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二槍さんに会いたい

 放課後になって共同玄関を出たときに、いつもの癖で木のほうに視線を向けた。

 だが、当然そこには誰もいない。女神もいなければ、天使も女王様もいない。

「あー、二槍さんに会いたい」

 学校に行けるくらいには回復している、と診断されたはずがまだ痛む全身の骨を軋ませながら、包帯グルグル状態の初心は一人帰路に就くのであった。

 歩幅の合わない階段を、手すりに体重をかけて降りながら、初心は病院で目を覚ましてからのことを思い返す。

 全身打撲やら複雑骨折やら陥没骨折やらでなんとかなんとかです、と色々なことを医師に言われたが、要約すると全身ボロボロなので一か月入院です、とのことだった。それを聞いたベッド脇にいた父と母が、命あるだけよかったです、と言ってくれて少し泣きそうになったのをよく覚えている。

 その後、父と母、そして妹から一発ずつびんたを食らった。「めちゃくちゃ心配したんだからな」「このまま起きなかったらどうしようって思って……」「バカお兄!」三人に言われて、初心は猛省せざるを得なかった。二槍救出作戦を話した時に最後まで反対していた母には、特に頭が上がらなかった。

 だが一方で、二槍を救ってくれてありがとう、とも言われた。そこは素直に嬉しかった。次に、体の周りの空気が歪んで見えるほどに激怒している祖父が病室に来た。当然のように鉄の拳骨を食らった。「やられすぎだ、バカたれ」

 あの時公園で話した作戦は、初心は家の外で一発いいのをもらうだけで、そこを祖父に現行犯逮捕してもらう、というものだった。だから、生死をさまようほどに殴られ、周りにどれだけ心配と迷惑をかけたかを反省させられた。

 その後、入院が一週間長くなるのを覚悟するほどに初心のことをボコボコにした祖父は、それでも最後に言ってくれた。

「結果オーライとはいえ、あの嬢ちゃんを助けたことだけは感心する。よくやった、さすがは俺の孫だ」


 祖父に言われた最後の誉め言葉を思い出しながら、一人とぼとぼと長い一本道を歩く初心。隣には、誰もいない。

「はあ」

 自然と、ため息が出てしまう。二槍を助け出したことは間違いないのだが、聞かされた話だと、完全なるハッピーエンドとはならなかったようなのである。

 そうはいっても、二槍の叔父である殻石が逮捕されたことは確かだった。しかも驚くことに、あの男は虐待の罪の他にも逮捕される理由があったらしく、刑期がかなり伸びたそうだ。どうやらあの男の経営する会社には、反社会的勢力との繋がりがあったらしい。

 これでしばらくは報復のことは考えなくて済むだろう。

 ぶんぶんと頭を横に振り、水を飛ばす犬のように嫌な考えを振り払う初心。あの男のことはとりあえずそれでいいとして、今は二槍さんのことを考えよう。

 母や妹が言うには、二槍は児童養護施設なるところで暮らすことになったらしい。父も母も小春も、家族全員が二槍と一緒に暮らすことに賛成し、誘っていたのにもかかわらず、二槍は、卒業したら自活するつもりだから、という理由でこれを固辞したというのだ。

「なんでだよ二槍さん」

 初心は、二槍が下した決断の意図が分からなかった。言葉の裏にもしかしたら、迷惑をかけたくないだとか、負担になりたくないだとか、まだそういうことを考えているのなら、それは違う、とはっきり言いたい気持ちに駆られた。早く会って、ちゃんと話したい。

「どうして」

 朦朧とした意識の中、たしかに最後、初心が問うた大事な質問に、答えてくれたはずだったのに。

「……好きって、言ってくれたじゃないか」


 坂道を上り、自宅の前にたどり着く。気分は憂鬱。もうベッドにダイブしたい。

「ただいま」

「お、おかえり~」

 玄関を通り一階のリビングに入ると、ソファに座ってくつろいでいる様子の小春が、振り返って笑いかけてきた。その笑顔を見て、二槍のニヤニヤフェイスをつい思い出してしまう。

