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いつもの始まり

 人はそれぞれが世界の中心で物語の主人公だと誰かが言った。これは自分を肯定する言葉でもあるし、妄想癖のある誰かが格好つけるための言葉だったのかもしれないが、自分という個を世界の中で区切りをつけるにはちょうどいい言葉だと思う。

 地球という舞台に立つ約七十億分の一を確立するには自分こそが中心で主人公だと、言い切る、言い張るのが一番だろう。

 ただ忘れないでほしいのは、この言葉はあくまでたとえ話の類であって、文字通りタイトルがあり、主人公がいて、ストーリーが組み立てられた物語ではないということ。

 なのだが。

「ようは陣地合戦よ! 相手の世界を分捕るか、主人公を倒す! それができなきゃ死ぬだけよ! 死ぬのが嫌なら死ぬ気で頑張りなさい!」

「それ最終的にお互い死ぬだけじゃ……」

「ぐだぐだ言わない! 勝って死ぬか、負けて死ぬかの違いよ! それなら勝った方が全然いいでしょ!」

「やっぱ死ぬじゃん! どうせ死ぬならせめてこの格好どうにかできないの! 道化師のかっこうのまま死ぬとか末代までのお笑い種にもなんないんだけど!」

「それを主人公にした自業自得よ! さっさと倒してきなさい主人公!」

 美少女からの声援を受けながら僕は目の前の黒い泥でできた人型と向かい合う。

 

 僕はこの日、僕ではない主人公となった。






 とんでもない出来事の始まりはいつだって平凡な日常だ。

 神様も休む日曜日、ではなく。

 神様が休む日曜日の午後、僕は本を買いに出かけた。まったく知らない作者の新作、(著者の名前的には外国の方かな?)を片手にルンルン気分で帰ろうとしていた僕は母親の注意を思いだした。

『本を買うなとは言わない、ただ整理しろ』

 小学生のころ、怒るときは大声で怒鳴るタイプの母親が、きわめて冷静に、かつ端的にまとめた一言。

 僕は高校生になった今でも、これから先でもできることはないであろう丁寧なハイをして、隣で震えることしかできなかった父親と片づけを初めた。

 それ以来本を衝動買いすることをやめ、買いに行くときには必ず家の本棚を写真に撮ってメモするようになった。

 だというのに。

 記憶にあるかぎり、家の本棚に空きはない。父親が頼んでおいた組み立て式の本棚も届くのは明日だろう。

 ふむ。

 右手にぶら下げた袋にはハードカバーの本が三冊。

 ふむ。

 今日はそもそも本を買う予定はなく、行きつけの本屋で店長と話をするだけの予定だったはずなんだが、

『あ、そーいえばこれ今日入ったばかりの新刊なんだけどどう? 海外で話題になってて面白そうだから仕入れてみたの、日本だとまだ有名じゃないから冊数は少ないけど、どうせ人気になって品薄になるわよ、どぉ?』

『買う』

 ウインクとともに差し出された三冊の本。

 ためらいもなく渡されたお金。

 浮かれて店を出る自分。

 よし分かった原因は店長だ。

 誰が何と言おうと全ての元凶は店長だ。

 ……ふー、原因が分かっても現状は解決しない。

「まぁとりあえず次会ったら一日に一回小指をタンスにぶつける呪いかけたる」

 と、九割近くが八つ当たりになる謎の決意を秘めたところで我に返る。

 むしろはしゃいだ分、右手の本がさらに重く感じるようになった。

 本の重力にひかれるように落ちた肩と頭、その先に何かが視界に入った。

 少し先に落ちていたそれを拾って見ると。それはキャップのついたペン。

 外したペン先にはボールペンでもなく、名前だけは知っている特徴的なペン先。

(万年筆だっけ? 初めて見たかも)

 物珍しさにくるくると回しながら全体を見る。年代物のようにも最新鋭のデザインにも見えるが、その辺はよく分からないだが見ているだけでも少し楽しくなってきた。

 ふと持ち手のあたりを見ると、筆記体で文字が書かれていた。

 英語の成績が悪いわけじゃないが、ここまで達筆だとまるで読めない。さらにじっくり見ようとしたとき、横から声をかけられた。

「人のもん勝手に拾ってんじゃないわよ変態」

 振り向くと、春先でも暑そうな黒色のジャンバーを羽織り、逆に寒くないのかと聞きたくなる短パン、本人よりも重そうに見えるバックパックを背負った金髪の少女がたっていた。

