イゴールの決定
ソフィアは、控えの間についてすぐに激しい眠気に襲われた。
ドラゴンの侍女が、ふらついたソフィアを支えて慌てて言う。
「ソフィア様?どこかお悪いのですか。」
ソフィアは、首を振った。
「いえ…何やら眠気が。」
昨夜、遅くまで訓練場に居たのが悪かったのか。
ソフィアは、侍女達に支えられてソファに座った。
「イゴール様はお務めでいらっしゃいますし、ここは少し休まれては。」侍女が、急いでベールを取って服を緩めてくれた。「さあ、もし宴などにご同席となれば、眠気を堪えるのも大変なことに。」
ソフィアは、言われてみたらそうだと頷いた。
「ええ。王がお呼びになられたら、起こしてちょうだい。少し休むわ。」
ソフィアは、フラフラとする足を進めて奥の寝台に移り、そこで倒れ込むように眠りに落ちた。
それからの事は、全く分からなかった。
イゴールは、言った。
「…紫翠殿に頼みたいのは山々だが、我は紫翠殿がどこまで霧を扱えるのか判断が付かぬ。何より本神が無理だと申すのに、それを無理強いして失敗したとなれば目も当てられぬ。ならば、臓器がそこまで巻いておらぬのを期待して、腹を切り開くよりあるまい。」
維心は、それを聞いてため息をついて頷いた。
「主がそう申すのなら。」と、脇に控える義心に頷き掛けた。義心は出て行く。維心は続けた。「…せめてもと、我が龍の治癒の長を連れて参っておる。明花と申す。こやつにどうにもならぬのなら、この地上にどうにかできる治癒の神はないだろう。」
炎嘉は、頷いた。
「龍の治癒術は当代一ぞ。臓器の復活もやってのけるが、そやつらにどうにもならぬのなら誠にどうにもならぬのだ。感謝するが良い、イゴール。維心がこれを連れて参ったのは、ソフィアの命を繋ぐためぞ。」
イゴールは、そこまで考えてくれていたのかと、深々と頭を下げた。
「誠に維心殿には頭が上がらぬ。そこまで配慮してくださったこと、礼を申す。」
維心は、ため息をついた。
「まあ、維月がなんとしてもソフィアの命を繋いで欲しいと懇願したからぞ。礼なら維月に申せ。」
義心が戻って来る。
後ろには、明花他二人の女神が居て、維心に深々と頭を下げた。
「王。お呼びにより参上しました。」
維心は、頷いた。
「申しておいたことぞ。イゴールは、主らに託す事を選んだ。できるところまでやるが良い。」
明花は、表情を固くした。
「はい。ご期待に添えるよう、力の限り励みます。」
ヴァルラムが、立ち上がった。
「では、控えの間に。恐らくソフィアは眠っておるだろう。術を掛けるように侍女に申し付けておいたゆえ。知らぬ間に終わった方が恐怖もなく良いだろうと思うてな。話してしもうては…ソフィアも辛かろうし。」
では、ソフィアは何も知らない間に黄泉へ行くかもしれないのだ。
イゴールは固い顔をしていたが、一同は立ち上がって、ヴァルラムについてイゴールの控えの間に向けて歩いて行ったのだった。
控えの間に入って行くと、侍女が奥から出て来て頭を下げた。
「王。」
ヴァルラムは、言った。
「ソフィアは?」
侍女は答えた。
「はい。よくお休みになっております。」
ヴァルラムは、また頷いて言った。
「主は下がって良い。」と、侍女が出て行くのを見送って、イゴールに言った。「ではイゴールよ。奥へは普通、皆入れぬが、此度は確かに術が消えるのを確認せねばならぬ。ゆえ、その段階になれば参るぞ。良いな。」
イゴールは、頷いた。
「分かっておる。」
維心は、明花を見た。
「恐らく困難な場所まで切り進まねばならぬ。これ以上は無理だと思うたら申せ。」
明花は、頭を下げた。
「はい。仰せの通りに。」
明花は、他の二人に頷き掛けて、そうして三人は、イゴールと共に奥の間へと入って行った。
炎嘉が、それを見送って言った。
「…そもそも、あれらは傷を塞ぐ事はあっても切り開くなどないのではないのか。中で臓器が傷付いておっても、それを外から塞げば良いだけで、人のようにわざわざ切り開く必要がない。それなのに、此度は切り開くと。案じられる。」
維心は、息をついた。
「とはいえ人の医者を連れて参るわけにはいくまい。あれらには我らが見えぬし、人と型を同じくしておるとはいえ、何もかもが同じではない。明花にやらせるより他、神世で最善の方法がないのだ。」
焔が、ソファに座りながら言った。
「ルシウスにできたら早いのにの。月の眷属とは誠に縛りが多いことよ。まあ、ソフィアの命など世に関係ないと言われたら仕方のないことぞ。」
