開かない引き出しのラブレター ― 47歳、沈黙の声を聴く ―(前半)
1. 「プロ」としての制服
五月の末、街の街路樹は深い緑を湛え、日差しには夏を予感させる力強さが混じり始めていた。
里見紗和は、鏡の前で紺色の作業着の襟を整えていた。胸元には、控えめだが誇らしく『武蔵野メモリアルサービス 里見』という刺繍が施されている。
研修期間を終え、彼女は正式に室井の会社に採用された。週に四日、現場に出る。それが彼女の新しい「日常」になった。
「行ってくるわね」
ダイニングテーブルで、昨夜の残りのパンを無表情にかじる和也に声をかける。
和也は答えなかった。あの夜の激しい口論以来、二人の間には厚い氷の壁が築かれている。彼は紗和が仕事を始めたことを「勝手にしろ」と黙認しているが、決して認めようとはしなかった。夕食の準備も、掃除も、紗和は以前と同じようにこなしている。けれど、そこにはもはや「義務」や「怯え」はなく、淡々と流れる事務作業のような静けさがあった。
事務所に着くと、室井が軽トラックの荷台で段ボールを整理していた。
「里見さん。今日の現場は、お前がメインの担当で行ってもらう。俺はあくまでサポートだ」
「えっ、私が……ですか?」
「いつまでも新人気分じゃ困るんだよ。今日の依頼人は、お前と同世代の女性だ。男の俺じゃ踏み込めない領域がある。……頼んだぞ」
渡されたファイルには、『依頼主:高木久美子様(45歳)』と記されていた。
亡くなったのは、彼女の父、高木照夫さん(72歳)。
ファイルの中の特記事項には、室井の殴り書きでこうあった。
『父娘、二十年以上絶縁状態。依頼主の希望は「最短での全処分」』
2. 冷え切った「全処分」の依頼
現場は、西東京にある古い公営住宅だった。
一階の入り口で待っていた依頼主、久美子は、都会的なスーツを完璧に着こなした、隙のない印象の女性だった。けれど、その目元には隠しきれない疲労と、何かに苛立っているような険しさが宿っていた。
「里見さんですね。よろしくお願いします」
久美子は、名刺を受け取るとすぐに本題に入った。
「父とはもう二十年以上、まともに会話もしていませんでした。母を亡くしたあとの父は、荒れて、勝手で……。私はこの部屋に足を踏み入れるのも苦痛なんです。だから、中にあるものはすべて捨ててください。思い出の品なんて一つもありません。宝石や現金があれば報告してほしいですが、それ以外は一秒でも早く、ここを空にしてほしいんです」
久美子の言葉には、凍てつくような冷たさがあった。
紗和は、かつての自分を思い出した。和也との冷え切った食卓、理解し合えない虚しさ。もし、そのまま何十年も経っていたら、自分も理恵に対してこんな顔をさせていたのではないか。
「承知いたしました。……ただ、念のため、大切な書類や、お父様がお持ちだった個人的な手紙などは、別にしておきますね」
「必要ありませんって。父はそんなもの、残すような人じゃないですから。とにかく、早く終わらせてください」
久美子は鍵を紗和に手渡すと、「終わったら電話をください」と言い残し、逃げるようにその場を去っていった。
残されたのは、五月の陽光に照らされた、古びた鉄の扉。
紗和は深く息を吸い込み、室井と目配せをして、その扉を開けた。
3. 頑固者の城
部屋に入った瞬間、紗和が感じたのは、意外なほどの「整然さ」だった。
これまでの現場のようなゴミ屋敷ではない。使い込まれた古い箪笥、丁寧に磨かれたちゃぶ台。新聞は日付順に畳まれ、台所の食器も、たった一枚の皿と茶碗が、洗われて伏せられていた。
それは、頑固なまでに自分を律して生きてきた、一人の老人の、孤独で誇り高い生活の跡だった。
「室井さん、あんなに憎まれていたお父様ですが……お部屋はとても、綺麗です」
「ああ。だが、綺麗すぎるのも問題だ。自分の内側を誰にも見せたくなかったんだろうな」
室井は手慣れた様子で、大型の家具に養生テープを貼っていく。
