埃を払う指先 ― 遺品整理士への第一歩 ―(前半)
1. 境界線を越える朝
認定証を手にし、スーパーを辞めてから一週間。五月半ばの風は、爽やかというよりは、新しい季節への容赦ない変化を急かしているようだった。
紗和は、指定された『武蔵野メモリアルサービス』の事務所の前に立っていた。ここは、遺品整理士認定協会が提携している実務研修先の一つだ。
「……よし」
一度、深く呼吸をする。ブラウスの上からでも分かるほど、心臓がトクトクと脈打っている。
昨夜、和也には「新しい仕事の研修に行ってくる」とだけ伝えた。彼は「勝手にしろ」とテレビのリモコンを動かす手を止めなかった。理恵からはLINEで『お母さん、無理しないでね。暑くなるから水分補給だよ!』とスタンプが届いた。
家族の、それぞれの温度。それを背中に感じながら、紗和は重い鉄の扉を押し開けた。
「おはようございます。本日より実務研修でお世話になります、里見紗和です」
事務所の中は、段ボールの匂いと、線香の残り香、そして微かに消毒液のような刺激臭が混じり合っていた。
奥から出てきたのは、白髪混じりの短髪を短く刈り込んだ、体格の良い男だった。作業着の胸元には『室井』と刺繍がある。
「里見さん? ……ほう。あのお給料袋をそのまま受講料にぶち込んだっていう、四十七歳の新人さんか」
室井は、紗和を値踏みするように上から下まで眺めた。その目は笑っていない。
「認定協会のレポート、読ませてもらったよ。綺麗事ばかり書いてあったな。死は『物語』だとか、『愛の欠片』だとか」
紗和は背筋を伸ばした。
「……はい。本気でそう思っています」
「いいか、里見さん。現場はそんなに優しくない。俺たちが向き合うのは、物語の前に『物質』だ。それも、腐敗し、放置され、忌み嫌われる物質だ。お前の言う『物語』が、悪臭と蛆虫にまみれていても、同じことが言えるか?」
室井は無造作に、一足の白い軍手と、不織布の防護服を紗和に放り投げた。
「挨拶はいい。すぐに出るぞ。今日は、孤独死の現場だ」
2. 五感への襲撃
室井が運転する軽トラックの助手席で、紗和は膝の上に置いた手を強く握りしめていた。
向かっているのは、都内の築四十年の木造アパート。一階の角部屋で、七十代の男性が死後三週間で発見された現場だという。
「発見されたのは二日前。警察の検死は終わっている。今日はご遺族が立ち会えないということで、うちが『全権委任』を受けての整理だ。つまり、何を捨て、何を残すか、お前の判断がすべてになる」
現場に近づくにつれ、窓を閉め切っているはずの車内に、異変が忍び寄ってきた。
それは、今までに一度も嗅いだことのない匂いだった。
生臭いような、甘ったるいような、鼻の奥にねっとりと張り付く、生物学的な警告。
「……これが」
「死の匂いだ」
室井は淡々と言った。
「主婦が普段使っているキッチンハイターじゃ、一生消えない匂いだ。覚悟しろ」
アパートの前に着くと、防護服に袖を通す。頭にはキャップ、鼻には二重のマスク。さらにラテックスの手袋。
フル装備になった自分を、アパートの窓ガラスが映し出していた。そこには、スーパーの事務員だった頃の自分はもういなかった。
部屋の鍵を開け、室井が一歩踏み込む。紗和も続いた。
その瞬間、視覚が、嗅覚が、激しい拒絶反応を起こした。
部屋は、いわゆる「セルフネグレクト(自己放任)」の結果だった。
カップ麺の空き容器が雪崩のように床を埋め尽くし、積み上げられた新聞紙は湿気を吸って黒ずんでいる。そして何より、部屋の中央、万年床があった場所には、黒褐色の「人の形」をしたシミが残っていた。
ウッ、と吐き気が込み上げる。
紗和は思わず口元を押さえ、膝をつきそうになった。
「里見! 逃げるな、見ろ」
室井の鋭い声が飛ぶ。
「目を逸らした瞬間に、お前はただの掃除屋に成り下がる。このシミの中で、一人の人間が最期まで生きていたんだ。それを忘れるな」
紗和は必死に呼吸を整えた。マスク越しに吸い込む空気は重く、喉が焼けるようだった。
けれど、室井の言葉に弾かれるように、彼女は視線を「ゴミ」ではなく、その隙間に落ちている「生活」へと向けた。
3. ゴミの中の「遺品」を探して
作業が始まった。
室井は機械的な手際で、大型の家具や家電の搬出ルートを確保していく。紗和に与えられた任務は、散乱する紙クズや日用品の中から「貴重品」と「形見になり得るもの」を仕分けることだった。
