3.掛け布団事件
私は女性専用車輌すぐ隣りの二両目の乗車位置にいた。そして、すぐ後ろを通過する女性専用車輌へ向かう女性たちを眺めていた。
そこにはもちろん駅員などいなく、その駅員も女性専用車輌へ行ける人の選別の話も、私の作り話で勝手な想像であった。
そんな話などありえる訳なく、私だって女性専用車輌へ行く権利は当然あった。このネタは面白いなと心の中でウケていたが、あまりに自虐的過ぎて笑い話のネタにはできなかった。まず聞いた相手が笑えないだろう。
女性専用車輌にはこんな話もあった。そもそも女性専用車輌は、女性が痴漢など男性による不快な思いを避けるために設けられた車輌であるが、そんな女性たちが集まりなかなか混んでいる車輌ということだった。
しかし、そんな車輌に乗車している女性たちも女性だけで安心とはいえ、混んでいることはそれで不快なものだという。
そこで、女性たちの間では女性専用車輌に“乗る必要のない女性”を心の中で選別するという。それが痴漢とは無縁の私のようなデブだったりブサイクだったり歳だったりという。
もちろん私が女性専用車輌に乗らないのはそんな理由ではない。
女性専用車輌すぐ隣りの二両目は、九割男性の一割女性というほぼ男性専用車輌と化していた。その一割の女性はカップルかおばちゃんかデブ・ブサイクという痴漢とは無縁な女性たち…と、勝手に定義してみるが、もちろんそんなことはない。
私がこの二両目にいるのも、もちろん自分がデブ・ブサイクな女性だと認めて遠慮している訳ではない。
この場所に辿り着いたのは事情があって流れ流れてのことだった。その事情とは毎朝見かける憧れの人とここで会えるからだった。
憧れの人はスーツのよく似合う背が高く清潔感のある好青年であった。格好良さは、私が言うのもなんであるが、中の上の中といったところで、あとは性格かなという感じだった。
決して高望みはしていないが、一般的に彼は安心感があってモテるタイプであった。彼とは週の5日の内、4日は朝のこの乗車位置で会っている。
乗車位置には私が最初に着いたり、既に彼が立っていたりしていて、それは毎朝ドキドキさせられるものであった。彼の近くに行きたいのは山々であったが、私はいつも彼から少し離れた位置にいた。
今日の彼は既に乗車位置にいて、電車が来る方向を一点見つめていた。私はそんな彼の横顔をチラリチラリと見ていた。私は彼が見える位置にいられれば良かった。彼からは自分の姿を見られたくなかった。
電車はホームに入ってくると、先頭車輌がダラダラとゆっくり私たちの前を過ぎていった。乗車位置ピッタリに車輌のドアが合わさると一斉に両開きの引き戸は開かれた。
ドアが開かれると、車内から電車を降りる人と一旦降りる人が一斉に吐き出され、再び私たち乗車する人たちは車内に吸い込まれていく。
そして、吸い込まれきれない人たちが押しくら饅頭を始める。私は車内で押しつぶされながら彼の行き先を追っていた。
やはり彼の隣り、または彼から見える場所に行くわけにはいかなかった。私が彼の見える位置へ行かなければならなかった。
そして、落ち着いた場所は彼の横顔がかろうじて見えるおじさんとおじさんの間だった。逆にこの方が彼から目立たなくて良かった。私はコンプレックスの塊だった。
小学4年生の時だった。私は明るく元気な子であったが、ある日を境に気持ちは一転した。
それまでは学力も体力も喋りも、他の女子たちはおろか男子より勝っていた。私の回りにはいつもクラスメイトがいた。
そして、私の元に来た人は必ず、私のトークに笑って楽しんでいて、給食の時間には必ず誰かが牛乳を吹き出すくらいであった。必ず私の回りには“笑い”という明るさがあった。
しかし、ある日を境に私は自分が恥ずかしくなり、これまでの自分への自信や笑ったり楽しんだりした分が、裏返った気持ちとなり私を襲った。
私は急に喋らなくなり、体も動かなくなり、心も体も不器用になった。気が付いたら私の前からは信頼の置けるクラスメイトがいなくなっていた。
今から思えばそのある日は続いたわけではなく、たったその一時だけでその一日の出来事であった。その発端は、黒板に書かれた私の名前をもじった男の子の冗談からだった。
黒板のその日の日直当番の欄に、「掛布瑠衣」という私の名前が書かれていた。何故かその男の子は、黒板の私の名前の「瑠衣」を消した。それは何かイタズラするように見えた。
私はすぐに彼の元へ行き止めてもらうように頼んだ。しかし、彼は続けた。
彼は「瑠衣」を消した部分に「豚」と書いた。彼のその意味不明な冗談には深い意図などなく、なんとなくした小学生の冗談だったに違いない。
この「豚」に回りはそんなに反応しなかった。しかし、私が反応した。
豚?私は豚なの?
確かに誰から見てもデブだったし、顔は当然人間でも豚顔というものだった。
親も兄弟も似たような顔をしていた。母親は私よりデブだった。父親はデブではないが顔が丸くて大きかった。
私は豚みたいだったんだ。いつからだろう...。いや、顔のことだから生まれてからずっとってことか。みんなは私を豚みたいに思いながら接していたの?みんなが笑っていたのは豚の私?
私の頭の中はそんな思いが巡り、ショックで頭が真っ白になった。
黒板の「掛布豚」の文字に、「かけぶとん」というふりがなが書かれた。
男の子は言った。
「掛け布団ってか?笑」
すると他の子もそれに加担した。
「瑠衣が掛け布団って重そう」
回りの数人が笑い出した。さらなる笑いを狙って他からも次々と発言が出た。
「重いから暖かいんじゃない?」
「楽しい夢見そう」
「重いから怖い夢だよ」
「掛け布団より敷布団なんだけどね」
ひと通り終わる頃には、私は頭が真っ白になりどうしていいかわからなくなり、かなりパニックになっていた。
回りの私を見る視線が「豚」と言っているように感じた。これまでの自信も希望も、みんなと笑ったり楽しんだりしたことも、全てが思い違いと考えると恥ずかしさと落胆に変わっていった。
「かっけぶとん♪かっけぶとん♪かっけぶとん♪」
頭は真っ白になり何も見えなくなった。
「かっけぶとん♪かっけぶとん♪かっけぶとん♪」
そして、この時の後の記憶はこの掛け声しか残っていない。
「かっけぶとん♪かっけぶとん♪かっけぶとん♪」