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美豚  作者: よしだとよじ
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4.転職エージェント会社の広告

 電車は走り出し、満員の車内は揺れていた。私はおじさんとおじさんの隙間から、彼を覗いていた。彼に見られないためには都合のいい位置だった。


 私の視線は彼の横顔と中吊りやその他の広告を交互していた。網棚の上の広告に転職エージェント会社の広告があった。


 広告は未来をテーマとするキャッチコピーに、メガネとスーツ姿のデキルといった男性、そのバックには都心にそびえ立つようなガラス張りのインテリジェントビルという構図であった。そのモデルの姿は働く人間にとっては理想的な姿であった。


 そこでいつも会う憧れの彼の職業が気になった。彼はどんな仕事をしている人なのかな。姿格好からしてガテン系ではなく、ホワイトカラーな職業なんだろうな。


 いつも私と同じ通勤電車で決まった時間帯ということからして、都心で働くサラリーマンなんだろうな。見た目で判断すれば彼はデキるタイプに見える。


 言葉もしっかりしていて自分の意図を持っていて、意見もはっきり言える社員。上司からも部下からも信頼厚くて頼られていそう。


 間違えや失敗を犯しても、きちんと謝罪して許され、次へ向かえるような人。指示、指摘も爽やかで判り易く、嫌味などなく人を動かせるような人。


 彼の会社は大手で、テレビのCMなんかにも出てくるような数千人単位の一部上場の大きな会社。社屋もテレビドラマに出てくるような都心のオフィス。広く大きな素敵なエントランスがあり、美しい受付嬢が受付カウンターにいるような会社。


 社内は広く明るく、一人ずつローブースで仕切られている海外ドラマのワンシーンのようなフロア。


 机も普通のねずみ色の事務机なんかではなく、アールの形状を巧みに使った事務机というよりテーブルといったようなデスク。フロアは所々に赤や黄色の原色系が使われたデザイン事務所のような斬新なデザイン。


 休日は完全週休二日の祭日もきちんと休みで、正月、GW、お盆と会社が設定した長期連休があり、就労時間もほとんど定時で遅くても二十時までという会社。たまにドラマチックなトラブルでの徹夜とか。


 給料は若くても年齢の水準以上で、ボーナスもニュースで発表される企業平均以上。残業、休日手当てもきちんと付く世間離れした超優良企業。


 環境が良いから仕事が出来て、仕事が出来るから待遇も良く、待遇が良いからどこか人間にゆとりがある。ゆとりがあるからまた仕事も伸びる。


 私はいつもように彼の横顔を眺めながら勝手な想像をしていた。もちろん彼の名前も知らなければ声すら聞いたことがない。


 彼にはサラリーマンの、いや男性の理想の姿を勝手に当てはめて描いているに過ぎなかった。それは彼というビジュアルから勝手に描き出しているだけである。


 この“理想”と正反対の人間もいる。いや、ほとんどがそんな人間ではないであろうか。この電車に乗っている彼以外の、私の回りの人たち全員がそうではないか。特に見て取れるのが私の会社の社員である。


 風が吹けば飛ぶような十数人単位の小さな会社で、ひと時の繁栄に勘違いし、一部上場を目指すビジョンだけは大きなオーナー会社。


 社屋も都心の裏町の小さな雑居ビルで、共用エレベーターが開けばそこは事務所のような会社。受付カウンターなどなく声をかければ、誰かが出てくるような会社。


 社内は直射日光が入らずどんより暗く、事務机が無理やり向かい合った雑居ビルの典型のようなフロア。


 机も普通のねずみ色の事務机で、椅子もねずみ色のビニールのペタペタした十数年もの。フロアは分煙される前の黄色いヤニが色づくアイボリーな空間。


 休日は完全週休二日制という名の下に祭日があれば土曜出勤。そして、精神論に基づく暗に“奉仕”という名の休日営業活動。正月、GW、お盆は寸前まで分からず、やはり“奉仕”という名の休日営業活動が組み込まれる。


 就労時間は責任の範疇という残業、気まぐれな上司の段取り悪さの残業、何もなくても気遣い残業で二十時までという会社。


 給料は世間一般的ながら、不況には真っ先に社員の給与からカット。ボーナスもドキュメンタリー番組で取り上げられる中小企業のような、スズメの涙のボーナス。そのボーナスも不況には真っ先に消されてしまう“一般的”な中小企業。


