泥濘を眠ひて
その日は幻聴が止まない朝だった。それは私が今まで生きてきた中でもかなりの重たいもので、呼吸をそれまでの整った「せぇせぇせぇ」というものから「ひぇえ、ひぇえ、ひぇえ」という落ち着きのないものにさせていた。だから私は、この幻聴をどうにかしたくて問いかけていた。
(ねぇ、アンタらは何しに話しかけているの?)
すると幻聴たちはただヒリヒリと嘲笑いながら鼓膜を掻くような不快感のある声で、
(ザワ、ザワ、ザワ、ザワ)
と繰り返しているのだ。それが嫌になって、呼吸が震え始めて、もうどうにもならなくなって、次第に自分が何なのかについても懐疑的になっていった。これは、リンクしている思考ではない。何の関係もないところから発生する思考で、自分の意識とは殆ど関係なく連鎖的に発生するものだと認識している。
(やめて。うるさい……。うるさいよぉ……)
私が泣きそうになっても、幻聴たちはうるさく騒めき始める。いや、私が苦しんでいるのを見て、その上で楽しんでいるのかもしれない。だとすれば、それはとにかく質の悪いことだと思う。
あまりにも頭の中がうるさいものなので、私はキッチンに安置されている一升瓶を手に取った。これは記憶が曖昧だが、どこかで上司か誰かから何かのお祝いか何かで頂いたものだと思う。
これの栓を取り、一気に中身を咽喉へと流し込む。咽喉は尋常じゃないほどに熱い。焦げる。頭は刺激的にガンガンする感覚になり、一瞬は「こんなことしなきゃよかった」という後悔みたいな感情が過るが、それも咽喉元過ぎれば、次第に思考に靄がかかり、酩酊状態へと変わっていく。そうすると、頭の中のうざったい声も消え失せ、まるで最初から何もなかったかのような静けさを取り戻す。これを、私は狙っている。
もちろんそれは一時的なものに過ぎず、しばらくすれば再び幻聴はやってくる。その度に、私は一升瓶を片手に取り、自我が融解する手前までの酒を飲む。味なんて関係ない。もう今は、幻聴と縁を切りたいがために飲んでいるようなものなのだ。決して快楽や、気付けのような気持ちは、どこにもなかった。
つまり言ってしまえば、幻聴から逃れられるのであれば、一升瓶の酒なんかじゃなくても良いわけだ。自分にとって刺激的で、幻聴を祓えるほどの力を持ったものであれば、何だって良い訳だった。しかし身近にそんなものが都合よくあるわけもないために、私は一升瓶の酒を頼りにしたというわけである。
酒を飲む量は、気が付けば次第に多くなっていた。仕事に行く時間や日付も分からなくなって、時には酒を買った帰りの道にも迷ったために、タクシーを使った。仕事の関係でタクシーを拾うことが多かったために、私はこの付近のエリアではドライバーに顔を覚えられていた。
「菜津美さん、最近調子どうだい?」
「ちょ、調子ですか?」
「あぁそうさ。仕事とかで困ってることはないかい?」
「だ、大丈夫です……」
「そうかそうか。それにしても、その一升瓶重そうだね。トランクに積めばよかったのに」
「いいえ。大丈夫です……。夫が好きなものなので。私の体温で温めてるんです」
「夫ォ……?あれ?菜津美さん、アンタ結婚してたのかい?」
「え……?え、えっと……」
そんなこと言っていただろうか。とうとう、自分の放った言葉にすら、整合性が付かなくなっているところにまで来ているのかもしれない。
(……このままじゃ本当に拙い。もうこんなこと辞めて、病院に行って身体を治そう。そして、本当の意味で、夫を見つけなければ)
しかし今の私には、どうするという手立てはない。ただただ「こうなったら上手く行くかな?」というシミュレーションばかりが浮かぶだけで、現実味なんかありゃしない。そしてそれに気が付いて、また、幻聴が、聞こえてしまう……。
(ああああああうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!)
