中編:男
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目が覚めるとそこには晴れた空が広がっていた。
太陽がてっぺんにあり、今が真昼だと分かる。じりじりと照りつける太陽にいささか違和感があった。
「俺は……何してるんだ」
ついさっきまで俺は自殺しようとしていた女を必死で押さえていた。そして、そして――俺は女と共に落ちた。
「そうだ」
それなのに今のこの状況はなんだ。落ち着けと自分に言い聞かし、辺りを見回した。
あの女は俺の見ていた幻覚か何かなのか? 自分の両手を握りしめ、確かに女の柔らかな腕の感触が残っているのに気付いた。
背後で、ふと息づかいを感じて飛び起きると、そこに女が立っていた。腕を組んだ女は背中をフェンスに預け、こちらをジッと見ている。
「やあ起きたね。連れて行かなきゃいけないところがあるの。一緒に来て」
「な、何を言ってんだ。それより頭が混乱して――」
「ここで時間を潰してる暇はないの、急がなきゃ」
そう言った女は立ち上がると俺に近付き、右手首を掴んで歩きだした。
俺は何もできず、されるがまま屋上を後にした。
「そうだ、自己紹介しなきゃね。わたしは平山沙織。19歳で……一応大学生かな。とりあえずこれくらいで、次あなた」
決して走りはしないものの足早に街中を通り抜けて行く。右手を引っ張られながら必死で後を追う。女――沙織は首を後ろに向けながら俺の自己紹介を促してくる。
「俺は、俺は……なあこんなに急ぐ必要あるのかよ、ちょっとゆっくりでも」
「ダメよ! 何か訊きたいことがあるならできるだけ答えるけど、とにかく足だけは動かして」
「わかったよ。それじゃあこの状況を説明してくれ。訳分かんねえよ」
すれ違う人々や街並みは何の変わりもないが、その全てに違和感がある。目覚めたときからずっとだ。
「なあ、沙織ちゃんって言ったっけ……俺ら屋上から落ちただろ?」
いきなり沙織の足が止まったせいで勢いでぶつかりそうになる。
「ちょっと、なんだよ」
今度は体ごと振り向いた沙織が眉を吊り上げてまくしたててきた。
「その前に自己紹介、お願いできますか? わたしより年上ですよね、礼儀や常識ってやつはないんですか」
「はあ?」
「混乱してるなんて理由になりませんよ。こういうときこそ冷静にならないと。冷静に」
急いでると言ったのは女の方なのに流暢に自己紹介などをする必要があるのだろうか。
「だから自己紹介を!」
言い終わらないうちに前に向き直ると再び競歩のようなスピードで歩きはじめた。
「……俺は大久保朋也。29歳。ホームレス。これでいいだろ、答えろよ」
投げやりにそう言うとまた怒ったりするだろうと考えていたが、沙織の鼻息は一変して静かになり、背中から出ていた雰囲気も幾分柔らかくなった。
「朋也さんって呼べばいいかな」
呼び方なんてどうでもいいだろ、とは言えず、適当に頷く。
「ねえ、朋也さんでいいかな!」
一つボリュームを上げて同じことを訊いてきた。そうか、前を向いているから頷いても見えない。
「ああ、どうとでも呼んでくれ」
「ありがと。――何から説明すればいいのか分かんないだけど、初めに言っておきたいことは、わたしたちは確かに屋上から落下したということです」
やはりそうかと耳を傾け、続きを促す。
「とりあえず時間がないから細かな説明は省きたいんだけど……」
「どうでもいい。それで、落下してどうして俺たちは走ってるんだ。それに目が覚めたのはあの屋上の上だぞ」
全く訳が分からない。
「屋上から落下した。わたしの腕を掴んでいたせいでね。そして朋也さんは死んだ」
「はあ……」
「違うわね。現世では死んだことになってるはずよ。もしくは意識不明の重体ってやつ」
口から吐息のような情けない声しか出てこない。それでも沙織は前を向いたままだった。
「ここは現世と何も変わらないように見えるかもしれないけど、全く違うの。まず住人が違う。ここには現世で死んだ人しか居ない」
「現世? じゃあここは死後の世界だってのかよ」
「そう言うのかな。多田さんに訊けば色々難しい話してくれると思うけど。俗な言い方だとそんな感じじゃない?」
「そんな冗談誰が信じるんだ」
「信じなくてもいいけどそれが事実」
「ってことは沙織ちゃんも死んだわけだ。なんでそんなこと知ってんの? 死後の世界があることを今死んだ人間が知るわけがないだろ」
やはりこの女は俺をからかっているのだ。
「……じゃあ、そこから考えて、分かりませんか?」
「考えて? どういうことだ」
「どうしてわたしが常世、つまり死後の世界のことを説明できるのか」
人気のない路地に入り、沙織が歩くスピードを緩めた。横並びになった俺たちは視線を交わした。
沙織の目は真剣そのもので、俺の手首を握る力が一段と強くなった。
「わたしは一度死んでる。朋也さんが言うわたしの死は、朋也さん以外の人には見えてないの」
俺より頭一つも背の低い女。19歳の大学生。自殺しようとする女はこうもおかしな妄言を易々と言ってのけるものなのかと感心する。精神を病んでいるのだろうか。
「もうよしてくれ。そんな妄想に付き合ってる暇はないんだ。俺は死ぬんだ」
