悪役令嬢を育てた家庭教師に転生しましたが、教え子を断罪させるつもりはありません ~王太子殿下、婚約破棄するならまず私の授業を受けてください~
「先生。わたくし、エドワード殿下との婚約を破棄されるそうです」
十五歳の少女は、紅茶を一口飲んでからそう言った。
あまりにも平然としていたので、私は危うく聞き流すところだった。
「……はい?」
「ですから、婚約破棄です」
「誰が?」
「わたくしが」
「誰に?」
「エドワード殿下に」
「どうして?」
「男爵令嬢を虐めたからだそうです」
そこで私は持っていたペンを置いた。
目の前に座っている少女――公爵令嬢アリア・グランベルは、私が五年間家庭教師を務めている教え子だ。
十歳の頃から知っている。
数学。
歴史。
外国語。
礼儀作法。
政治学。
帝王学。
ついでに護身術まで。
この五年間、私は彼女に様々なことを教えてきた。
だから断言できる。
「アリア様」
「はい」
「あなた、人を虐められるほど暇じゃないでしょう」
「はい」
即答だった。
そうなのだ。
公爵家の一人娘であるアリアの一日は忙しい。
朝六時に起床。
午前中は王立学院。
午後四時に帰宅して、私との授業が二時間。
夕食後は公爵家の領地経営について父親から学び、就寝前には翌日の予習までしている。
男爵令嬢を校舎裏へ呼び出して嫌味を言っている時間など、どこにも存在しない。
「具体的には何をしたと?」
「教科書を破ったそうです」
「いつです?」
「先週の水曜日です」
私は手帳を開いた。
「水曜日……学院の休校日ですね」
「はい」
「あなたは?」
「先生と一緒に領地の製粉所を視察していました」
「私もいましたね」
「はい」
「では不可能です」
「そうですね」
話が終わってしまった。
しかしアリアの表情は暗い。
私は嫌な予感がした。
「殿下は、その話をどこで?」
「今朝、学院の廊下で。明日の祝賀会で皆の前にはっきりさせる、と」
皆の前で。
その言葉を聞いた瞬間、記憶の底で古い本の頁がめくれた。
私はこの国の生まれではない。正確には、この世界に生まれる前の記憶がある。
前世で読んだ物語の中で、アリアは悪役令嬢だった。祝賀会で王太子に断罪され、弁明を許されず、修道院へ送られる。王太子は男爵令嬢と結ばれ、物語は幸福な結末を迎える。
ただし、それは王太子たちにとっての幸福だ。
十歳のアリアを初めて見た日、私は決めた。この子の人生を筋書きのために差し出さない、と。
だから五年間、正しいお辞儀と同じくらい、記録の取り方を教えた。間違いを認めることも、理不尽を拒むことも。
「アリア様。明日の祝賀会には行きましょう」
「証人として、先生が来てくださるのですね」
「もちろん。でも、答えるのはあなたです」
彼女はカップを置いた。
「……怖くない、と言ったら嘘になります」
「怖くても言えるように練習しましょう。今日の授業は、質疑応答です」
翌日、祝賀会場の扉が開いた時、アリアは私の半歩前を歩いた。
王太子は予定どおり、楽団の音を止めた。
「アリア・グランベル。君との婚約を破棄する」
会場が静まり返る。傍らには男爵令嬢リリアがいた。彼女は破れた教科書を胸に抱いている。
「リリアの教科書を破り、彼女を脅した。言い逃れはできない」
アリアは一度だけ私を見た。私は頷いた。
「殿下。いくつか確認してもよろしいですか」
「何だ」
「教科書が破られたのは、先週の水曜日ですね」
「そうだ」
「その日は学院の休校日でした。教科書はどこに置かれていたのでしょう」
王太子の返答が止まる。リリアが小さく口を開いた。
「学院の、教室です。翌日、見つけました」
「では、私が水曜日に教室へ入ったという証拠をお願いします」
「目撃した者がいる!」
