前編:女
−2−
もうすぐ午前0時だ。早く、早くと願いながらここに立ち、既に10時間経っている。
あと少しというときになってこの男が現れるまでは、何の問題もなかった。
わたしが見えるのか、それが一番に浮かんだことだった。
「何してるんですか」
男がそう問いかけてきた。
驚きで言葉が出ない。黙っていると、男はフェンスの向こう側からこちらに戻ってきて、眉を寄せてわたしを見てきた。
なんと失礼な男だろう。足先から頭までゆっくりと舐めるように……そして目が合った。
何とも言えない不思議な感覚に陥った。
「ちょっと、君いくつ? 高校生?」
「はあ?」
思わず声が出た。わたしが高校生に見えるのだろうか。しかもこんな時間に女子高校生がひとりで歌舞伎町に居るだろうか、普通に考えて。
「……一応、大学生ですけど」
「へえ。そう。こんなとこに何しに来たんだよ」
それはこちらのセリフなのだが。そう口には出さず、男の横を通り、フェンスの向こう側に立った。
「ちょっと? 何してんだ危ないだろ」
フェンス越しに怒鳴ってくる男に背を向けたまま腕時計に目をやる。あと5分しかない。
「さっきまで同じことしてたあなたに言われたくありません。さっさとお帰りください。何事も早い者勝ちですよ」
「いや……ちょっと待ってよ。君もしかして自殺、すんのか?」
自殺、と言われて少し考える。
これは自殺なのだろうか。自殺というのは生ある者が自ら命を絶つことではないか? そうなるとこの世界では生きていないわたしがここから飛び降りることは自殺にはならないのではないだろうか。
その証明にこちらに来てから誰にも見られず、言葉も誰にも届かず、だから諦めたわたしは今こうしてここにいるのだ。
しかしこの男にはなぜかわたしが生きているように見えるらしい。
この男がここに来たときから、この人はもうすぐ死ぬ、ということを感じ取っていた。おかしなことにこちらに来てから、街にいる人たちの死期が手に取るように分かったのだ。それも全く疑いようのない確かな感覚だった。当たり前のように分かってしまう。
「あなた自殺しに来たんですよね」
「え? まあ、君もだろ」
「そうですね。自殺しに来ました。ここに来たのはわたしが先です。お願いだから他を探してください」
そう淡々と言い返すと、男は目を見開き、わたしの両肩を物凄い力で掴んだ。
「いたっ」
痛い? さらに不思議だ。姿を見、会話をし、それだけでも十分だというのに、まさか触られるとは思っていなかった。
「自殺なんてバカなこと考えんなよ。まだ20いくつだろ? 顔も美人なんだし、わざわざ自分から死ぬ必要ないって」
「わたしが死のうと生きようとあなたには関係ないと思いますけど。自殺しようとしてる覇気のないあなたに説得されたくありません」
「はっ……頼むよ、それなら君が他の場所探してくんないかな。俺はここで死にたい。ここが俺の死に場所にちょうどいいんだ」
自殺を考える人間というものに生前は会ったことがなかったが、会わなくてよかったと心底思う。
覇気のない体からは生き物の熱というものが消え、死んだ魚のような目とはよく言ったものだ。
それなのにわたしの肩を手には熱がありありと感じられる。いや、残り少ない熱は全て、死へ向かっているのだろう。
その必死さが恐ろしかった。
「……離して、痛いから」
わたしの目を強く見つめたまま、手が離れた。
左手首にした腕時計を見るとあと1分――このままではいけない。男を見ても、立ち去る気配がまるでない。
強行突破で勝手に飛び降りてしまえばいい。そうだ、自殺をしようとしている男に気を遣う必要はないのだ。
男の痛いほどの視線を感じながらフェンスへ向かう。
男に見られている中でフェンスを通り抜けるのはやめたほうがいいのか? 手を伸ばしフェンスに触れる、ことはなかった。やはり通り抜けるだけだ。
――あと30秒
秒針が時を刻んでいる。
「君! だから自殺なんてやめろって」
ヨロヨロと駆け寄ってきた男に再び肩を掴まれる。振り払い、右足をフェンスの向こう側に跨ぐ、青筋を立てて何か喚き立てる男を哀れに思いながら左足を進めたその時、男の両手がわたしの右腕にきつく絡みついた。
「は、離して、離してってば――」
左手で男の腕を叩こうとするが、どうしても触ることができない。
――あと10秒
「時間が……」
目を固く瞑り、一瞬の躊躇の後、空中に体を投げ出した。右腕に男の熱を感じながら――。
「え……」