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ニヤリさんの手を握りたい

「あ、財布落ちてる」

「ほんとだ」

 初心は自販機の前に落ちていた黒い革財布を拾った。

 学校からの帰り道、一本道の途中に突如として現れる自販機の前である。

 拾った財布を初心は開けることもなく、さして立ち止まるわけでもなくただ手に持って歩き始めた。慌てて追いかける二槍が眉根を寄せる。

「ちょっと初心くん、中見ないの?」

「……見ないけど」

「なんでさ、普通は見るでしょ。なんなら自販機にお金入れてジュース買うくらいはすると思うけど」

「ダメだよそんなの、財布って個人情報の塊なんだよ? 勝手に見るなんてありえないよ」

 財布を拾ったら、中身を見ないで交番に届ける、それが当たり前だと思っていた。それに、財布の中身なんて大して気にならない。

「え~? 普通気になるでしょ~。ねぇ見せて!」

「ダメだよ二槍さん、交番に届けるんだから」

 財布を初心の手からひったくろうと二槍の触手が伸びてくる。その獲物を狙う昼間の猫のような細い目も可愛いなと思いながら初心は財布を遠ざける。

「もお~」

 ぐいぐいと押し付けてくる柔らかな感触が制服越しに伝わってきて、初心はふやけそうになった。と、不意に二槍の手の甲が初心の手に触れた。そのとき閃いた。

 これはチャンスなのではないか、初心正直。お前の目的は二槍さんと付き合うこと、好きになってもらうことだ、なら、距離を縮めるいい機会だろ。手を握るくらいのことしてみろよ。

 歩きながらも、二槍は柔らかいものを初心の肩にくっつけて最大限腕を伸ばしてくる。財布を取られないようにしているだけでこんなにいいことがあるなんて、とつい頬が緩んでしまう。

 そうだ、知り合いから友達に昇格したんだ僕は。そして次は彼女に。となると、手ぐらい握ってもいいはずだ。いや、そのくらいしないと僕が二槍さんのこと本気だって伝わらないかもしれない、そうだ、やろう!

「二槍さん、せっかくだからゲームでもしようか」

 初心が勝負を仕掛けにいった。いつものニヤニヤスマイルをここぞとばかりにお返しだ。

 ただ手を握るのは初心にとってはハードルが高すぎたのだ。ゲームに勝利したら手を握れるという口実があったらまだ頑張れる。二槍もからかいづらいだろう。それに、二槍の性格なら確実にのってくる。

 ニヤリ。

「いいよ~初心くん。珍しいね~、初心くんから仕掛けてくるなんて」ニヤニヤ。

「まあね」

 初心は財布を二槍の前に持ってきて見せる。そして今思いついた簡単なルールを話し始める。

「この財布の中の金額を互いに言って、近かった方の勝ちにしよう。僕が勝ったらそそその、てて手をつないでもらうかから」

「なにテンパってるのさ初心くん、口にしただけでそんな緊張してるなんて、相変わらずウブウブだね~」

 ツンツン、と頬を突いてくる。もちろん天使のようなスマイルを浮かべながら。

「い、いいから! やるの? やらないの?」

「ふふっ、いいよ、やろうか」

 二槍は一瞬空を見上げて思案顔を作ってから、楽しそうな表情で言ってきた。

「じゃあ私が勝ったら、交番までおんぶしてもらおっかなぁ」

「お、おんぶ⁉」

 二槍の出してきた提案に初心の表情筋は正しく反応していた。男をおんぶするならただの罰ゲームになるが、女の子をおんぶとなると、それはご褒美にすらなってしまうからだ。おんぶの体勢になった二人を想像する。

 現役JKのハリのいい太もも。背中に乗ってくる確かな重量感と、柔らかな感触。後ろから手を回されて耳元にかかる吐息。鼻腔にはシャンプーのいい匂い……。

 ゴクリ……。

 どっちが正解なのか初心には分からなくなっていた。自分が勝ったら手を繋ぐことができるが、負けたらおんぶができる。正直、どっちもありがたいことだった。心臓が急にドキドキしてきて、それが表に出ないように必死に表情を保とうとするも、二槍にはバレバレのようだった。

