埃を払う指先 ― 47歳、一歩踏み出す覚悟 ―(後半)
5. 侵入する「死」の匂い
夜八時。玄関のドアを開けた瞬間、紗和は自分の体が、家の空気と激しく反発するのを感じた。
フローリングに漂う、微かなラベンダーの芳香剤。朝、自分が磨き上げた廊下の輝き。それらがすべて、薄っぺらな書き割り(背景)のように見えた。
「遅かったな」
リビングから和也の声が響く。テレビの野球中継の音に混じって、缶ビールを開ける乾いた音がした。
紗和は応えず、這うようにして洗面所へ向かった。一刻も早く、この体に染み付いた「匂い」を洗い流したかった。
現場で浴びた消臭剤と、防護服を透過してきたはずの、あの甘ったるく、重い、死の匂い。それは皮膚の毛穴の奥深くにまで入り込み、自分の一部になったかのような錯覚を抱かせる。
石鹸を泡立て、何度も腕を擦る。お湯が白く濁るほどに洗っても、鼻の奥にはまだあの「三歳の春」の写真を抱えていた老人の部屋の空気が残っていた。
「おい、飯は。腹減ってるんだよ」
洗面所のドアを乱暴に開けて、和也が姿を現した。
その瞬間、彼は露骨に顔を顰め、鼻を覆った。
「……なんだ、この匂いは。何のゴミを浴びてきたんだ」
紗和は濡れた手を止めた。鏡に映る自分の顔は、目の周りが黒ずみ、髪は乱れ、まるで戦場から帰還した兵士のようだった。
「研修に行ってきたの。遺品整理士の。……孤独死の現場だったわ」
和也の目が、軽蔑と嫌悪に染まる。
「孤独死? 死人が腐ってた場所か? 冗談じゃない、そんな匂いをさせて家に入るな。不潔だろ。お前、自分が何をやっているか分かっているのか」
「分かっているわ。……誰かがやらなければいけない、大切な仕事よ」
「大切? 掃き溜めの掃除がか? 47にもなって、パートを辞めてまでやる仕事が死体の片付けかよ。世間体ってものを考えろ。俺が会社でなんて言えばいい? 『妻は死体遺棄現場の掃除をしてます』とでも言うのか」
和也の言葉は、鋭い礫となって紗和に突き刺さる。以前の彼女なら、ここで黙って俯いただろう。けれど、今の彼女の胸には、あのゴミの山から救い出した「一枚の写真」の熱があった。
「世間体なんて、どうでもいい。私は今日、一人の人間が最期まで大切にしていたものを、ゴミの中から救い出したの。和也さん、あなたには分からないかもしれないけれど、それはこの家の夕食の献立を決めることよりも、私にとっては、ずっと『生きている』実感があったのよ」
「気が狂ったか」
和也は吐き捨てるように言った。
「お前はただの主婦だ。理恵を育てて、この家を整えるのが仕事だろ。それを放棄して、死臭を振りまいて悦に浸るなんて……。汚らわしい」
「汚らわしい……?」
紗和の喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「一番汚らわしいのは、隣で誰かが死にかけていても、自分のビールの冷え具合しか気にしない、その無関心じゃないの?」
パチン、と乾いた音がした。
和也が洗面台を叩いた音だったのか、あるいは二人の間の何かが壊れた音だったのか。和也は顔を真っ赤にして、言葉を失ったまま紗和を睨みつけ、リビングへと戻っていった。
6. 画面越しのエール
深夜、和也が寝室にこもった後、紗和は暗いキッチンで一人、冷えた残り物を口に運んでいた。
味はしなかった。ただ、胃の中に物を流し込まなければ、今日という一日の重みに押し潰されてしまいそうだった。
その時、テーブルの上のスマホが震えた。娘の理恵からのビデオ通話だった。
紗和は慌てて髪を整え、精一杯の笑顔を作って応答した。
「あ、お母さん! 今大丈夫?」
画面に映る理恵は、都内の狭いワンルームで、パジャマ姿で笑っていた。その屈託のない笑顔に、紗和の心は崩れそうになる。