 おそらく同年代で、初対面であるはずの彼女はサングラス越しでもわかる敵意と嫌悪感を惜しみなく自分に向けている。

 ただでさえ、初対面で外国人であろうという苦手意識しかわかないのに、美少女という要素も加えて僕が思ったのは一つ。

 今すぐ逃げたい。

「いつまで見てんのよ、さっさと返しなさい」

「あっはい、すいません」

 軽く裏返った声とともに慌てて万年筆をわたした。

 彼女は受け取った万年筆を軽く眺めるとすぐにポケットにしまうと、改めて自分に目を向けた。

 サングラス越しにも関わらず、彼女の眼は自分の奥底まで見透かされているようでとても居心地が悪い。

「……つまらない奴ね」

 しばらく彼女に見つめらたままでいたが、飽きたのか急に踵を返すと去っていった。

 彼女の後ろ姿が見えなくなって緊張が解けたのか、肩を落として深呼吸をする。

 それと同時に音のなる右手の袋。

 一難去ってまた一難。

 解決策はないかと帰宅する道中考えたが、何も思いつかないまま家に着いた。

 手洗いうがいをきちんとして、まっすぐに母親のもとに向かう。

「あら、おかえり。ん? なにか買ってきたの?」

 いつも通りの笑顔の母親に僕も笑顔で袋の中身を見せる。

「また買ったの? ちゃんとしまっときなさいよ?」

「……実は……本棚がいっぱいで」

 笑顔のまま固まった母親。そして笑いながらも冷や汗をかき始める僕。こういうときどうすればいいのか、みんなは知っているだろうか?

「ごめんなさい」

 素直に謝る。これがきっと一番いい選択しだと僕は思う。(もちろん、そもそも謝ることをしないのが一番だとは思うが)

 素直に謝った僕の気持ちは晴れ晴れしている。だが僕の脳内天気予報によると、本日の天気は一日中快晴。ですが、ところにより、具体的には僕の家の母親の天気は雷をともなう嵐になるでしょう。

 とのこと。

 もちろん家の中で傘をさすこともできない僕は雷に打たれた。


 雷に打たれた僕への罰に母親が下した判決は一つ。

『しまう場所を作るまでこの本は没収』

 さすが母親だ、息子のことをよく理解している。

 そんなわけで罰を言い渡された夜、ご飯もお風呂も済ませた僕は、自室の机に座って作業をしていた。

 机の上に置いてある本に当たらないよう、崩さないよう、気を付けてシャーペンを動かす。

 自室があるなら買ってきた本も部屋に隠せばいいのでは? と思われそうだが、学校に行っている間に本が見つかったらどうなるのだろうか。答えは簡単、正直に言っても罰があったのに隠したというマイナスがさらに加わる。

 その結末は想像したくもないのでこの話は終わりだ。

「んー、一度休むかー」

 作業の手を止めて固まった身体をほぐすために軽いストレッチを行う。

 休憩なので作業のことは考えないが、そうなると頭に浮かぶのは昼間の美少女。

 外国の人にしては日本語が上手かったなーとか、バックパックを背負ってたから旅行中なのかなー、とか。些細なことが頭に浮かぶが、一番気になるのは彼女の眼と万年筆だった。