「初心くん、エッチなこと考えてるでしょ」

「いやあっ! そんなことないよっ!」

「声裏返ってるじゃん」

 プフー、と笑う二槍。初心は、いいから早くやるよ、と気を取り直して(実際にはマグマのごとく心臓が脈動している)推理し始めた。手に持っている二つ折りの黒革財布を見て、

「この財布はボロボロだ。まあまあパンパンだけど、触った感じ、小銭とポイントカードが詰まってるんだろう。硬いし重いからね。ポイントカードをたくさん持ってるってことは、ポイ活してる人の可能性が高い。そんな人は、お金持ちなはずがない。……つまりこの財布の中に入っている金額は、一万円だ!」

 見事な推理をしたつもりが、隣の二槍は「え~?」と懐疑的な目を向けてくる。

「じゃあ次は私の番ね?」

 そういうと二槍は推理を披露することもなく、ただ財布をちらっと見ただけで口を開いた。

「四万五千円ってとこかな」

 片眉を上げ、得意顔をしてくる二槍のその表情も初めて見るが、なんとも素敵だった。赤面しそうなのを気合で押さえつつ、財布をゆっくりと開けていく。ちなみにこのとき初心はすでに手を繋ぐかおんぶするかの二択のことしか頭になく、最初に言っていた個人情報を盗み見ることへの罪の意識と正義感はとっくに抜け落ちていたのだった。

 二つ折りの財布が開き、奥に収納されていた数枚の札が見えた。二槍が我慢できずにそれを引き抜くと、

 四万七千円!

 なんと、五万近くの大金が入っていたのだ。ぼろい財布かと思っていたら、年季の入った財布だった。なにはともあれ、ほぼニアピンで当てた二槍の勝利となった。

「いえーい!」

 ピースサインを振りまいて楽しそうにはしゃぐ二槍。

「はあ、負けちゃった……」

 落ち込んでいる素振りを見せる初心……の中にあったのは落胆、ではなく、喜びに満ち溢れた心情だけだった。

「初心くん、お~んぶ!」

 初心はカバンを前に背負いなおし、背中を見せてしゃがみ込む。もう突き当たりの信号の手前まで来ていたので、交番までは直線距離にして二百メートルほど歩くだけだ。くそ、どうせならもっと遠くにあったらよかったのに!

 恥じらいなく飛び乗ってきた二槍のふんわりとした女の子の感触をどう感じたかは、言うまでもなかった。初心は二槍に見られないことをいいことに、変態親父のように鼻の下を伸ばしながら歩いた。途中、すれ違ったおばさんや小学生に笑われたことに、初心は気づかなかった。


 小さい町交番のドアをガラガラと開けると、ちょうど一人の年老いた警察官が椅子に座って書類を眺めていた。警察官ではなく交番相談員ということは初心には分かっていたが。

「おお正直! どしたあ?」

 なぜなら老眼鏡を鼻にかけているその白髪のおじいちゃんは、初心の祖父だったからだ。

「今日じいちゃん当番だったのか。まあいいや、はいこれ、落ちてたから」

 拾った財布を手渡すと、祖父は目をぱちくりさせてそれを見た。老眼鏡を押さえながらまじまじと中身を確認していき、

「おお、これ俺のだ! サンキュな、正直!」

「え、これじいちゃんのだったの?」

 実は午前中に見回りに行って帰ってきたら無くなっていたんだよ、と説明された。運転免許証などを確認すると、たしかにじいちゃんの顔や名前が書かれていた。五万近くの大金のことを聞くと、テレビが壊れちまって、と大方予想通りの返答が来た。

 とまあ、それはさておき。

 祖父の視界にも入っているはずなのだが、なかなか突っ込まれない。もしかしたら初心とは関係のない客人だと思われているのかもしれない。だから二槍のことを説明しようかと迷っていたら、