四つん這いになり、山のようなゴミを一つずつ手に取る。
コンビニのレシート。
期限の切れた督促状。
空のワンカップの瓶。
「……これは、違う」
「これも、ゴミ」
一時間、二時間。
防護服の中は汗で蒸れ、意識が朦朧としてくる。
ふと、積み重なった古い雑誌の束の下から、小さな、革製のパスケースが覗いているのが見えた。
紗和はそれを慎重に引っ張り出した。
中には、ボロボロになった定期券と、一枚の古い写真。
そこには、若かりし頃の故人と思われる男性が、小さな女の子を肩車して、満開の桜の下で笑っている姿があった。
「……あ」
その瞬間、部屋の匂いも、埃も、すべてが消えた。
そこにいたのは「孤独死した老人」ではなく、「娘を愛し、桜を愛でた一人の父親」だった。
紗和は、その写真を軍手で優しく拭った。
すると、写真の裏に細いペンで文字が書かれているのに気づいた。
『理恵子、三歳の春。初めての入学、おめでとう』
理恵子。
自分の娘と同じ名前。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
この男性は、誰にも看取られず、ゴミに埋もれて亡くなった。けれど、最期までこの写真を、一番手の届きやすい場所、枕元の雑誌のすぐ下に置いていたのだ。
「室井さん、これ」
紗和は写真を差し出した。
室井は手を止め、無言で写真を覗き込んだ。
「……ほう。よく見つけたな」
「これ、ご遺族に届けたいです。きっと、大切なものだから」
室井は鼻を鳴らした。
「ご遺族はな、この家主が死んでから『もう関わりたくない』って言ってるんだ。ゴミの処分費用だけは出すから、中身は全部捨ててくれ、と。この写真を受け取るかどうかも分からないぞ」
「それでも……」
紗和の声は震えていたが、力強かった。
「この方の人生が、ただの『処分費用』で終わっていいはずがありません。この写真一枚があるだけで、遺された娘さんの記憶の中の父親が、少しだけ書き換わるかもしれない。それが、遺品整理士の仕事だと、私は学びました」
室井は初めて、紗和の目をじっと見つめた。
深くて、険しい、けれどどこか温かい眼差し。
「……いいだろう。それを『遺品』として管理しろ。だが、作業の手は止めるな。まだ半分も終わっていない」
4. 47歳の「誇り」の再定義
夕暮れ時。
部屋はすっかり空になり、特殊な消臭剤が撒かれた。
トラックの荷台には、大量のゴミ袋と、紗和が丁寧に分類した数箱の段ボール。
防護服を脱ぎ捨て、外の空気を吸ったとき、紗和は立ちくらみを起こした。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、腰は砕けそうだ。スーパーで立ち仕事をしていた時とは比べものにならないほどの疲労感。
けれど、不思議なことに、心は今までになく澄み渡っていた。
「里見さん。今日の出来は……二十点だ」
室井が、自販機で買った缶コーヒーを放り投げてきた。
「遅い。迷いすぎる。感情移入が過ぎる。プロとしては失格だ」
紗和は冷たい缶を頬に当て、苦笑した。
「……はい。精進します」
「だが」
室井はトラックのエンジンをかけながら、ぼそりと付け加えた。
「あのゴミの山から、三歳の春を見つけ出したのは、お前の執念だ。それは、長年誰かの世話を焼いてきた人間にしかできない『整理』の才能かもしれないな」
褒められたわけではない。
けれど、その言葉は、紗和にとってどんな勲章よりも誇らしかった。
四十七歳。
スーパーの事務パートを辞め、孤独死の現場で泥にまみれ、死臭に咽びながら、彼女は確信していた。
私は今、人生で初めて、自分の足で自分の居場所を選び取っている。
帰り道。
バスの窓に映る自分の顔は、化粧が落ち、髪は乱れ、ひどく疲れていた。
けれど、その瞳の奥には、昨日まではなかった「光」が宿っていた。
家に着けば、また和也の無関心が待っているだろう。
けれど、今の紗和には、彼に理解されなくても構わないという強さがあった。
彼女の指先には、まだあの古い写真の感触が残っている。
誰かの人生を整理することは、自分の人生を肯定することでもあるのだ。
「ただいま」
玄関を開ける声が、少しだけ大きくなった。
47歳の紗和の、本当の闘いが、今ここから始まる。