 人と話すときに、相手の眼を見るというのは普通のことだ。

 ただあくまでそれは内面から現れる外観の情報を求めてであって。

 しかし彼女の眼はどこまでも外ではなく、内側の奥の奥まで見透かすような眼で見ていた。

 それが彼女の癖なのか、彼女なりの観察の仕方なのかは分からないが、ただ僕を見ているようで見ていないあの眼はかなり印象に残った。

 そして万年筆。

 こっちの理由は分からない。珍しいものではあったが、その程度のものならこれまでの人生でも何度か見ている。だが、ただ記憶に残っていた。

 色や形、触った時の感触まで丁寧に。

「そうそうこんな感じに」

 手元にあったペンを触る。触ったのはこれで二回目というのにひどくなじむ。

「なーんでかなー」

 疑問に思いながらも手遊びがてらにペン回しを始める。

 特にやり方をしっているわけではないので適当に指ではさんだり、指と指の間を滑らせて移動したり。

 あーたのしー。

「……ってなんであるんだよ!」

 おもわず万年筆に突っ込んでしまった。

 夜の自室で万年筆に向かってツッコミをいれる高校生は世界中を探しても僕だけだろう。世界規模でのオンリーワンの称号を得ることができた。

 いらない。とてもいらない。

 と、現実逃避も兼ねた一人ツッコミをすることで少し冷静になった頭で考える。

「いやほんと、なんであるんだこれ?」

 万年筆は記憶にある通り、昼間に拾って、彼女に渡したそのものだ。

 それから拾った記憶も、部屋にある理由も思いつかない。

 だがそれはそれとして。

「……返しに行くか」

 彼女の様子を見るにとても大事なものであることは想像できる。

 そんなものを持ち続ける理由も、返さない理由もない。

 とっくに日は暮れていたが、男子高校生ならまだ出歩いても許される時間。軽く支度を済ませて親にばれないようこっそりと外にでる。

 本と違ってバレたところで怒られることもないが、なんとなく。

 万年筆を持って、出会ったばかりの彼女を探しに夜へ出る。

 思い返せばこれがきっと全ての始まりだったんだろう。




 普段見慣れている景色でも朝には朝の夜には夜の、時間帯が変わることで見える景色は全くの別物になる。

 昼間は人が絶えることのない住宅街でも、日が沈み、夜になれば人の姿は消えて、自分だけしかいないと錯覚してしまう。

 そんな夜の住宅街を一人歩きながら、とんでもない問題にぶち当たってしまった。

「どこにいるんだろ……」

 名前どころか連絡先も知らず、探すための手掛かりが一つもない。

 むしろ家を出る前に気付けよ、と自分を責めるくらいのバカさ加減だ。

「どーしよっかな」

 気の向くままに歩いてたどり着いた公園のベンチで座って考える。

 このまま探すってのは無理だ。そもそも探すために今考えているわけだし。

 つまり、一人ではできない。

 つまり、人の協力を頼むのがいい。

 つまり、夜に協力を頼める人物。

 ……いないことはないが、あくまで手段の一つでいいだろう。

 出歩いている自分がいうのもなんだが、今の時間にこっちの都合で呼び出すのもなんだか気が引ける。

 そうなると。

 この時間でも協力を頼めるという意味で現実的なのは警察に届けることだが、一番近い交番でも三十分くらいはかかる。正直めんどくさいし、なんなら明日の学校帰りによればすむ。

 ここまで考えて得た結論。

「え? 無駄足だった?」

 せっかく夜の時間に出てきたにもかかわらず、できることは何もないことが分かった。

 家にいる間に気付けよ。

 本日何回目かのセルツッコミだ。

「そりゃあんたがバカなんだから気付けないのも無理ないでしょ」

「いやいやそうは言ってもさ、人って案外なんとなくで行動するから普段持っているはずのスマホや財布だって忘れることだってあるし」

「ならあんたは普段から女の子の私物を勝手に持ち帰って、拾った体を装ってナンパするわけね?」

「あっはっは、そんな度胸あるわけないじゃん」

 そんな度胸あったら今頃彼女いるよきっとーはっはっはー、と乾いた笑いが夜の公園に響く。

 ………………え?

