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残り香のあとに ― 47歳、遺品がつなぐ心の欠片 ―  作者: 久遠 睦


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3/6

埃を払う指先 ― 遺品整理士への第一歩 ―(前半)

1. 境界線を越える朝

 認定証を手にし、スーパーを辞めてから一週間。五月半ばの風は、爽やかというよりは、新しい季節への容赦ない変化を急かしているようだった。

 紗和は、指定された『武蔵野メモリアルサービス』の事務所の前に立っていた。ここは、遺品整理士認定協会が提携している実務研修先の一つだ。

「……よし」

 一度、深く呼吸をする。ブラウスの上からでも分かるほど、心臓がトクトクと脈打っている。

 昨夜、和也には「新しい仕事の研修に行ってくる」とだけ伝えた。彼は「勝手にしろ」とテレビのリモコンを動かす手を止めなかった。理恵からはLINEで『お母さん、無理しないでね。暑くなるから水分補給だよ!』とスタンプが届いた。

 家族の、それぞれの温度。それを背中に感じながら、紗和は重い鉄の扉を押し開けた。

「おはようございます。本日より実務研修でお世話になります、里見紗和です」

 事務所の中は、段ボールの匂いと、線香の残り香、そして微かに消毒液のような刺激臭が混じり合っていた。

 奥から出てきたのは、白髪混じりの短髪を短く刈り込んだ、体格の良い男だった。作業着の胸元には『室井』と刺繍がある。

「里見さん? ……ほう。あのお給料袋をそのまま受講料にぶち込んだっていう、四十七歳の新人さんか」

 室井は、紗和を値踏みするように上から下まで眺めた。その目は笑っていない。

「認定協会のレポート、読ませてもらったよ。綺麗事ばかり書いてあったな。死は『物語』だとか、『愛の欠片』だとか」

 紗和は背筋を伸ばした。

「……はい。本気でそう思っています」

「いいか、里見さん。現場はそんなに優しくない。俺たちが向き合うのは、物語の前に『物質』だ。それも、腐敗し、放置され、忌み嫌われる物質だ。お前の言う『物語』が、悪臭と蛆虫うじむしにまみれていても、同じことが言えるか?」

 室井は無造作に、一足の白い軍手と、不織布の防護服を紗和に放り投げた。

「挨拶はいい。すぐに出るぞ。今日は、孤独死の現場だ」

2. 五感への襲撃

 室井が運転する軽トラックの助手席で、紗和は膝の上に置いた手を強く握りしめていた。

 向かっているのは、都内の築四十年の木造アパート。一階の角部屋で、七十代の男性が死後三週間で発見された現場だという。

「発見されたのは二日前。警察の検死は終わっている。今日はご遺族が立ち会えないということで、うちが『全権委任』を受けての整理だ。つまり、何を捨て、何を残すか、お前の判断がすべてになる」

 現場に近づくにつれ、窓を閉め切っているはずの車内に、異変が忍び寄ってきた。

 それは、今までに一度も嗅いだことのない匂いだった。

 生臭いような、甘ったるいような、鼻の奥にねっとりと張り付く、生物学的な警告。

「……これが」

「死の匂いだ」

 室井は淡々と言った。

「主婦が普段使っているキッチンハイターじゃ、一生消えない匂いだ。覚悟しろ」

 アパートの前に着くと、防護服に袖を通す。頭にはキャップ、鼻には二重のマスク。さらにラテックスの手袋。

 フル装備になった自分を、アパートの窓ガラスが映し出していた。そこには、スーパーの事務員だった頃の自分はもういなかった。

 部屋の鍵を開け、室井が一歩踏み込む。紗和も続いた。

 その瞬間、視覚が、嗅覚が、激しい拒絶反応を起こした。

 部屋は、いわゆる「セルフネグレクト(自己放任)」の結果だった。

 カップ麺の空き容器が雪崩のように床を埋め尽くし、積み上げられた新聞紙は湿気を吸って黒ずんでいる。そして何より、部屋の中央、万年床があった場所には、黒褐色の「人の形」をしたシミが残っていた。

 ウッ、と吐き気が込み上げる。

 紗和は思わず口元を押さえ、膝をつきそうになった。

「里見! 逃げるな、見ろ」

 室井の鋭い声が飛ぶ。

「目を逸らした瞬間に、お前はただの掃除屋に成り下がる。このシミの中で、一人の人間が最期まで生きていたんだ。それを忘れるな」

 紗和は必死に呼吸を整えた。マスク越しに吸い込む空気は重く、喉が焼けるようだった。

 けれど、室井の言葉に弾かれるように、彼女は視線を「ゴミ」ではなく、その隙間に落ちている「生活」へと向けた。

3. ゴミの中の「遺品」を探して

 作業が始まった。

 室井は機械的な手際で、大型の家具や家電の搬出ルートを確保していく。紗和に与えられた任務は、散乱する紙クズや日用品の中から「貴重品」と「形見になり得るもの」を仕分けることだった。