紗和は、故人が日常を過ごしていたであろう、居間の小さな文机に向かった。
そこには、一輪挿しの花瓶と、古い万年筆が置いてあった。
引き出しを開けていく。
上段には通帳、印鑑、健康保険証。
中段には、古いハガキの束。それはすべて、久美子宛てのものだった。
住所が分からなかったのか、あるいは出す勇気がなかったのか、書きかけのままの年賀状や、「誕生日おめでとう」の一行だけが震える文字で書かれたハガキが、何枚も、何十枚も、紐で括られて眠っていた。
「……娘さんは、思い出なんて一つもないって言ってたけれど」
紗和の指先が、ハガキの表面をなぞる。
誰にも届かなかった言葉が、ここでは呼吸を続けている。
そして、下段の引き出しに手をかけたとき。
そこだけが、どうしても開かなかった。鍵がかかっているわけではない。中で何かが引っかかっているような、あるいは、開けられるのを拒んでいるような、独特の抵抗感があった。
「室井さん、この引き出し……」
「ん? ちょっと貸してみろ」
室井が力任せに引こうとしたが、やはり開かない。
「隙間から見ると、奥に紙の束が詰まっているな。無理に開けると中身を傷つける。……里見、お前の出番だ」
紗和は、細長い定規を隙間に差し込み、奥にある「何か」を少しずつ、優しく押し下げた。
まるで、固く閉ざした老人の心を開くように。
数分後。カチリ、と小さな音がして、引き出しがゆっくりと滑り出してきた。
4. 開かない引き出しの中身
その中に入っていたのは、数えきれないほどの「封筒」だった。
すべて同じ、淡いブルーの便箋。
宛名は書かれていない。けれど、その筆跡は、文机の上にあった万年筆で丁寧に、力の限り書かれたものだとすぐに分かった。
一番上にある一通を、紗和は手袋をした手でそっと取り出した。
そこには、驚くべき事実が綴られていた。
『久美子へ。お前が家を出てから、もう八千日が過ぎた。
今さら、合わせる顔がないのは分かっている。
母さんが死んだあの日、俺が言ったひどい言葉を、今も毎日悔いている。
俺は、お前が憎かったわけじゃない。
母さんのいない未来が、お前と一緒に向き合うのが、ただ、怖かったんだ……』
それは、ラブレターだった。
恋人へ向けるそれよりも、もっと切実で、もっと重い。
言葉にできなかった謝罪と、娘への歪なほどの愛情が、二十年分の月日となって、この小さな引き出しの中に凝縮されていたのだ。
紗和は、その手紙の束を見つめながら、激しい動悸を感じていた。
さっきの久美子の、氷のような表情。
「思い出なんて、一つもありません」
もし、このまま彼女の希望通りに「全処分」してしまったら、この手紙たちはゴミ収集車に投げ込まれ、永遠に失われる。
二人の間にあったはずの、わずかな「和解」の可能性も、焼却炉の火の中で灰になってしまう。
「室井さん。これ、やっぱり彼女に……」
「里見。依頼主は『すべて捨てろ』と言ったんだ。余計なことをすれば、クレームになるぞ」
室井の言葉は正論だった。遺品整理士は、感情で動いてはいけない。依頼主の指示が絶対だ。
けれど、紗和は首を振った。
「私は、主婦を二十年やってきました。家族の間で、一番大切な言葉が『言えない』まま終わってしまうことが、どれほど悲しいかを知っています。……私は彼女を救いたいんじゃない。このお父様の、二十年分の『ごめんなさい』を、守りたいんです」
紗和の瞳には、かつて和也の顔色をうかがっていた頃の弱さは微塵もなかった。
一人のプロとして。そして、一人の「言葉を飲み込んできた女性」として。
彼女は、その手紙の束を胸に抱きしめた。
「室井さん。私に、一時間だけ時間をください。……久美子さんを、もう一度ここへ呼びます」
外では、五月の風が激しく吹き抜けた。
埃の舞う古い公営住宅の一室で、紗和はこれから、一人の女性の「過去」を書き換えるための、最大の賭けに出ようとしていた。




