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悪役令嬢を育てた家庭教師に転生しましたが、教え子を断罪させるつもりはありません ~王太子殿下、婚約破棄するならまず私の授業を受けてください~

掲載日:2026/09/22

「先生。わたくし、エドワード殿下との婚約を破棄されるそうです」




十五歳の少女は、紅茶を一口飲んでからそう言った。




あまりにも平然としていたので、私は危うく聞き流すところだった。




「……はい?」




「ですから、婚約破棄です」




「誰が?」




「わたくしが」




「誰に?」




「エドワード殿下に」




「どうして?」




「男爵令嬢を虐めたからだそうです」




そこで私は持っていたペンを置いた。




目の前に座っている少女――公爵令嬢アリア・グランベルは、私が五年間家庭教師を務めている教え子だ。




十歳の頃から知っている。




数学。




歴史。




外国語。




礼儀作法。




政治学。




帝王学。




ついでに護身術まで。




この五年間、私は彼女に様々なことを教えてきた。




だから断言できる。




「アリア様」




「はい」




「あなた、人を虐められるほど暇じゃないでしょう」




「はい」




即答だった。




そうなのだ。




公爵家の一人娘であるアリアの一日は忙しい。




朝六時に起床。




午前中は王立学院。




午後四時に帰宅して、私との授業が二時間。




夕食後は公爵家の領地経営について父親から学び、就寝前には翌日の予習までしている。




男爵令嬢を校舎裏へ呼び出して嫌味を言っている時間など、どこにも存在しない。




「具体的には何をしたと?」




「教科書を破ったそうです」




「いつです?」




「先週の水曜日です」




私は手帳を開いた。




「水曜日……学院の休校日ですね」




「はい」




「あなたは?」




「先生と一緒に領地の製粉所を視察していました」




「私もいましたね」




「はい」




「では不可能です」




「そうですね」




話が終わってしまった。




しかしアリアの表情は暗い。




私は嫌な予感がした。




「殿下は、その話をどこで?」




「今朝、学院の廊下で。明日の祝賀会で皆の前にはっきりさせる、と」




皆の前で。




その言葉を聞いた瞬間、記憶の底で古い本の頁がめくれた。




私はこの国の生まれではない。正確には、この世界に生まれる前の記憶がある。




前世で読んだ物語の中で、アリアは悪役令嬢だった。祝賀会で王太子に断罪され、弁明を許されず、修道院へ送られる。王太子は男爵令嬢と結ばれ、物語は幸福な結末を迎える。




ただし、それは王太子たちにとっての幸福だ。




十歳のアリアを初めて見た日、私は決めた。この子の人生を筋書きのために差し出さない、と。




だから五年間、正しいお辞儀と同じくらい、記録の取り方を教えた。間違いを認めることも、理不尽を拒むことも。




「アリア様。明日の祝賀会には行きましょう」




「証人として、先生が来てくださるのですね」




「もちろん。でも、答えるのはあなたです」




彼女はカップを置いた。




「……怖くない、と言ったら嘘になります」




「怖くても言えるように練習しましょう。今日の授業は、質疑応答です」




翌日、祝賀会場の扉が開いた時、アリアは私の半歩前を歩いた。




王太子は予定どおり、楽団の音を止めた。




「アリア・グランベル。君との婚約を破棄する」




会場が静まり返る。傍らには男爵令嬢リリアがいた。彼女は破れた教科書を胸に抱いている。




「リリアの教科書を破り、彼女を脅した。言い逃れはできない」




アリアは一度だけ私を見た。私は頷いた。




「殿下。いくつか確認してもよろしいですか」




「何だ」




「教科書が破られたのは、先週の水曜日ですね」




「そうだ」




「その日は学院の休校日でした。教科書はどこに置かれていたのでしょう」




王太子の返答が止まる。リリアが小さく口を開いた。




「学院の、教室です。翌日、見つけました」




「では、私が水曜日に教室へ入ったという証拠をお願いします」




「目撃した者がいる!」




王太子の後ろから、取り巻きの青年が進み出た。