 さらに意見など言えない朝令暮改なオーナー企業で、社員は常に上のご機嫌を伺い、わがままや理不尽にも物申すことなくただ従うだけ。


 他に行き所がない社員は仕方なく会社にぶら下がり、溜息混じりに背中を丸める自分を精一杯に言い聞かせている。これが現実なのかもしれない。


 うちの会社にも、目の前にいる憧れの彼と同じくらいの年齢の男性社員がいる。


 うちの会社の男性社員が冴えないサラリーマンなのかというと、根拠のない美しい理想で塗られている電車の彼と比べてしまえばそうなるのかもしれない。


 その男性社員の名前は本間清、36歳独身。どこでどんな人生を歩んできたのか知らないが、一年くらい前から転職してこの会社にいる。


 本間はずんぐりむっくりの小太りな中年という風体で、髪も気を使っているのだろうが、洒落っ気などなくおっさん臭い。


 着ている物こそスーツだから普通に見えるが、私服は全てブランド物で固めても似合うはずがないという外見である。


 冴えない中年の予備軍という感じで、若者が選ぶ「こんな大人になりたくない」という男性の典型である。会社では同僚とも交流は少なく暗さが漂っていた。


 自分の意見など持ち合わせてなく、仕事では全てが言われるままで、人望など欠片もない。この会社で何をしているのかは、上司からいびられ叱られているという以外にわからなかった。


 もちろん彼が何で叱られているのかも、具体的に彼がしている業務を知らない私には、よくわからなかった。


 私の前には長田という課長が座っている。長田は“課長”というより“カチョー”というような、この会社には相応しい見た目も性格も小さな男である。


 本間はこの長田によく呼び出されては文句を言われている。

「ほ・ん・ま君」

 長田はいつも変なイントネーションで、狭い社内で姿の見える本間をわざわざ内線で呼び出す。


 そして「ちょっと来て」と言って返事も聞かずに電話を切ってしまう。本間がそそくさと長田のもとへやってくると、長田は偉そうに本間に端的過ぎてわからない説明を始める。


「これをこうさぁ。こうして表にして。ここの数字出して」

 本間はひと通り聞くと、やはり端的過ぎてわからないからかいつも長田に聞き返す。


 すると長田はその聞き返しが相当ムカつくのか、目くじらを立てて「だ〜か〜ら〜」と語気を荒げる。私もたまにあるが、長田の説明はいつも何を言っているのかわからない。


「いつまでに作成しましょうか?」

 本間が長田に聞くと、「すぐだよ、すぐ!」と言って長田は目も合わせようとしない。


 長田は本間が嫌いなようであったが、嫌いというよりむしろ認めていないという感じであった。これでは本間も不憫である。


 本間もそんな長田が苦手なのであろう。必要以外に長田に話しかけることもなければ、近づくこともしなかった。


 そして時間が経つと、本間は与えられたことを終えて長田のもとにやってくる。

「表の方、作成しました。チェックをお願いします」


 本間がそう言って作成した書類を差し出すと、長田は本間をジロっと見て言う。

「後、後、後!そこ置いといて!」

 長田は書類を置くと、「失礼します」と言って立ち去っていく。いつどんな業務でも、長田と本間の関係は同じであった。


 私は長田が横暴でバカなのは知っているが、普通に行われているこの目の前の光景に、本間もバカで使えないのかなと思うようになっていた。


 特にそれ以上はこの会社の人間に興味が湧かなかったからどうでもよかった。

「課長!課長!」

 しばらくすると隣の部屋の社長から、課長に呼び出しがかかる。


 課長はバネが跳ねるように席を立つと、「はい!」といって社長室へそそくさと向かって行く。そして、社長室からいつもの社長の荒げる声が飛んでくる。


「これをこうして表にしてこの数字出してどうすんだ!あれをあの表にしてあの数字を出すんだよ!何度言えばわかるんだよ!」

 長田は顔を高潮させて社長室からそそくさと戻ってくると、すぐに受話器を取り、少し離れた席の見える本間に内線をする。


「ちょっと来て!」

 長田は短くキツめにそう言って、受話器をガチャ切りする。

 本間が傍らにやってくると、長田は見下すように立っている本間を見上げて言う。


「君さぁ...。人の話、聞いてんの?あれをああさぁ。ああして表にして。あの数字を出すんだよ!」

 長田が書類に人差し指をペンペン叩きながら説明を始める。そして、本間はある程度話を聞くと長田に質問する。


「この数字をこの表で出すんでしたよね?」

「お前、口挟むんじゃねぇよ」

「はい...」

「余計なことばっかすんなよ。だいたい...」

 そして長田の話がネチネチ始まる。


 これがこの会社、いや本間と長田のいつものパターンである。

 ある時、私は説教を受ける本間の顔をこっそり眺めた。本間は何か言いたげになるものの、押し殺しては「はい」「おっしゃる通りです」「わかります」を繰り返していた。


 この都心の裏町の小さな雑居ビルの限られた小さな世界。そんな世界ではあるが、ここへ中途で流れ着いた本間は仕方なくこの理不尽に従うしかないのであろう。網棚の上に掲げてある転職エージェント会社の広告を見つめていて思った。


 未来をテーマとするキャッチコピーに、メガネとスーツ姿のデキルといった男性モデルの実際の姿は、私の前で長田から説教を受ける本間のような人なのであろう。


 そして、電車は途中駅に停車した。この駅は乗換駅で大量の人が乗り降りするため、出入口付近の乗客は“シャッフル”させられることとなる。

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