「死ねないよ。ごめんなさい……わたしが殺したようなものだよ」
「……だから」
「こんなことで言い争ってる場合じゃないの。ここに多田さんっていうおじさんが居て、わたしはその人のおかげで現世に行ったの。そしてまたここに戻って来た」
そう言いいながら指さす方向に目を向けると、俺たちの居たマンションよりも更に古びた小さなマンションがあった。
少し後ろで沙織のヒールがカンカンと音を立てる。俺は階段が終わったところで立ち止まり、せわしなく視線を動かす。そんな俺から一歩遅れて来た沙織に肩を押され、右に曲がった。そこで唐突に沙織の腕が前に伸びた。
「あれ、突き当りにあるのが多田さんの部屋です」
奥の扉を指をさし、そう言うと俺を睨むようにして数秒見つめてきた。ほんの少し考えて、睨んでいるのではなく、何かを堪えているのだと分かった。例えば――涙を。
立ちつくす俺を気にすることなく歩きだした。俺は動けなかった。
「多田さん。入りますよ。多田さん」
沙織が扉を叩き、呼び鈴を鳴らすが中からの反応が全くない。
「もう……多田さん開けてください!」
さっきよりもいささか大きな声でそう呼ぶと、ようやく中から男の声が響いてきた。
しゃがれていて声量もなく、何を言っているのかさっぱり分からない。近くの沙織には聞こえるのだろうか。ゆるゆると沙織の傍に足を進めた。
沙織の横で立ち止まると同時に目の前の扉のノブが回った。
「ややや……沙織ちゃん還ってきたか!」
ドアが開くと中から勢いよく背の高い男が飛び出てきた。思わず後ずさりをしたが沙織に力強く二の腕を掴まれ、そのまま部屋の中に押し込まれる。
「男連れってか、いいねえ若いって」
ヨッ! と囃したてる男に目もくれず、靴も脱がず室内へ上がり込んだ。
「沙織ちゃん! 靴、靴脱がなきゃ」
焦ってそう口にするが無視されてしまった。首をねじって、未だ玄関にいる男を見るも、ニコニコと笑みを湛えている。
「アメリカンスタイルさ! さあさあ気にしないで」
近寄ってきた男に背中を押され、ソファに座らされた。
「多田さん。助けてください。お願いします」
俺の近くに立ったままの沙織が頭を下げた。しなやかな黒髪が顔を隠した。
「うん。僕にできることなら協力しよう。この男の子のことかな」
男の子という言葉に引っかかったが、この中年親父からすればそれくらいの年齢に見えたのだろう。
男が胸ポケットから煙草を出して口にくわえる。テーブルに転がるマッチを擦り、煙草に火をつけながら俺の横に座った。俺が座っているのは二人掛けのソファだがL字になっていて、一人掛けのソファが空いていた。どうしてわざわざ隣に来たのか首をかしげつつ、手短に説明をした。
「そういうことで俺は死んだらしくて、ここは死後の世界みたいなんです。――そんな馬鹿な話がありますか?」
頭に血が昇ってつい声が大きくなっていた。
男は口角を上げてはいるが、笑っているわけではなさそうだった。隣の沙織は眉をしかめてその場に座り込んだ。
「朋也さん、まだ信じないの?」
何とも悲壮感の漂う顔で歯噛みしていた。
「あんたと話したって埒が明かないだろ。多田さんって言いましたよね、この子の知り合いっていうんだから、もしかしてあなたもどこかおかしいんですか? 彼女と同じようなことを言うようなら俺は帰ります」
「朋也さん!」
「まあまあ……落ち着きな」
煙草の煙が部屋に充満している。
「さっきの話だと、えっと」
「……朋也です」
睨みつけながら短く名前を告げた。しかし多田という男は一向に表情を崩さない。
「朋也くん。君は急がなくちゃいけない。信じる信じない、嘘だ嘘じゃない、そんな言い合いは無駄だ――。だけど朋也くんは生きたいかね? それとも死にたいかね」
多田の言葉を静かに聞いていたが耐え切れず頭を抱えてうつむいた。沙織におかしなことを教えているのはこの男なんだ。沙織が頼りにしてやって来たのが多田のところなのだから。
「俺は死にたいんだ。自殺しようとしたところで沙織ちゃんに会った。だからその質問の答えは死にたい、ですよ」
「そう。沙織ちゃん、どう?」
「死にたいなら、現世に還ってもう一度、自分で死んでほしいの……」
震える声でそれだけ言うと立ち上がり、どこかへ行ってしまった。
「だそうだよ。女の子泣かせちゃまずいでしょう」
鋭くなった視線に思わず目を背けた。
おかしな話をクソ真面目に話す多田と沙織に押され気味な自分に気付き、更に頭が混乱した。
「僕も一度還った方が君のためだと思うんだがね。ああ、沙織ちゃんのためでもあるが。さっきも言ったけど信じる信じないは別にして、急いで還らなければいけないね。現世では、投身自殺した男の体は魂の抜けたただの容れものだ。生きていないとなれば最後には火葬されるだろ」
「わかりましたよ。俺はあなたたちの言う現世に帰ればいいんですね?」
多田はうつむく俺の肩を抱き、テーブルの角に煙草を押しつけて火を消した。見るとテーブルのそこかしこに点々と焦げ目がある。
「そうさ。よく分かっているじゃないか」
「それで、俺はどうすればいいんですか」
「こうなれば善は急げだ。沙織ちゃん屋上へ行くぞ!」
多田に肩を抱かれたまま気付けば全力で階段を駆け上がっていた。