「お前……」

 祖父が目尻をしわくちゃにしながら初心の両肩を力強く握りしめてきた。涙ぐんだ声で二槍のほうをちらと見てから言った。なんだ、気づいてたのか。

「やっとお前に彼女ができたのか、そうか、成長したなあ」

 嬉し泣きまでされるとは正直驚いた。が、勘違いは正しておかなければ。

「違うんだじいちゃん。僕とこの子は友達なんだ」

「へ?」

「初めまして、初心くんの友達の二槍仲美といいます」

 行儀よく丁寧に一礼する二槍からは、良妻賢母のような雰囲気が滲み出されており、これは誰が見ても勘違いしてしまうだろうと思わざるを得なかった。祖父もその様子に、

「友達、にしてはなんか……なあ? お前の反応も妙な気がするし……」

 初心と二槍を交互に見ては眉根を寄せる祖父は、いやどう見てもお前の顔には好きと書いてあるぞとでも言いたそうな表情で初心を見てくる。その通りなんだじいちゃん。

「言ってもいい?」

 二槍に聞くと、もちろん、と快く返事をくれた。正直二槍が悪者のように見えてしまう可能性があるから、親とかにはどう説明しようかと思い悩んでいたのだが、二槍がいいならいいか。最後には絶対彼女にするし!

「じいちゃん、その、僕は二槍さんのことが好きで、それを伝えてはいるんだけど、まだ二槍さんは僕のことを異性として好きにはなっていないというか、まだ友達止まりなんだよね。で、でも別に二槍さんが僕のこと弄んでいるとか、そういうのじゃないからねっ!」

 小春に疑われたこともあり、言わなくていいことまで言ってしまった。しかし祖父は一度二槍のほうに視線をやり、初心に視線を戻してからなにか納得したように鼻から笑った。

「そうかい、頑張れよ正直」

 想像とは違い、二槍を悪女呼ばわりすることも、孫を心配するような素振りも見せなかった。それどころか、嬉しそうに笑ったのであった。

「お前に女友達ができたなんて、すげえなあ。婆さんに報告しとかないとなあこれは」

 祖父が嬉しそうに笑い、初心の肩に手を置いてくる。うん、そうだね、と答えて祖母の顔を思い浮かべる。

 祖母は生前、しつこく彼女はまだできんのかい、と言ってきていた。だから彼女を作ろうと焦って告白し始めた。一昨年祖母が死んでからは、今度は祖父からも言われ続けてきた。きっと二人とも、唯一の孫である初心のことが可愛くて仕方なかったのだろう。まあ、それがなくても彼女が欲しかったことには変わりないのだけれど。

 と、少ししんみりした空気になったところで、祖父が言い出した。

「じゃあいつ付き合うんだ?」

「……え?」

 初心の声ではない。祖父の瞳には二槍が映っていた。いきなり話を振られたことに驚いたのか、その直球な質問にたじろぐ二槍。

「ちょっとじいちゃん、そんなのわかんないよ、気持ちの問題なん——」

「——いつ好きになるんだい?」

 祖父のまっすぐすぎる言葉に、いくらなんでもと思って止めようとしたが、無理だった。祖父の圧に負けたように、二槍が喋り出す。

「ええっと、……まだわからないです。でも、遊んでいるわけではないです、これは本当です。ただ……」

 二槍が言いよどむ。祖父が責める。

「別に付き合ってから好きになるんでもいいと思うけどなあ」

 祖父の声音は真剣だった。本気で怒っているわけではないが、知りたがっているのだろう。なぜ好きになってからじゃないと付き合わないのか、と。片方だけが好きで、それを受けて付き合うようになってから両想いになるパターンも確かに存在する。二槍は一つ深呼吸をしてから、胸に手を当てて喋り出した。

「私、これまでお付き合いしてきた人とは、すぐに別れてしまっているんです。こっちが好きな気持ちを持たないまま付き合ってしまったことが原因だったと思っていて。だから本気で好きになってないのに付き合うってのはしたくなくて」

 話を聞いた祖父が、値踏みするかのようにぎらついた視線を向ける。

「ほう」

 鋭い視線に射抜かれたのは二槍だけだが、初心まで緊張してしまう。交番内の空気が一瞬にしてピリついたような気がして、息をのんだ。

 先を促された二槍は少し紅潮し、決意の眼差しで続けた。

「だから初心くんのことを好きだ、って私が本気で思ったときに、ちゃんと言葉で伝えてから付き合おうと思っています。決して遊んでいるわけではないです」

 おお、と初心は心の中でガッツポーズする。何気に今までちゃんと二槍の気持ちを聞いたことがなかったので、じいちゃんナイス! と目配せする。すると、ふっ、と祖父が柔らかく笑った。