「ええ、大丈夫よ。どうしたの、こんな時間に」
「ううん、今日が研修の初日だって言ってたから、どうだったかなって。……あれ、お母さん、なんか顔がすごい疲れてる。大丈夫?」
紗和は言葉に詰まった。本当のことを言えば、理恵まで嫌がるのではないか。母親が死体の跡を片付けているなんて、若い娘には残酷すぎるのではないか。
「……ちょっと、大変だったの。想像していたよりも、ずっと。……お父さんにも、怒られちゃった」
理恵は少しの間、画面越しに母親をじっと見つめていた。そして、静かに、けれどはっきりと言った。
「お父さんは、変化が怖いだけだよ。……お母さん、私ね、実はずっと心配してたんだ」
「心配?」
「お母さんが、私たちのために自分を消してるみたいに見えて。自分の時間も、やりたいことも、全部後回しにして……。でもね、今の顔、疲れてるけど、すごく『生きてる』感じがする。今までで一番、カッコいいよ」
紗和の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……怖くないの? 汚い仕事だって、思わない?」
「全然。だって、誰かの最期をちゃんと『人間』に戻してあげる仕事でしょ? お母さんみたいに優しくて、細かいことに気がつく人じゃないとできないよ。……誇りに思う。私の自慢のお母さんだよ」
理恵の言葉が、和也に投げつけられた「汚らわしい」という毒を、一つずつ丁寧に浄化していく。
紗和は声を殺して泣いた。四十七年間、欲しかったのは「お疲れ様」という労いではなく、一人の人間として「ここにいていい」と認められることだったのだと、ようやく気づいた。
「ありがとう、理恵……。お母さん、頑張るわ。もう、逃げない」
7. 決意の「整理」
理恵との電話を切った後、紗和はバッグの中から、室井に許可をもらって持ち帰った「遺品整理士」のバッジを取り出した。
まだ研修中の身だが、この小さな重みが、今の自分を支える唯一の錨のように感じられた。
彼女は立ち上がり、リビングの棚に向かった。
そこには、十年以上も放置されたままの、古い家族写真のアルバムが並んでいた。
一ページずつめくると、そこには理恵の入学式、和也と行った温泉旅行、かつての「幸せな家族」の断片が収められている。
けれど今の紗和には、それがひどく虚飾に満ちたものに見えた。
(私たちは、本当の意味で向き合ってきたことがあっただろうか)
和也の顔色をうかがい、理恵の機嫌を取り、自分の感情を押し殺して作り上げた、完璧な「家庭」。
けれど、その化けの皮は剥がれようとしている。
遺品整理の仕事を通じて、彼女は学んだ。
死は、その人の生きてきた「真実」を、容赦なく暴き出す。
もし、自分が明日死んだら。このリビングに残されるのは、夫への恨みと、自分への虚しさだけだろう。
「……整理しなきゃ」
それは、故人の部屋のことだけではなかった。
自分自身のこれからの人生。和也との関係。そして、自分が本当に愛したいものは何なのか。
紗和は机に向かい、研修のレポートの続きを書き始めた。
明日の現場は、さらに過酷なゴミ屋敷だと室井から聞いている。
でも、もう迷いはない。
あの「三歳の春」の写真を抱えた老人が教えてくれた。どんなに惨めな死に見えても、そこには必ず、誰にも侵せない尊厳がある。それを救い出すことが、私の「第二の人生」なのだ。
窓の外では、夜明けの気配が微かに漂い始めていた。
和也のいびきが聞こえる寝室。静まり返ったキッチン。
紗和は、自分がもう、昨日の自分には戻れないことを確信していた。
47歳。
彼女は、自分という名の「遺品」を整理し、新しい生命を吹き込むための、長い、けれど輝かしい旅路へと踏み出した。