 現状に気付いた僕は笑い声がぴたりととまり、今度は背中を伝う冷や汗が出てきたことを実感しながらひきつった笑みのままゆっくりと顔を右に向ける。

 三、四人は座れるベンチの向こう端に、昼間見た美少女がいぶかし気な顔でこちらを向いて、いやにらんでいた。

 ただでさえ美人な人は目つきがするどいというのに、夜にサングラス、そして彼女特有の見透かす視線が合わさって恐怖の感情しかわかない。

 ごくりと唾を飲み込むと、再びゆっくりと顔を今度は左に向ける。

「ねぇ? なんで顔背けたの?」

「あの、ほら、一般的なご家庭宗教の都合で……」

「美少女と同じベンチに座ったら顔を背けろって教わってんの? そんな人生に損しか生まない宗教とっとと辞めたら」

「ですよねー、アドバイスありがとうございます! それではこの辺で失礼しますね。あ、これお返しするんでおたっしゃでー」

 持っていた万年筆をベンチに置いて早足に公園の出口へと向かう。

 いやー、目的が達成されたし家に帰ってゆっくり休もう。今日買った本でも読むか。おっとそういえば没収されてたっけ。こりゃ一本取られたな、あっはっは。

「ちょっと待ちなさいよ」

「ぎゃっい!?」

 無警戒に歩いていたところ、後ろから肩に手が置かれ口から心臓が飛び出したかのような変な声が出た。

 振り向けばいつの間に追い付いたのか美少女が少し、震えながら立っている。

「なに今の声、小心者にもほどがあるでしょ」

 ぷっ、とツボに入ったのか吹き出して笑い始める美少女。

 これまで怒ったような顔しか見ていなかったせいなのか、それともやっぱり美人だからなのか、とてもキレイな笑顔だった。

 顔が熱くなるが驚いてバクバクした心臓のせいだと言い聞かせて、美少女に向かいあう。

 いろいろ言われそうなので先に理由を全部説明しておいた方がいいだろう。

「えっと、理由はよくわかんないけど万年筆拾っちゃったから返そうと思ってぶらついてたところで」

「つまりストーキングしてたってこと? ストーカーじゃんキモ」

「ガフッ」

 見えない吐血。崩れ落ちる膝。体が倒れないように支える両手。

 美少女から発せられたたった二文字の言葉で僕は瀕死になった。

「え? あんたどんだけ弱いの? そんなんで生きてけるの?」

 ありえないでしょとあきれた目を向けられる僕。

 好き勝手に言われてるけど、僕のメンタル耐久は急所にもらえば一発で瀕死になる一般程度しかない。

 というか美少女にキモいなんて言われたら一部の人は除いて落ち込むだろう。

 幸いというべきか僕はその一部に含まれない一般大衆に所属しているわけだが。

「ふーん、確かに面白みのない平凡なやつね。間違っても主人公にはなれないタイプ。精々、村人その二くらいでしょ」

 慰めの言葉をもらえるとは思っていなかったが、追撃を貰うとも思ってなかった。

 急に吹いてきた風が辺りをつつみ、さらに哀愁が加速する。

「……一歩手前までいってたのは事実なのですが、ストーキングするつもりはなかったのでそろそろ勘弁してもらっても」

「チッ、今かよめんどくさい」

「あ、はいごめんなさい」

 流石にこれ以上は心に消えない傷を負いかねないので妥協してもらおうと思ったが、舌打ちされるぐらい嫌われてるらしい。

 おっと視界がにじんできた。

 下を向いているので見えるのは土だけだが、次第にグネグネとうねりはじめ、まるで沼のように、ずぶずぶとゆっくり手が沈むように錯覚してきた。

 ……え? ほんとに沈んでない?

「さっさと起きろバカ!」

 罵倒とともに横っ腹を蹴り飛ばされる。その勢いで沈んでいた手もズポッと抜けた。

「はい? え、なに?」

 見上げれば焦った表情の彼女が遠くを睨みつけている。

 つられて視線を向けると、そこには地面を覆っているドロドロとした黒い泥のようなものが盛り上がり、次第に人の形と成っていく。

 人、とは言い難いが、人としての形が形成されると、腕らしきものをあげてこちらに指をさした。

 そして。

「……ヨコセ」

 頭部の口らしき場所から声が発せられると、足元にたまっている泥がこちらへ襲い掛かってきた。

「はいぃ!? ナニアレナニアレナニアレ!?」

 叫びながら一目散に走って逃げる。

 よく分からない。なにもかもが分からない。でもあの泥に触れてはいけない。本能がそう言っている。

「ひとまず公園から出て…………!」

 逃げようとしたが、公園から出た瞬間に気付く違和感。

 なにが違うのかが言葉にはできないが、自分の感覚全てが警告をならしている。

 住み慣れている町なのに、外観だけ同じで全く違う別物のような気持ちの悪さ。

 まるで突如世界に一人だけになった、いや突如異世界にまぎれこんだような感覚。

 そう。

「人の気配も、音もしない…………!」

 たとえ夜のそこそこ遅い時間でも、人の気配がゼロになることはない。ましてや住宅はそこらにあるため、寝る人はいれど、起きている人がゼロになることもない。

 呆然と立ち尽くし、混乱する頭で考えようにも、後ろからその一切をかき消す声。

「…………ヨコセ!」

 さっきまでいた場所よりも自分に近い場所へ移動していた人型の泥。

 動けるのか? なんてのんきなことが頭をよぎったが、ふたたび泥が向かってきたと分かった時には身体が反射的に駆け出していた。

 混乱から抜けきっているわけではないが、今度は走りながらも頭を無理やり働かせる。

 あれはなんだ?

 ここはどこだ?

