗せ、乱暴に撫でまわした。
「階段上りながら説明してやったんだよ」
煙草のヤニで黄ばんだ歯を見せて笑った。それを見ながら現世での出来事を思い出し、少し気が沈んだ。
「朋也さん。わたしは肉体がないから魂だけで現世に戻って、魂だけで漂っていたんだけどね。もしあなたの肉体が生きていれば、わたしが現世に行った方法で生き還れるかもしれないの。だけど……失敗するかもしれない」
多田さんがわたしの言葉に相槌を打ちながら腕を組んで落ち着きなく歩いている。
「この禁忌が成功したのは沙織ちゃんが初めてさ。現世に行ける――初めての証明だ」
ゆるりと多田さんを見上げた朋也さんに目を向けると、そうか! とひらめいた。
なぜ今まで気付かなかったのか。朋也さんの顔をよく見れば頬は痩せこけて、服はスエットのトレーナー1枚にジーンズ。必死さに今まで忘れていたが、常世に来れば体は関係ない、魂だけで身軽になるのだ。
トレーナーの上からでも分かるくらいに体も痩せ細っているのは仕方ない。わたしも死んだときそのままの姿なのだから。
しかしここでは体力という概念がなかった。――いや、魂だけの存在になってから疲れというものをすっかり忘れ去っていた。それがどうだ。自分が死んだということをやっと受け入れた朋也さんが絶望しているのかと思いきや、それだけではないのだと気付く。彼はホームレスだと言った。それは痩せこけた頬を見れば明らかで、食事はまともに食べていなかったのだ。ここで思い出そう。魂に疲れなど存在しない。多田さんからもそう教えられた。
魂の歳によって差はあるものの、と付け加えて。
朋也さんを凝視するわたしを訝しんだのか多田さんがわたしの名を呼んだ。
「気付いたかい。朋也くんは疲れてる。疲れてるんだ。不思議だねえ」
「どうして疲れなんか!」
「……体のせいなんかじゃないさ。それだけ魂も擦り切れているということだろう」
慈悲の眼差しの多田さんに気付いたのか朋也さんがコンクリートの地面に手をつけて立ち上がった。
「はっ……魂が。馬鹿げたこと話さないでくださいよ。俺の魂くらいは元気でしょう」
「元気なのか? 自殺を考えるなんてヤツの魂が元気だとは到底思えないがな。そんなに魂が元気なら、まだまだ自殺なんてするもんじゃねえぞ」
押し黙る朋也の両肩を掴み、顔を覗き込んだ多田さんはちらっとわたしを見て、すぐに顔を戻した。何なのか分からず眉を寄せる。
「沙織ちゃんのために現世へ戻ってやりな。魂が元気ならあるべき場所へ引っ張られるはずだ。心配するな。迷いは失敗を生む」
「……はい」
小さく返した朋也さんに満足したのか手を離して背中を強く叩いた。むくれる朋也さんは、さっきよりもどこか穏やかに見える。
「と、そうだ。朋也くんを現世に送る前に聞きたいことがあるんだが、いいかな沙織ちゃん」
「現世でのことですか?」
なんとか笑みを浮かべて、顔にかかる髪を耳にかける。
「どうやらいいことはなかったようだから、嫌なら話さなくていい」
「いえ、悪いことしかありませんでした。そんな話でもいいんですか?」
優しげに目尻のしわを深めた多田さんに、再び滲んできた涙に苛立ちながら二人に背を向けて目をこする。――出てくるな! 我慢しろ! そう自分に言い聞かせながら口を開く。
「還るときに話しましたよね。好きな男に会いに行くんだって。もし失敗して成仏しちゃったらどうしようと思ったんですけど、ちゃんと成功したんです。でも……現世に行ったって魂だけのわたしには彼に気持ちを伝えることなんてできなかったんです。それに周りの様子も随分変わっちゃってて」
自嘲気味な笑みがこぼれる。
「どういうこと?」
「自分が死んでからまだ3週間しか経っていないと思ってたんですけど現世ではもう3年も経ってた。和希くん結婚してて、お嫁さんは妊娠中」
思わずうつむき、唇を噛む。そうしなければ涙が出そうだった。
近づいてきた多田さんに肩を抱かれた。抵抗することなくもたれかかると頭を撫でてくれた。
「それで?」