 ねえねえ、と妹はこちらの気も知らずにテンション高く初心に話しかけてくる。テレビのほうを指さし、

「お兄、この人知ってる? 超可愛くない?」

 夕方の地方番組に出ていたのは、大学生くらいの年齢の綺麗な女性だった。煌びやかな衣装を着て、壇上でマイクを向けられている。インタビューに答えているようだった。

「ミスコンだってさあ、しかも、○○大だってさ、めっちゃ近くじゃん! お兄、今度見に行ってきなよー」

「え、いやぁ、……いいよ」

「なぬ! 面食いのお兄が、近所の美人に興味を示さないなんて!」

 画面には初心が高校を卒業後にエスカレーター式に上がる大学の名前が書いてあった。妹の言う通り、高校から歩いて五分ほどの場所にある大学なので、いつでも覗きにいける。

 画面の向こうにいる女性は美しく、可憐で、初心の好みの顔をしていた。だが、前までのように一目惚れしてしまうことは微塵もなかった。なぜなら、

「僕、分かったんだよ。人間一番大事なのは、外見じゃない。中身なんだってことが」

「……ぐす、お兄、成長したねぇ」

 泣きまねをする小春に小バカにされながらも褒められた。なんだこいつは、と思う所もあるが、初心はリビングを後にした。

 二階の自室に入り、ネクタイも取らないままベッドにダイブした。二槍さ~ん、二槍さ~ん、と感情のない声で、呪詛のように声に出す。こういうのもなんだが、初心は相当頑張ったと思う。だからその分の見返りがあってもいいんじゃないか、二槍が初心家の家族として暮らせるようになっていてもいいじゃないか、と心の中は不満でいっぱいだった。

「ん?」

 ふと、朝這い出てそのままの、オムレツのようになっている掛け布団に違和感を覚える。なにか、妙に盛り上がっているような……。というかこれ、誰かが入ってるんじゃ。そう思った初心は、布団に手を伸ばし、恐る恐るめくってみようと——

「じゃじゃ~ん! おかえり初心く~ん!」

「えええっ⁉」

 上下ともチェック柄のパジャマを着た二槍が、布団の中から飛び出してきた。あまりの驚きに、初心はひっくり返ってベッドから転げ落ちる。なんで、どうなってるんだ。

「サプライズ成功~!」

 フフ~ン、と鼻息出して喜んでいる二槍。ちょっと理解が追いつかないので、姿勢を元に戻してから、初心は聞いた。

「二槍さん、児童養護施設に行ったって聞いてたんだけど」

「ああそれね」二槍は明るい声で言った。ニヤニヤ顔を作って。「あれは嘘。初心くんのこと、びっくりさせたくて。というか、びっくりした顔が見たくて」

「ええ~」

 いや、驚いたけども、と内心思う。それに、相変わらず初心の反応を見るのが好きなようだ。そういう所も愛しい。そして、布団の中からパジャマ姿で出てくるなんて、なんて素晴らしいサプライズなんだ、と感動していた。

 だが、ふと、じゃあ今はどこに住んでいるのか、という疑問が湧く。殻石家ではないだろうし、児童養護施設でもないとすれば、一体どこに? そう聞くと、二槍は下を指さして、

「ココ」

 ……。初心の頭に空白の時が流れ、ココ、という意味を考え、首を捻る。数秒後、豆電球が光った。

「ここって、うちのこと⁉」

「……まあ、そうね」

 なにか含みを持たせた言い方をする二槍は、ニマッと笑顔を作り、ベッドの上で正座した。それから両手の指を前について、体を折り曲げた。

「私二槍仲美は、正式に初心家で暮らすことになりました。何卒よろしくお願いいたします」

 深々と頭を下げる二槍を前に、初心はその言葉の意味を咀嚼し、脳に浸透させた。嬉しさのあまり、自然にひまわりのような笑顔が咲いてしまう。

 頭を上げ、少し照れたように頭の後ろを掻いた二槍は、舌を出しておちゃめな顔を見せて言った。

「まあ、まだいろんな手続きが残ってるんだけどね。とりあえず、住むのは今日からここになった、ってこと」

「そっ」天にも昇る気持ちだった。安心と喜びが「かぁ」口から漏れ出た。

「それと、住む部屋もここに決めたから。よろしくね初心くん」

 あんな地獄のような家にいた子が、うちで暮らせるようになった。そのことに、安堵と嬉しさでいっぱいの気持ちになっていたところに、二槍のあっさりとした重大な告白が飛んできた。

「え? ……今、住む部屋もここって言った?」

「——? そう」

 なに言ってるの当然でしょ? そんな二槍の表情だった。

 目をパチパチと瞬かせ、またもや呆然とする初心。自動的にあれこれと妄想を膨らませてしまう。脳内で、あんな妄想やこんな妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消え、を繰り返す。

 よだれを垂らしていることにさえ気づかないほど幸せな妄想に耽っていた初心を、二槍の「初心くん、よだれよだれ!」と言う声が現実に引き戻した。

 初心はよだれを拭い、ベッドに座る可愛い天使を見やる。リアルな美少女が自分の使い慣れた寝具の上に乗っているというのは、思いのほか興奮するものだ。

 だが、付き合ってもいないのにこんな一緒の部屋に住むなんてことが、許されるのだろうか。妄想ではない眼前にいる美少女を見て冷静になった初心は、ふとそんな当たり前の疑問に行き当たった。