一升瓶を開ける。飲む。飲む。飲む。飲む。飲む。咳き込む。飲む。飲む。噎せ返る。飲む。吐く。飲む。飲む。飲む。視界が揺らぐ。飲む…………。
──────自分でも何が何だか分からなくなっていた。もう、自分の意識では何も解決できない。このまま私は、アルコールと幻聴に身体を支配されて、最終的には『人間失格』の主人公・大庭葉蔵と同じ末路を辿るのかもしれない。もしそうだとしたら……。怖くて、また、飲んでいる……。
「どうしよう……。どうしよう……」
まるで、犯行が暴かれたときの犯罪者のような気持だった。もうどこにも逃げられない。今さら何を翳したって、それがこの状況を覆す大きな力になるわけなんかない。所謂、袋の鼠だ。
「もう嫌……。誰か……。殺して……」
殺して。そう願い始めるということは、白旗を掲げた証だ。全ての事柄から、身を引き、抵抗する意思を棄てたという、最大の証明だ。私は、今、ここで、負けを認めたわけだった。
(諦めちゃダメだよ。)
「え……?」
何処からか、声が聞こえた。それはこれまで聞いてきたうざったい声なんかではなく、何もかもを黙って受け入れてくれるような、暖かさと慈悲によって届けられた声のように聞こえた。
(君は、これから、生きていく途中じゃないか。世が世なら、その一升瓶は火炎瓶に化ける。君には、戦うための力は、どこにでもあるんだ。勿論、君自身にもね」
「でも……。私……、怖いの……」
(何が怖いの?)
「何もかもが怖い……。このままじゃ本当に捕まっちゃう……。次はきっと檻の中になる……。もう嫌なの……。私はこの世界に居ちゃいけないんだわ……」
私は気が付けば、泣いていた。父性も母性も備えた、抗うつ剤のような穏やかな青年の声に、我を忘れて縋っていた。青年は私が大泣きしていても、嫌な顔一つしなかった。
(そうか……。今まで、辛かったんだね。でも大丈夫。もう怖くないよ。さぁ、僕に全てを委ねて。もう何も、恐れることは無いんだよ)
私に向けられた声は、私のこれまでの汚れも悪意も、生きる中で背負った大きな十字架も、全て受け入れてくれるような優しい眼をしていて、どこまでも私の表情に相応しい顔をしてくれた。
「うっ……。ううっ……」
私は彼に縋りついて、ただ、欲しかったものを受け取るように泣いた。そして「もう何も怖くないんだね」と安心して、この鬱屈した意識の奥から抜け出すように、彼に愛欲の慰めを求めていた。
(大丈夫。僕に任せて。大丈夫。君が感じるところは、全て知っているよ。君は、そのまま気持ちよくなれる姿でいいんだ……)
私は、彼の手に触れている。彼の熱い滾りが、私の中へと進んでいく。それは今までの一切を掻き消して、もうどうなったっていいとさえ思わせていく、そんな多幸感を注いでくれた。私は、全身で痙攣し、瞼の裏で彼の体温を感じ、ベッドの軋む音を響かせていた。
……あれからどうなったのかしら。
私は、どうなったのかしら。彼の体温から離れた時、私は目の前に映る全てを見せつけられていた。
それは殺風景な部屋の中で転がっている、裸の私と、体液で月明りを反射している一升瓶、どこから取り出したのかも分からない錠剤のシート、破かれた衣類、何語を書いたのかも分からない走り書きのメモ。パーカーから引きちぎったのだろう、細くて白い紐。
「……あ、……あ、……あ」
私は、急に、自分が今まで何をしていたのかという疑問の波に襲われた。そしてあの体温は、やはり空虚な幻だった。気が付いた時、私はただ、酒を飲まなければと、一直線に思っていた。
しかし、もう酒代はなかった。金の無心を出来るような仲の人も、身近にはいない。
「……最期くらい、綺麗な服がいいな」
私はまだ汚れていない綺麗な服を着ると、物干し台にパーカーの紐を結び、椅子を蹴った。
……、ガックン。