王太子の後ろから、取り巻きの青年が進み出た。
「私が見た。青い上着の女が学院の門を通るのを」
「私の上着は青ではありません。それに、顔をご覧になりましたか」
青年は黙った。
アリアは書類を一枚取り出した。
「私はその日、領地の製粉所におりました。工場長の作業記録と、公爵家の馬車の通行記録です。製粉所から王都まで、馬車で片道六時間かかります」
彼女はさらに紙を重ねた。
「視察では新しい水車の図面に署名しました。時刻は午後二時。原本は工場に、控えは父の執務室にあります」
王太子の顔が赤くなる。
「そんなもの、身内の証言だ!」
「では、王室の街道関所の記録をご確認ください。同行した家庭教師と職人組合の検査官の名もあります」
今度は私の番だった。
「殿下。異議があるなら、記録を調べれば済みます。ここで急いで結論を出す理由は何でしょう」
「君は家庭教師だろう。口を挟むな」
「失礼しました。では、授業で教えた本人に続けてもらいます」
私は一歩下がった。
アリアは震える指を組み、ほどいた。
「殿下。私はリリア様の教科書を破っていません。リリア様が傷ついたことは残念に思います。でも、犯人が私だと決めつけることには同意できません」
その時、リリアが顔を上げた。
「私も……アリア様が破ったとは言っていません」
会場の視線が彼女に集まる。
「殿下には、教科書が破れていて怖かったと相談しました。誰が破ったのかは見ていません。アリア様に睨まれたと思ったことはあります。でも、それだけです」
王太子がリリアを見た。
「君を守りたかった」
「守っていただけるのは嬉しいです。でも、私の言葉を私より大きくしないでください」
彼女の声は細かった。それでも最後まで途切れなかった。
私は少しだけ息を吐いた。
リリアもまた、物語では誰かに守られる役だった。その役から降りる権利がある。
王太子は二人を交互に見て、唇を噛んだ。
「……調査する。婚約の件は、それまで保留に」
「いいえ」
アリアの返事は静かだった。
「調査には協力します。ですが、婚約は解消してください」
今度は私が驚いた。
「アリア、誤解が解ければ――」
「誤解が解けた後も、殿下が私に話を聞かなかった事実は残ります。私は、信頼のない結婚を望みません」
五年間教えてきたはずの私のほうが、言葉を失った。
王太子は何か言いかけたが、リリアの教科書を見下ろし、口を閉じた。
後日、王室の調査で、教科書が破れたのは休校日の翌朝、倉庫から教材を運ぶ途中だったと分かった。古い棚の釘に引っかかったらしい。門で見られた青い上着の女は、運搬を手伝った職員だった。
誰かの悪意ですらなかった。
王太子は公爵家とリリアに謝罪した。婚約は両家の協議で正式に解消された。騒ぎの責任として、王太子はしばらく政務の補佐から外れ、学院の苦情記録を調べる仕事を任されたという。
その一週間後、アリアはいつもの時間に授業室へ来た。
「先生。今日は何を学びますか」
「進路について、でしょうか」
「それなら決めました。領地の学校を増やしたいのです」
「学校を?」
「読み書きだけでなく、自分の考えを言える場所を。私には先生がいました。でも、誰にでも先生がいるわけではありませんから」
窓の向こうで、秋の光が庭を照らしていた。
前世で読んだ物語の結末を思い出す。断罪、修道院、誰かのための幸福。
この先の頁は、もう知らない。
「それは、大変な事業ですよ」
「先生が教えてくださったでしょう。大変なことは、計画に分けるのだと」
私は新しい紙を広げた。
「では、最初の授業です。学校を建てる前に、子どもたちに何を聞くべきでしょう」
アリアは少し考えてから、笑った。
「何を学びたいか、です」
正解、と私は言わなかった。
この答えは、彼女自身が見つけたものだから。