 これからどうすればいい?

 そもそもなにを考えたらいいんだ?

 どれだけ考えても混乱した頭ではさらに混乱することしかできず、悔しさからか呻きながら走り続ける。

 そして無理やりにでも回し続けた頭に浮かんだ一つ、いや一人の姿。

「どこにいった!?」

 公園で落ち込んでいた僕を蹴飛ばして助けてくれた彼女。

 泥の人型を見てから一度も見ていない。

 まずいまずいまずい!

 さっきまで混乱していたとはいえ、自分のことしか見えていなかった後悔が全身をつつむ。

 いや混乱していた、焦っていたも言い訳だ。

 ただただどうしようもなく、僕がただただ臆病者だった。それだけだ。

「ねぇ、そこの弱小な臆病者ストーカー」

「ストーカーは違うわっ!」

 他は事実だけども!

「って、あ」

 後悔している途中、突如かけられた声にツッコミを入れて気付く。

 聞き覚えのある、毒の込められたこの声は。

「弱小で、臆病者で、平凡でおもしろみもないくせになんでいっちょ前に後悔してんの。わたしがそこいらのエンプティに捕まるとでも?」

 走る足を止めて、見上げた先に探していた美少女が怪我の一つもなく家の屋根の上で立って僕を見下ろしていた。

 …………スカートだったら覗けたのかな。

「最初に考えるのがパンツ覗けるかって、キモ。ただの変態じゃない」

「ガフッ」

 見えない吐血。崩れ落ちる膝。体は倒れないように支える両手。

 美少女から発せられたたった二文字の言葉で僕は瀕死になった。

 同じことをついさっきもしたような気がする。気のせいだろうか?

「それで? とても弱くてとても臆病な変態さん?」

 謎の疑問を抱いている自分のことなどどうでもいいように彼女は話を続ける。

 地面を見ている僕には彼女の顔が見えないが、彼女の弾んだ声は楽しく笑っている気がした。

「暇ならちょっと助けてよ」

 顔を上げるといつのまにか屋根から降りてきたのか、目の前に降りてきた彼女。

 その顔はにやりとからかうような、きついだけでない親しみのこもった笑みだった。だというのに、心では助けを求めている、寂しさを含んでいるようにも見えた。

「いいよ、なにしたらいい?」

 僕の返事に、彼女はさらに笑みを深くした。そこにさっきまでのからかいも寂しさもなく、獲物が捕まったときのそれだった。

 ……ちょっと早計だったかもしれない。

 そんな後悔が頭に浮かぶが、出した言葉は戻らない。

 もちろん取り消す気もないが、ただ彼女の笑みが頭に残った。魅力的でもあり、気がかりでもあり、なにかあるんだろうなと、頭の悪い僕にでも分かった。

「いいわ、まず「ヨコセ」」

 ふりかえれば追いついてきた泥の人型。もはや見慣れてきた足元からあふれ出る泥から逃げるため彼女と並走する。

 横目で見た彼女はとても楽しそうに笑っていた。

 その笑顔はさっきまでの隠し事がふくまれない純粋な笑顔ではあったものの、人を陥れる悪魔のようにも見えた。

 しっぽや角が生えているのか確認しておきたかったが、走りながらではよく見えない。

 ……念のために、予防線を張っておいたほうが良いだろうか。

「あのー、すいません。助けるとは言ったんですが囮的なやつはなしで」

「何でもするって言ったでしょ、囮と言えば囮に、犠牲と言えば犠牲に、サクリファイスになりなさい」

「一言も言ってないしその提案だと全部死ぬんですが!?」

「美少女の役に立って死ぬんだから光栄に思って地獄に落ちなさい」

「せめて天国に行かせて!」

 やっぱり悪魔だった。返事をしたのは早計だったかと少し後悔していると、隣を走る彼女から何かを投げわたされた。

 受け取ったものは出会うきっかけとなった万年筆。相変わらず昔から使っていたかのように手に馴染んだ。

 そんな自分を見ながら彼女は真面目な顔で言った。

「そのまま、身体のどこかにタイトルを書きなさい」

「ちょっと何言ってるかわかんないです」

 少しぼーっとしながら万年筆を眺めていた自分はその一言で現実に引き戻された。

 タイトルを? 自分に? 書く?