それは、維月も歯がゆいようだった。
維心としては、碧黎達が言うことは分かるし、世のために命を落とす事が、己ですら大した事はないと飲める立場の維心にとって、ソフィアの命は結局どちらでも良かった。
が、維月が心に重いと言うのなら、できる限りはやってみようというだけなのだ。
だが、それを口に出したらまた、非情だの言われそうなので、維心は黙っていた。
が、炎嘉が言った。
「…我らは世のためなら別に己の命などくれてやるという心持ちであるし、ゆえにソフィアの命一つがどうなのだと言われたら、確かに月の眷属の言うことは分かるのだ。」維心が炎嘉を見ると、炎嘉は続けた。「非情だとか言うのではないだろうの。主とて同じはず。そも、命の全てをそうやって留めることができたなら、今頃月の宮は命の嘆願に来る神で大騒ぎになっておるところぞ。エラストとて、天黎なら復活できたはずだしの。それとも始めから、碧黎が魔法陣を留めてそんな事は起こらなんだやも知れぬ。ゆえ、あやつらの制限は的を射ておるのよ。そうでないと、世の秩序が著しく乱れる事になるからの。」
そんな事は、分かっていた。
なので、維心はため息をついて頷いた。
「その通りぞ。我はなので、ソフィアの命一つをそこまで重要視しておらぬ。世には理不尽な事で命を奪われる人や神は数多居る。ただ面識があるからと、それだけを留めるなどそれこそ不公平ではないか。やるからには、公平に。確かに我も、そのように思う。が、維月はそう割り切れぬのだろう。それは理解してやろうと思うておる。どうしても聞けぬことなら仕方がないが、これぐらいならの。そも、ソフィアは助かるのかどうかまだ分からぬだろう。やれるだけのことはやったとなれば、維月も納得しようしの。」
ふと、奥から術の気配がし始めた。
始まったのだと、維心達はそちらを見て、黙り込んだのだった。
維月は、それを全て月から見ていた。
…分かっている。
維月は、思っていた。
分かっているが、つい無理を言ってしまう。
確かに目についたからとそれだけを助けたり、知り合いだからと命を繋いだりなど、不公平この上ないのだ。
が、維心の言う通り、維月の感情がついて行かなかった。
維月がため息をついていると、十六夜が話し掛けて来た。
《維月。お前、ドラゴン城ばっかりか。アマゾネスの方は見てないのか?》
維月は、息をついた。
「今はソフィア様が気になって。何かあった?」
十六夜は、答えた。
《ヴァルヴァラ。あいつ、やっぱり女王にはなりたくなかったみてぇだな。時差があるから数時間前だが、アンジェラに話してた。》
維月はそのことか、と頷いた。
「それは見ていたわ。知ってる。あの子、やっぱりとても賢くて、責務に忠実な子なのね。きっと、だから優秀なのよ。自覚があるから、あんな風に禁欲的に励めるのね。霧の影響を受けないはずだわ。」
十六夜は、頷いたようだった。
《あいつが間違えない限り、オレは見ててやろうと思ったよ。男ばかりでしかも歳上で、百戦錬磨な王達に立ち交じって、これからやってかなきゃならねぇんだろう。だったら、少しはこっちも助けてやらなきゃなって思った。エミーリアとは雲泥の差だからな。》
維月は、またため息をついた。
「エミーリアはそんな器ではなかったから。あの子はあの子で、役目を果たしたのかも知れないわ。ヴァルヴァラが王になるために。必要だったのよ、きっと。そう思う事にしたわ。」
十六夜は、驚いたように言った。
《おいおい、お前にしたら薄情に聴こえるな。どうした、いったい。》
維月は、答えた。
「だって…維心様達があんな風に言うんだもの。不公平だって。私は月の眷属なのに、良い所だけ月の眷属だからって言って、こんな時だけ人だったからって逃げてるって言われてるような気になって来て。」
十六夜は、笑った。
《だってそうだろうが。自覚が出たなら良かったよ。まあ、無理は言うなってことだろ。オレだってソフィアのことは理不尽だなと思ったが、蒼だって魔法陣だけ消す術がないか志庵に探させたけどなかったんだ。これだけやって、駄目なら駄目。お前も維心を責めるなよ。ルシウスには手出しできねぇんだからな。》
維月は、仕方なく頷いた。
みんなが無理を承知で努力して、駄目だったら仕方がない。
維月はまた、大きなため息をついて、始まった明花達の術を見守ったのだった。