「そうかいそうかい。……悪かったね嬢ちゃん。あんたの本当のところを知りたくてね、ちょっとばかし威圧してしまった。謝るよ」

 祖父は白髪頭を二秒ほど下げた。初心は、祖父が昔凶悪犯の尋問を任されていた、と言っていたことを思い出した。今はもう定年を迎えて交番相談員という立ち位置に収まっているが、まだまだ牙は抜かれていなかったということだ。

「いえ、全然大丈夫です」

 首を振り、ニコッと花のように笑顔を作る二槍。初心がちょっとビビった祖父のにらみは、二槍にはあまり効いてなかったみたいだ。さすがは二槍さんだ。

 祖父が唐突に初心の首に手を回して立ち上がった。そのまま応接室から裏へと続く扉を開け、

「ちょっと待っとれよ嬢ちゃん」

 と言い残して初心は拉致された。


「ちょっとなにすんのじいちゃん」

 というか孫とはいえ一般人を交番の裏部屋に連れてっていいの? と聞いたが、祖父は聞いちゃいなかった。

「正直……」

「……なに?」

 なんだ、怒られるのか……?

 祖父のしわくちゃだがちょっと怖い顔が近づいてきた。くわっと目を見開いたかと思うと、肩をガシッとつかまれた。無駄に鍛えているせいで、握力が強い。

「正直、あの子、めちゃくちゃ可愛い子だなあ! じいちゃんテンション爆上げだよ!」

「……えー」

 表ではああ言ってたけど、実は初心たちの関係に腹の底が煮えくり返るくらい激怒しているのかと思ったのが、馬鹿らしく感じた。なんだよ、超嬉しいだけかよ。

「お前、あんな可愛くていい子、そうそういないぞ! ありゃ婆さんクラスだよ!」

 祖父が二槍のことをべた褒めしてくる。自分が褒められたわけじゃないのに、なんだかすごく嬉しい。まあ、『いい子』かどうかは置いといて、ね?

 祖父は鼻息荒くさらに詰め寄ってくる。

「というか、いい加減肩痛いんだけど」

「ああ、すまん!」

 興奮のあまり力の加減を忘れていたようだ。尋問もしていた時期もあったのだが、祖父は元々バリバリの武闘派で、現役を退いてからも老い防止とかで熱心に近くのジムに通っているのを初心は覚えていた。はっきり言えば、筋骨隆々のマッチョじじいなのだ。

「で? どうやって落とす気なんだ?」

「……うーん。いや、実はあんまり思いついてなくてさ」

「なにい?」

「いや、前に考えてたのはあるよ? ピンチからかっこよく救い出すヒーローみたいに二槍さんを助ければ、思わず惚れてしまうんじゃないかって。でも、それは前に断られてさ——」

 ——私は多分、助けられても好きにはならないと思うな。

 どうやったら惚れるの? みたいな質問をしたときにそう言っていた気がする。だが祖父の反応は肩から伝わってくる力の強さに表れていた。

「いいやそれだよ! それが正解だ! 女はな、男の強さに惚れるもんよ。だから、どんなに小さいことでもいい、困ってたら助けてやれ! この人になら頼っていいって思わせられれば、もうこっちのもんだ!」

「そ、そういうもん?」

「おうよ」

 祖父は肩から手を離し、ごつごつした大きい拳を丸め、太い親指を立てた。そして己を指さす。

「ばあさんを落とした俺が言うんだ、間違いない!」

 説得力は、たしかにある。

 イケメンでもないただの警察官だった祖父が、二槍レベルに美人だった祖母と結婚しているからだ。初心も若い頃の祖母の写真を見たことがあるが、相当に美しかったのを覚えている。女を顔面で選ぶのも遺伝なのかもしれない。

「それに」

 祖父が声の調子を落として、扉の向こうで待っている二槍の方向を見て言う。

「もうあれは、お前のこと好きになってると俺は思うがなあ」

「ほんと⁉」

「ああ、少なくとも俺にはそう見える」祖父は自信があるのか、頷く。「ま、頑張れよ」

「うん!」

 二槍が初心のことを好きになっている可能性がある。聞きたかった評価が、親族から聞けたことに初心は舞い上がった。月面でジャンプするとかなり高く跳べるというが、今の初心なら地球上でそれができそうなくらいには舞い上がっていた。