 四つん這いになり、山のようなゴミを一つずつ手に取る。

 コンビニのレシート。

 期限の切れた督促状。

 空のワンカップの瓶。

「……これは、違う」

「これも、ゴミ」

 一時間、二時間。

 防護服の中は汗で蒸れ、意識が朦朧としてくる。

 ふと、積み重なった古い雑誌の束の下から、小さな、革製のパスケースが覗いているのが見えた。

 

 紗和はそれを慎重に引っ張り出した。

 中には、ボロボロになった定期券と、一枚の古い写真。

 そこには、若かりし頃の故人と思われる男性が、小さな女の子を肩車して、満開の桜の下で笑っている姿があった。

「……あ」

 その瞬間、部屋の匂いも、埃も、すべてが消えた。

 そこにいたのは「孤独死した老人」ではなく、「娘を愛し、桜を愛でた一人の父親」だった。

 

 紗和は、その写真を軍手で優しく拭った。

 すると、写真の裏に細いペンで文字が書かれているのに気づいた。

『理恵子、三歳の春。初めての入学、おめでとう』

 理恵子。

 自分の娘と同じ名前。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 この男性は、誰にも看取られず、ゴミに埋もれて亡くなった。けれど、最期までこの写真を、一番手の届きやすい場所、枕元の雑誌のすぐ下に置いていたのだ。

「室井さん、これ」

 紗和は写真を差し出した。

 室井は手を止め、無言で写真を覗き込んだ。

「……ほう。よく見つけたな」

「これ、ご遺族に届けたいです。きっと、大切なものだから」

 室井は鼻を鳴らした。

「ご遺族はな、この家主が死んでから『もう関わりたくない』って言ってるんだ。ゴミの処分費用だけは出すから、中身は全部捨ててくれ、と。この写真を受け取るかどうかも分からないぞ」

「それでも……」

 紗和の声は震えていたが、力強かった。

「この方の人生が、ただの『処分費用』で終わっていいはずがありません。この写真一枚があるだけで、遺された娘さんの記憶の中の父親が、少しだけ書き換わるかもしれない。それが、遺品整理士の仕事だと、私は学びました」

 室井は初めて、紗和の目をじっと見つめた。

 深くて、険しい、けれどどこか温かい眼差し。

「……いいだろう。それを『遺品』として管理しろ。だが、作業の手は止めるな。まだ半分も終わっていない」

4. 47歳の「誇り」の再定義

 夕暮れ時。

 部屋はすっかり空になり、特殊な消臭剤が撒かれた。

 トラックの荷台には、大量のゴミ袋と、紗和が丁寧に分類した数箱の段ボール。

 

 防護服を脱ぎ捨て、外の空気を吸ったとき、紗和は立ちくらみを起こした。

 全身の筋肉が悲鳴を上げ、腰は砕けそうだ。スーパーで立ち仕事をしていた時とは比べものにならないほどの疲労感。

 けれど、不思議なことに、心は今までになく澄み渡っていた。

「里見さん。今日の出来は……二十点だ」

 室井が、自販機で買った缶コーヒーを放り投げてきた。

「遅い。迷いすぎる。感情移入が過ぎる。プロとしては失格だ」

 紗和は冷たい缶を頬に当て、苦笑した。

「……はい。精進します」

「だが」

 室井はトラックのエンジンをかけながら、ぼそりと付け加えた。

「あのゴミの山から、三歳の春を見つけ出したのは、お前の執念だ。それは、長年誰かの世話を焼いてきた人間にしかできない『整理』の才能かもしれないな」

 褒められたわけではない。

 けれど、その言葉は、紗和にとってどんな勲章よりも誇らしかった。

 

 四十七歳。

 スーパーの事務パートを辞め、孤独死の現場で泥にまみれ、死臭にむせびながら、彼女は確信していた。

 私は今、人生で初めて、自分の足で自分の居場所を選び取っている。

 

 帰り道。

 バスの窓に映る自分の顔は、化粧が落ち、髪は乱れ、ひどく疲れていた。

 けれど、その瞳の奥には、昨日まではなかった「光」が宿っていた。

 

 家に着けば、また和也の無関心が待っているだろう。

 けれど、今の紗和には、彼に理解されなくても構わないという強さがあった。

 彼女の指先には、まだあの古い写真の感触が残っている。

 誰かの人生を整理することは、自分の人生を肯定することでもあるのだ。

「ただいま」

 玄関を開ける声が、少しだけ大きくなった。

 47歳の紗和の、本当の闘いが、今ここから始まる。


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