 頭の中がハテナで埋め尽くされる。

 もしかして彼女も今のよく分からない状況のせいで頭が混乱したのだろうか。

 実際のところ僕一人でいたのなら混乱のあまり泣きわめく自信があった。

「わたしは正常よ、さっさと言われたとおりにしなさい! もしくは泣きながら身代わりになりなさい!」

「異議あり! 身代わりになるにしても泣く必要は無いと思います!」

 因みに臆病とかビビりだとしても感動したとき以外はそんなに泣かないことを明記しておく。

 ささいな意地だ。

「余裕そうだし置いてくわね」

 そういった彼女は走るペースを上げて、自分との距離がさらに離れていった。

「ごめんなさい! 謝るんで一人にはしないでください!」

「ちっ、めんどくさい」

「あ、すいません。一人でちょっと頑張ってきます」

 恐怖とは別の理由で泣きそうになりがら走る。

 別に泣いてないし、ゴミが目に入っただけで美少女に辛辣な態度取られてメンタルがやられたわけなんてないわけで、

「止まれ」

「グエッ」

 いつの間にか後ろにいた彼女に後ろ襟をつかまれて、つぶれたカエルのような声が出た。

 膝をつき、せき込みながら息を整えて、彼女の方を見上げる。

「げっほげっほ、……あの……何で急に」

「前見てから言って」

「? 前って、普通に道が……」

 なかった。

 いや本来ここに道はあるべきだった。

 なんせ、ここはさっきまで二人がいた公園なのだから。

 逃げるために夢中で走っていたし、気が付かない間に一周したのかもしれない。それだけならまだ希望はあったが、たどり着いた公園そして、今走ってきた後ろ以外の道は全て黒い泥に覆いつくされていた。

「これって……」

「逃げ切る可能性がゼロになっただけよ、つまりは」

「ヨコセ」

 もはや聞きなれた声。

 ふりむけば黒い人型の泥が道を覆いながらゆっくりと、それでいて確実に向かってくる。

「……ワンチャン泥に捕まっても平気な可能性も」

「ゼロね。あいつは自分の虚の心を満たす人の未知の可能性、つまりは未来を欲しがってる。いくらうばったところであいつは底抜けの鍋みたいにすり抜けだけだってのに。そんで? 衰弱死するまで永遠に光も届かない世界に居続けたい?」