「なんとかして気持ちを伝えようとしたけどそれが、ポルターガイストだって騒ぎになって。二人を怖がらせちゃった。そんなつもりなかったんだけど。盛り塩やお札貼ったりされても、わたしには何の効力もなくって、笑っちゃうよね。でも二人とも必死なの。1か月なんとか頑張ったけどどうにもならなくて、それで還ってきたの。終わり」
何も言わず頭を撫でる温かな手に心が落ち着くのを感じた。
「ただの片思いで幸せな二人を壊すなんて申し訳なくてね。妊娠中の奥さんが体調おかしくして、もうダメだって思った」
「ああ……そりゃいかんな」
「3年も経ってれば、結婚してたって仕方ないの。3年も経ってたなんて……」
頬を伝う涙を拭うことはせず、多田さんに抱きつく。多田さんは驚きながらも、優しく腕を回して赤ちゃんをあやすように背中を軽く叩いた。
「あ、あの、ちょっといい?」
遠慮がちに朋也さんが手を挙げている。
「今、何て言った?」
「今って言うとなんだ」
「何ですか?」
格好悪く鼻声になってしまった。朋也さんは何が引っかかったのだろう。
「だから3週間だと思ってたのに3年経ってたって」
「あ……」
「あ……」
屋上に多田さんとわたしの絶叫が響いた。
「そうだ! そうだよ馬鹿!」
「ごめんなさい。つい……だから急いでたのに。わたしの馬鹿!」
多田さんが唖然とする朋也さんの背中を押し、屋上の端に立たせる。
「急げ青年」
そう言うと振り向き、大股でわたしに歩み寄ってきたかと思えば腕を乱暴に掴んできた。何事かと思えば目的は腕時計だった。
「さっきからまだ10分と経っていないな。沙織ちゃんの話なら分刻みでも現世と常世は時間の差が大きく出るよなあ。困ったな。急ぐぞ」
視線を行ったり来たりさせる朋也さんの傍に立つと、多田さんは下を覗き込んで人がいないか確認する。
わたしは朋也さんの両手を取り、きつく握りしめた。何が何だか分からない様子だが、わたしには幸運を祈るしかできることはない。
「いいか朋也くん」
多田さんに見られることが急に恥ずかしくなり咄嗟に手を離す。
「現世に戻ったら、真っ先に自分の体を探すんだ。落ちた現場か病院か警察か、とにかく急げ。火葬されればアウトだぞ」
「火葬……もうされてたりするんじゃ」
「馬鹿言うんじゃねえぞ。信じろ。信じなきゃ叶うもんも叶わないんだ」
「迷えば成功しない、そうでしょ?」
わたしは現世に還るとき、すべての迷いをふっ切った。だから成功したのだろう。
「……わかった。分かったよ。信じればいいんだろ信じれば!」
多田さんと顔を見合わせ頷くと、お互い朋也さんの背中に手をやった。
「え、え? ちょっと何」
「いいか、俺たちで押してやる。抗わずに落ちろ、それだけでいい。頭の中で強く願え。自分の体の元に還りたいと、いいか?」
「はあ?」
「大丈夫。何もしなくていいから強く強く願って」
朋也さんの目を見つめて頷くと、左右に動いていた頭が真っすぐ前に向いた。口を閉じ、目を閉じた。
「体に力入れんなよ。絶対に還れる! あんたの魂は元気なんだろ! 体と引き合わせてくれる!」
「いける! 大丈夫よ! 絶対に還れる!」
朋也さんは何も言わず、自分の手を握り締めて立っている。多田さんがカウントダウンを始めた。
5秒前、4、3、2、1――
強く背中を押した。
多田さんの言われた通りにしていたようで体に力は入っていなかった。前に倒れ、軽く宙に浮いた。
一瞬スローモーションを見ているような気分になった。しかし、その直後、落下。
自然と引きつるような声が出てしまった。手を口に当てたが遅く、この小さな悲鳴が彼に聞こえたのではないかと冷たくなる。
目をつむり祈る。
「お願い。お願い神様」
どれほどそうしていただろう。
不意に肩に触れた多田さんの手に驚いて飛び跳ねた。多田さんはそんなわたしに声を上げて笑う。
「大丈夫。あとは信じようじゃないか」
「多田さん……」
「まあ俺の勘は成功だって言ってるけどな」
ポケットから煙草を取り出す多田さんを横目に、端から下を覗くと、そこには誰もいなかった。
「あちゃー。マッチ部屋だわ……戻るか、沙織ちゃん」