「私が見た。青い上着の女が学院の門を通るのを」




「私の上着は青ではありません。それに、顔をご覧になりましたか」




青年は黙った。




アリアは書類を一枚取り出した。




「私はその日、領地の製粉所におりました。工場長の作業記録と、公爵家の馬車の通行記録です。製粉所から王都まで、馬車で片道六時間かかります」




彼女はさらに紙を重ねた。




「視察では新しい水車の図面に署名しました。時刻は午後二時。原本は工場に、控えは父の執務室にあります」




王太子の顔が赤くなる。




「そんなもの、身内の証言だ!」




「では、王室の街道関所の記録をご確認ください。同行した家庭教師と職人組合の検査官の名もあります」




今度は私の番だった。




「殿下。異議があるなら、記録を調べれば済みます。ここで急いで結論を出す理由は何でしょう」




「君は家庭教師だろう。口を挟むな」




「失礼しました。では、授業で教えた本人に続けてもらいます」




私は一歩下がった。




アリアは震える指を組み、ほどいた。




「殿下。私はリリア様の教科書を破っていません。リリア様が傷ついたことは残念に思います。でも、犯人が私だと決めつけることには同意できません」




その時、リリアが顔を上げた。




「私も……アリア様が破ったとは言っていません」




会場の視線が彼女に集まる。




「殿下には、教科書が破れていて怖かったと相談しました。誰が破ったのかは見ていません。アリア様に睨まれたと思ったことはあります。でも、それだけです」




王太子がリリアを見た。




「君を守りたかった」




「守っていただけるのは嬉しいです。でも、私の言葉を私より大きくしないでください」




彼女の声は細かった。それでも最後まで途切れなかった。




私は少しだけ息を吐いた。




リリアもまた、物語では誰かに守られる役だった。その役から降りる権利がある。




王太子は二人を交互に見て、唇を噛んだ。




「……調査する。婚約の件は、それまで保留に」




「いいえ」




アリアの返事は静かだった。




「調査には協力します。ですが、婚約は解消してください」




今度は私が驚いた。




「アリア、誤解が解ければ――」




「誤解が解けた後も、殿下が私に話を聞かなかった事実は残ります。私は、信頼のない結婚を望みません」




五年間教えてきたはずの私のほうが、言葉を失った。




王太子は何か言いかけたが、リリアの教科書を見下ろし、口を閉じた。




後日、王室の調査で、教科書が破れたのは休校日の翌朝、倉庫から教材を運ぶ途中だったと分かった。古い棚の釘に引っかかったらしい。門で見られた青い上着の女は、運搬を手伝った職員だった。




誰かの悪意ですらなかった。




王太子は公爵家とリリアに謝罪した。婚約は両家の協議で正式に解消された。騒ぎの責任として、王太子はしばらく政務の補佐から外れ、学院の苦情記録を調べる仕事を任されたという。




その一週間後、アリアはいつもの時間に授業室へ来た。




「先生。今日は何を学びますか」




「進路について、でしょうか」




「それなら決めました。領地の学校を増やしたいのです」




「学校を?」




「読み書きだけでなく、自分の考えを言える場所を。私には先生がいました。でも、誰にでも先生がいるわけではありませんから」




窓の向こうで、秋の光が庭を照らしていた。




前世で読んだ物語の結末を思い出す。断罪、修道院、誰かのための幸福。




この先の頁は、もう知らない。




「それは、大変な事業ですよ」




「先生が教えてくださったでしょう。大変なことは、計画に分けるのだと」




私は新しい紙を広げた。




「では、最初の授業です。学校を建てる前に、子どもたちに何を聞くべきでしょう」




アリアは少し考えてから、笑った。




「何を学びたいか、です」




正解、と私は言わなかった。




この答えは、彼女自身が見つけたものだから。

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― 新着の感想 ―
「サリバン先生」みたいな方でした。ご立派に育て上げまして♪ こんなお嬢様こそ、「○○の聖女」とか呼ばれるのでしょうね。後世で何と呼ばれるのか?楽しみでしょうね(笑)
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