「あれ、ちょっと待てよ」

 口の中で呟き、二槍になにか大事なことを言われた、というか言わせたのではなかったのか、と思い返す。……思い出した。二槍の顔がちょっと赤いのを見て、思い出した。

「あの時は意識がはっきりしてなくてさ、よく覚えてないんだけど。……その、つまりさあ、一緒の部屋に住むってことは、その……、ねえ? なんか、あれだよね、心境の変化とか、あったりしたのかな? んー、例えば、なんだろう……」

「え、なに? 私になにか言わせようとしてる?」

 困り眉を作りつつも、なんだか楽しそうにニヤニヤする二槍。その彼女が、床に座っている初心を手招きして、ベッドをポンポン、と叩く。ここに座れ、という意味だろうと解釈し、初心は内心もじもじしながら二槍の横に腰かける。

 唇を湿らせ、初心は二槍に向かい合って目をしっかりと合わせる。

 まずは、しっかりと自分の意思を伝えよう、もう一度。男らしく、それでいて正直な言葉で。初心はゆっくりと口を開く。

「——二槍さん、僕は、あなたのことが好きです。外見も、中身も、まだまだ知らないことはたくさんあるけど、たまらなく好きです。これから、もっと知っていきたいです。だから、友達以上恋人未満から、ランクアップさせてください!」

「……ふふ、初心くんらしいね。ランクアップって」

 二槍はちょっと恥ずかしそうに笑い、姿勢を正した。

「いい? 私がこんなこと言うの、初心くんが人生初めてなんだからね?」

 前髪を整えたり手をモジモジさせたり、口を何度か開きかけたり、二槍は二槍らしくない行動をした。それから心の準備が整ったのか、初心のほうを見上げて、これ以上ない満面の笑みで言った。

「二槍仲美は、初心正直のことが大好きです。あなたを、長らく留めていた友達以上恋人未満のランクから、昇格させます。初心くん、今日からあなたは私の恋人です」

 その言葉に嬉しさ爆発、岩石が何キロも飛ぶくらいの噴火をした初心は、頭から蒸気を発生させながら、力強く返事した。

「——はい!」

「あ、超顔赤い。やっぱウブだね初心くん」

 身を乗り出した二槍が、初心のほっぺをつんつんと突いてくる。そんな二槍の顔も、負けじと耳まで真っ赤だった。

「ね、目、閉じて」

「え?」

 心臓が張り裂けそうになるほどの急接近を果たした二槍の可愛すぎる顔面が、世界で一番期待してしまう言葉を口にする。初心は期待を胸にしまいきれずに目を閉じ、これでしょ、と言わんばかりにキス顔を作る。キスだこれ、キスしかないよこれは、と初心の中では細胞の一つ一つまでもが騒ぎまわっていた。

 そして——、

「——」

 柔らかな感触が、初心の唇に一瞬だけ触れる。本当は目を開けてしまいたかったが、我慢して二槍の言葉を待つ。

「目、開けていいよ」

「うん」

 ゆっくりとまぶたを持ち上げ、正面に座る二槍の体を、太ももの辺りから見上げていく。今、一体どんな顔をしているのだろうか。初心は二槍の反応が楽しみだった。今までこちらをからかってはニヤニヤ笑い、本気で照れているところを見たことがなかったからだ。もし照れて赤くなっていたら、その表情を脳裏に焼き付けてやる。

 そんな密かな反逆を胸に抱きながら見上げた二槍の顔はと言えば……。


 ニヤニヤ。


 予想を裏切る、これ以上ない最大級のニヤニヤフェイスだった。唖然とする初心の前で、二槍は指でつまんでいたなにかを初心に見せつけながら言った。

「さて問題。今初心くんとキスしたのは、私でしょうか、それともこのあっためておいたグミでしょ~、か?」

「に、二槍さ~ん!」

 最後まで初心をからかう姿勢を崩さない二槍に、初心は抗議の声を上げる。それはないよ二槍さん、と。だが内心では、どちらとキスをしたのか、はっきりとわかっていた。なんだか恥ずかしいから初心も分からないふりをしているだけだった。

「毎晩一緒に寝ようね初心くん」

「ほぇ⁉」

「あ、エッチなこと想像したでしょヘンタ~イ」

 なんて、こんな楽しい会話が心の底からの笑顔でできていると、そう感じ取れた。

 初心正直は二槍仲美の中身を、これからもっともっと知っていこうと思った。


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