 裏部屋から出ていく間際に祖父に言われた。

「正直、絶対モノにせえよ!」


 交番を出た後、すぐ前の十字路の青信号が点滅しているところだったので、二人で立ち止まった。初心はさっきの祖父のアドバイス通り、聞いてみることにした。惚れさせるために。

「ねえ二槍さん、今困ってることない?」

「いきなりどうしたの?」

「いや、いいからいいから」

 にやけている面が不審に思われたのだろう、二槍が初心の表情を見て薄く笑う。

「う~ん。そうだな~」

 あごに指を当て、頬を膨らませている。ぶりっ子っぽい仕草だな、と一瞬思ったが、それが自然に絵になるし超可愛かったから許した。

「初心くんが鈍すぎることに今困ってるって言ったらどうする?」

「え、それって……」

 心臓がビクンと跳ねた気がする。祖父の言葉が蘇る。

 ——もうあれはお前のこと好きになってると俺は思うがなあ。

 鈍いっていうのはそういうことなのか? やっぱりじいちゃんの感じたことは正しくて、もう二槍さんは僕のことを好きになっているのか? だとしたら、聞かないわけにはいかない。勇気を出して、初心は聞いた。

「鈍いってそれはつまり……。僕のこと——」初心は心臓をバクバクさせながら息を吸う。「もう好きになってるってこと⁉」

 言った、言ってしまった。……これで勘違いだったら、超恥ずかしいな。

 初心は、この時ばかりはウブウブの実を食べた当初に戻ったように、二槍の顔を直視できなかった。それくらい恥ずかしかった。だが視界の端には、二槍の驚いて図星を当てられたように開かれた口元が……、

 ……あるわけなかった。ニヤニヤしていた。

 しまった、またやられた。

「え~初心くん、私がもう初心くんのこと超大好きって思ってるって思ったの~? へえ~」ニヤニヤニヤニヤ。

 赤信号の色と同化できるくらいにはもう赤面しているだろう。初心は二槍の顔からちょっとずらしたところを眺めるしかできなかった。

「鈍いって言ったのは~」

 二槍が強引に視線の先に回り込んできて、初心と目を合わせた。それから人差し指を初心の股間に向けて指した。

「チャック開いてるのにずーっと気づかないことだよ~」

「わっえっ⁉」

 慌てて初心は社会の窓を勢いよく閉める。

「い、いつから⁉」

「今日学校から出てきてからずっと……」プフッ。

「そんなあ、もう! 早く教えてよー!」

 二槍はさらさらの髪を肩から滑り落としながら、腹を抱えていた。チャック全開で下校していたことでこんなに笑えるなんて、小学生みたいだなと思いながら、つられて初心も笑った。

 あ~あ、とまなじりを擦って笑い止んだ二槍がいい顔で言った。

「でもまあ、友達としてはもう完全に——なのかもね」

「え? なに?」

 信号の変わり目にスピードをつけて突っ込んできたトラックの音にかき消され、ちょうどそこだけ聞き取れなかった。でも、口の形でなんとなくわかった。それだけで十分嬉しかったが、やっぱりちゃんと聞きたかった。

 二人の前の信号が青になった。二槍に手を引かれて横断歩道に飛び出す。

「ほら、いいから帰ろ!」

 ニヤニヤ顔と天使顔の中間くらいのとびきりの笑顔で言われると、はぐらかされそうになっていることがどうでもよくなりかける。だが、

「今、好きって言ったでしょ!」

「言ってないよ~」

「言った! 絶対!」

 初心はチャンスを逃さなかった。たとえ異性としての好きではないにしても、認めさせたかった。

「ねえ好きって言ったよね!」

「言ってないよ~、仮に言ったとしても友達としてだよ~?」

「言ったでしょ——って、あ、今のは認めたってことね! うん、ありがとう! それでも嬉しいよ!」

 ふふっ、と微笑した二槍は、横断歩道を渡り終えてもなお初心の手を握ったまま歩き続けた。嬉しがっているような、恥ずかしがっているような横顔を初心はニヤニヤして見つめた。


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