「監獄より酷い終身刑とか地獄でしかない!」

「あいつは無作為だけど、地獄は個人に合わせて選んでくれるからまだ良心的よ」

「良心的な罰とはこれいかに」

 お互いに軽口が言える余裕はある。

 でも、いまの余裕が空元気ではないと言い切れる自信は僕にはなかった。

「……で? どうする? わたしの言うとおりにするか、別の案でも考えてみる? どっちでもいいけど、わたしはあんたを犠牲にしてでも生きるわよ」

 たぶん彼女にも。

 これは想像だが、彼女一人だけなら逃げるなどの対処も取れるのだろう。それができないのは────あくまで予想だが────僕のせいなのだと思う。

 足手まとい。

 その言葉が脳裏にちらつく。

「……あいつぶん殴っても解決しないんだよね?」

 それでも虚勢を張ってしまうのは彼女の為なのか、自分の為なのか。

 案外、かわいい女の子がとなりにいるから無意識に格好つけようとしている、そんなくだらない理由なのかもしれない。

「肉体のない泥の塊を殴っても仕方ないでしょ、さっさとしなさい。運が良ければ二人とも助かる。それ以外は……別にいいでしょ」

 そりゃそうだ。

 彼女は言葉にしていないが、言外に失敗したら終わりと言っている。考える必要もない。

 彼女の言う通りなら、武器? になるのは手元の万年筆だけ。これ一本で戦えなんて無謀にもほどがある。

 ペンは剣よりも強しなんていうけど、今欲しいのは明らかにペンより剣だ。

 …………まぁ剣があったところで目の前の怪物? には勝てもそうもないけど、現状で頼れるものがこれ一つなのも確か。

 懸念するとしたら…………。

「……タイトルを自分に書けって言われたけどなんかの副作用あったり「さっさと書きなさい!」ヒィ! やります!」

 せかされるままに右手に万年筆を持ち、左腕にタイトルを綴る。

 タイトルは『消える道化師ゴーストピエロ

 その文字は白く、空中に文字が描かれ、僕を包むように優しく光を放った。

 先が二股に分かれたフード、全体は白く、ところどころに赤色の線や水玉模様がいろどられ、左目には縦の線が、右目の下には青色の水滴が描かれる。

 どこからどう見ても、というのは難しいが、僕は確かに道化師の格好をしていた。

「うっそ、まじかこれ…………」

 さっきまであった恐怖なんかの感情は今はなく、

「今すぐ脱ぎたいっ────!」

 こみあげてきた羞恥心で全身が満たされる。

 コスプレイヤーでもなく、演劇部なんかに所属しているわけでもなく、目立ちたい承認欲求があるわけでもない一般学生の自分としてはたまったもんじゃない。

「ねぇちょっと!? なんかコスプレみたいになってんだけど!?」

「そりゃそうよ、今あんたはまぎれもなく物語の主人公になったんだから。主人公らしい格好になって当然でしょいいじゃないそれ、似合ってるわよ」

 軽く笑いながら、いや口に手を当てて笑うのかなり我慢してる。

 今の僕はまるで道化師だ。

 というか今現在は服装も行動も発言もすべてが道化師そのものだった。

 感情の赴くままに脱ごうと服に手をかけると、若干涙目になった彼女が待ったをかける。

「それ脱げるかは知らないけど、脱いだら、なにもできないけど?」

 ニタニタといい笑顔で、ある意味死の宣告を告げられた。

 うすうす予想はしていたが最悪の事実だ。

 なんせそうだろ?

 謎の相手に追いかけられ、謎の美少女とともに逃げて、謎の服装になってだ。

 謎だらけの中で分かったことと言えば分からないことだらけってことだ。

 世界は広い。

 これでまた一つ賢くなれた。

「なに頭の悪いこと言ってんの、私たちが今いるのはあいつの世界、舞台と言ってもいい。ここから抜け出すのは主人公であるあいつの世界を、舞台を、物語を崩す、いいわね」

 精神的逃避行をしていたが彼女の言葉で我に返る。

 羞恥心や疑問やらをいったん隅に置いて彼女の言葉を反芻する。

 世界、舞台、物語、主人公…………うん。

「ごめん、よく分かんないからもうすこし分かりやすい──」

 説明を求めた時、さきほどまでのジワジワとにじり寄るのではなく、僕たち二人をまとめて飲み込むように泥の波が押し寄せた。

「急に動いた!?」

 慌てて横に飛び避ける。

 泥の波自体はそこまでも速くはなかったが、問題はそこではない。

「…………ずっと追いかけるだけだったのに?」

「そりゃそうよ、全ての道を飲み込んで、残るはわたしたちのみ。じっくり時間をかけて全ての可能性をつぶして飲み込む、それがあいつよ」

 視線の先には黒い泥に覆われた人型。それは欲するものを求めて彷徨う亡霊。求めても求めても、飢えて渇く餓鬼のようで満たされることのないそこの抜けた心の持ち主。

 彼または彼女を改めて見ると哀れ、でもなく、悲しい、でもない。

 寂しいという感情がわいてくる。

「それで、どうしたらいい?」

 さっきまでの興奮も落ち着き、彼女に聞きなおす。

「ようは陣地合戦よ」

 こっちの雰囲気を読み取ったのか、彼女もさっきより落ち着いて話し始めた。

「相手の世界を崩すか、核となる主人公を倒す! それができなきゃ死ぬだけよ! 死ぬのが嫌なら死ぬ気で頑張りなさい!」

 と思ったんだが、違ったようだ。

 張り上げた声は応援のようにも聞こえるが、さっさと行けと、動物に命令するようにしか聞こえない。

「それ最終的にお互い死ぬだけじゃ……」

「ぐだぐだ言わない! 勝って死ぬか、負けて死ぬかの違いよ! それなら勝った方が全然いいでしょ!」

「やっぱ死ぬじゃん! どうせ死ぬならせめてこの格好どうにかできないの! 道化師のかっこうのまま死ぬとか末代までのお笑い種にもなんないんだけど!」

「それを主人公にした自業自得よ! さっさと倒してきなさい主人公!」

「────あー、もう!」

 美少女からの声援を受けながら僕は目の前の黒い泥でできた人型と向かい合う。

 覚悟を決めて? いやいやそんなものはどこにもない。

 ただこの状況にあるもの全てに、あきらめて開き直った。

 それはもう単なるやけくそと言えるもので。

「やってやるよ! どうなっても知らないからな!」

「ヨコセ」

 飛んでくる泥を躱しながら人型へ突っ込んでいく。

 右に左に上へ下へ。

「……あれ?」

 再び感じる違和感。

 こんどは周りにではなく、自分自身に。

 走る飛ぶと、いつも通りに動いているのにいつもより、そう。

「軽い──!」

 地球よりも重力の低い月では人間は六倍の身体能力となるらしいが、今の自分はまさにそれだった。

 それこそまるでサーカスにいるピエロのように身軽になった。

 気が付けば人型は目の前。周りは泥の波に囲まれているものの、恐怖も不安もなく、勢いよく飛びかかる!

