静かなる胎動 ― 47歳、秘密のライセンス ―(後半)
四月の深淵と、防護服の真実
『遺品整理士』。その名称から、多くの人は単なる「死後の片付け」を連想するだろう。けれど、紗和が届いたばかりの副読本を開いて目にしたのは、想像を絶する凄惨な現場の記録と、それとは対極にある、繊細な「心のケア」の教科書だった。
深夜、理恵がかつて受験勉強に使っていた木製のデスクの上。紗和はペンを握り、ページをめくる。
そこには、孤独死が起きた部屋の「特殊清掃」についての詳細が記されていた。腐敗が進んだ現場、強烈な死臭、そして壁や床に染み付いた「人が生きた最期の痕跡」。
資料写真は白黒だったが、それでも紗和の胃を抉るには十分だった。
「……こんなことが、現実に起きているのね」
喉が鳴った。スーパーのレジ打ちや、賞味期限切れの惣菜を値引きする日常とは、あまりにかけ離れた「死の淵」の光景。
一瞬、手が止まる。和也が言った「お前にできるわけがない」という冷笑が、呪いのように耳元で蘇る。
しかし、読み進めるうちに、彼女の視線はある一節に釘付けになった。
『遺品整理士の最大の役割は、廃棄物として物を捨てることではない。故人がその人生を通じて集めた「記憶の欠片」を、ご遺族が前を向くための「資産」に書き換えることである』
資産。それはお金のことではなく、思い出という名の生きる力。
紗和は、自分の実母が亡くなった時のことを思い返した。
母の愛用していた、底が焦げ付いた雪平鍋。それは他人から見ればただの不燃ゴミだが、紗和にとっては、熱を出した夜に作ってくれたお粥の湯気を思い出すための、聖遺物のようなものだった。
あの時、自分は「早く実家を処分しなければ」という義務感だけで、それらを無機質に段ボールに詰め込んでしまった。母の人生を、私は正しく「整理」してあげられたのだろうか。
気づけば、拳を握りしめていた。
四十七年間。誰かの機嫌を損ねないように、波風を立てないように、常に自分を二の次にして生きてきた。
けれど、この仕事は違う。
誰かの人生の最後に立ち会い、その人が確かにここにいたという証を見つけ、遺された人の止まった時間を動かす。
「これは、私にしかできない仕事かもしれない」
主婦として培った、小さな汚れを見逃さない目。相手の顔色から悲しみの深度を測る感受性。和也の沈黙に耐えてきた忍耐力。そのすべてが、この「聖域」では武器になる。
隠密の学習と、変化する視界
それからの日々、紗和の日常は二重螺旋のように絡み合いながら、全く別の色を帯び始めた。
午前九時。スーパー『サカキ』の事務室。
伝票の数字を打ち込みながら、彼女の脳内では「廃棄物処理法」の分類が再生されている。
「里見さん、三番レジが混んできたから、応援お願いできる?」
斉藤さんに声をかけられ、「はい」と立ち上がる。
以前なら「また応援か……」と少しだけ溜息を吐いていた。けれど今は違う。レジに並ぶ年配の客一人一人の手に刻まれたシワ、買い物カゴに入った一人分の食材を見つめながら、彼女は無意識に「その人の生活」を想うようになっていた。
人は、どのように生きて、どのように去っていくのか。
その視点は、彼女の接客を驚くほど穏やかで深いものに変えた。
「あら、里見さん、今日はなんだか優しいわね」
常連の老婦人に言われ、紗和は頬を緩めた。
(いいえ、私はあなたの「今」を、いつか誰かが大切に整理する日のことを考えているだけです)
心の中でそう呟く。
夜、試験対策のレポートを書きながら、紗和は「自分自身の遺品」についても考えるようになった。
もし今、私が死んだら、この家には何が残るだろう。
和也が「醤油がない」と困るだけの、中身の空っぽな冷蔵庫。
理恵の成長記録とともに、いつしか更新が止まってしまったフォトアルバム。
自分を語るための言葉を持たないまま、私は消えていくのか。
絶対に、資格を取る。
そして、この「透明な私」を辞める。
決戦の朝と、一枚の封筒
四月下旬。試験当日の朝。
紗和はいつもより三十分早く起き、和也のために鮭を焼き、味噌汁を作った。
「今日は何時に帰る」
新聞を読みながら和也が問う。
「……少し遅くなるわ。用事があるの」
「ふん。パートのくせに忙しいな」
その言葉も、もはや紗和の心を揺らすことはなかった。
彼女は、アイロンがピシッとかかった白いブラウスを纏い、バッグの中に受講票と、一ヶ月かけて書き上げた課題レポートを忍ばせた。
試験会場は、都心の古い貸し会議室だった。
会場にいたのは、意外にも自分と同年代、あるいはさらに年上の男女が多かった。皆、どこか背筋を伸ばし、覚悟を決めたような顔をしている。
試験は、知識を問う記述式だけでなく、「ご遺族への対応」をシミュレーションする論述問題もあった。
『現場で、亡くなった方の愛用品を巡り、親族間で争いが起きた場合。整理士としてあなたはどのような言葉をかけ、どのような行動をとるべきか』
紗和はペンを走らせた。
正解は教科書にあるかもしれない。けれど、彼女が書いたのは、自分の魂から溢れた言葉だった。
『品物は、単なる物質ではない。それは愛情の代替品である。争いは、愛情を失った悲しみの裏返しであることを理解し、まずは彼らの「悲しみ」に静かに耳を傾けるべきである……』
試験を終え、会場を出たとき。
春の夕暮れ時、街路樹の若葉が夕日に透けて、信じられないほど鮮やかに見えた。
結果が出るのは二週間後。
けれど、合格発表を待つまでもなく、紗和の心は決まっていた。
辞職の儀式
五月十日。
スーパー『サカキ』の店長室。
紗和は、白い封筒をテーブルの上に置いた。
「退職願……? どうしたんだい、里見さん。何か不満があったかな。時給、少しなら交渉の余地はあるよ」
店長が驚いた顔で眼鏡を直す。
「いいえ、店長。本当にお世話になりました」
紗和は、深く頭を下げた。
「ただ、どうしても挑戦したい仕事が見つかったんです。私のこれからの人生を、すべて使ってでもやりたいことが」
店長室を出るとき、彼女の背中は羽が生えたように軽かった。
更衣室に戻り、十二年間使い続けたエプロンを丁寧に畳む。
名札から『里見』という文字を見つめる。
明日からは、誰かのための『里見さん』ではない。
一人のプロフェッショナルとして、死と生を見つめる『里見紗和』として生きていくのだ。
その夜。
自宅のポストに、待ち望んでいた厚みのある封筒が届いていた。
中には、一枚のカードと、金の縁取りがなされた証書。
『遺品整理士 認定証 里見紗和 殿』
その文字を見た瞬間、紗和の目から熱いものが溢れ出した。
和也との沈黙に耐えた夜も、娘がいなくなった部屋で抱えた孤独も、すべてはこの瞬間のための「材料」だったのだ。
リビングに入ると、和也がテレビを見ながら欠伸をしていた。
「おい、ビール冷えてるか」
いつもの、変わらぬ、無神経な声。
紗和は、認定証を胸に抱きしめたまま、かつてないほど明るい声で答えた。
「ええ、冷えてるわよ。……それから、和也さん。大事な話があるの。私のこれからの生き方について」
和也が驚いたようにこちらを振り向く。
テレビの音が遠のき、家の中に新しい風が吹き抜けたような気がした。
四十七歳。
人生の第二幕の幕が、今、静かに、けれど力強く上がろうとしていた。