 ……………………と、そのまま人型の横を通り抜けた。

 地面を覆う泥を避けて浮き出てる石なんかを足場に飛ぶと、再び彼女の隣へと戻る。

 顔を伏せてるので表情は見えないはずだ。

「勢いよく飛び出したはいいが何をしたらいいのかも分からず戻ってきて冷や汗をかいてるって顔ね」

「なんで分かったの!?」

 うすうす思ってたけど彼女はエスパーかもしれない。

 気を付けないとうっかりスカートのこととか考えた時にバレたら死ぬ。

 社会的にも物理的にも。

「それは後ね」

 速報。生き残っても僕の未来は終わりの模様。以上現場からでした。

「…………とりあえずあんたは今書いたタイトルの主人公になってるわけ、つまりそいつの能力がそのまま使える」

 なるほど? さっきの万年筆は変身アイテムで今の自分は変身ヒーローみたいなものだと。

 …………武器が無いね。

 もちろん言うまでもないが、ピエロに切った張ったの類ができるわけもなく。

 最近だとピエロは凶器を片手にホラーゲームなんかでよく見るが、元は道化役者、つまりはコメディ担当だ。

 攻撃能力なんぞかけらもない。

 ひとかけらの希望に託した始まりがまさかの終わりにつながったというわけだ。

「そうでもないわよ」

 自分一人で落ち込んでいたが、隣の彼女はにやりと笑う。

「影を切れる剣でもないとあいつにダメージは入らない。でもね、あんたのそれはあいつどころかエンプティ全体に刺さるわよ。でも詳しくはあと、いったん逃げるわよ」

「逃げるったってどうやって…………」

「ボール使いなさいよ」

 その言葉を聞いた時、頭の中がクリアになり、身体は無意識に動いていた。

 何もない空中で手を握って開くと、そこには真っ白なボールが。

 そのまま手を横に払うと、動きの線を残すように同じボールいくつも現れた。

 現れたボールは宙にうき、一直線に泥の人型へと向かっていく。

「『色々な球』(カラフル)、ホワイトアウト」

 視界がくらむほどの真っ白な光。

 収まった時には僕たちはいなかった。


「…………なにこれ」

 我に返った時に、最初に出た言葉。

 いやだってさぁ。

 まさかフラッシュバンみたいなことやって、さらに現在。

 空中に立っています。

 もう一度言います。

 空中に浮く、ボールの上に立っています。

「なんで、だっ」

「いいから話を聞けバカ」

 横から殴られた。

 うんまぁ、聞くしかないけども。

「さっきも言ったけど、今あんたは物語の登場人物、主人公になってる。そんで能力も使えるここまではいい?」

「はい」

 素直に頷く。

 問題はこの先。

「あんたが今なってるピエロができるのは、様々なボールを使う、そして対象の記憶を消すの二つ」

 …………とても詳しくてただいま冷や汗をかいております。

 まさかとは思うけど、自分より詳しいなんてないよね?

「あんたよりは頭が良いからわたしが作戦を考えてあげてるのよ」

 にやりと不敵に笑う彼女を見て思った。

 いや出会った時から思ってた。

 上下関係が完璧に構築されてるんだなと。

「いい、まずはね…………」

 そして彼女の作戦を聞く、聞くんだが…………。

「九割近くの仕事がこっちなんですが」

「作戦立てたんだから九割はこっちの仕事よ」

 そうなんですか…………。

 とりあえず頷いておく。

 が、そのあたりが詳しくはないので後で確認はしておこう。

「分かったならさっさと行きなさい」

「あいさー……」

 生返事をして、抱えていた彼女をボールを集めて作った足場に下ろす。

 何をするのかも、どうするのかも決まった。

 あとはそれを成し遂げるだけ。

 とはいえ気負いすぎるのも、良くないので。

 今の自分は道化師だ。

 気持ちは楽に、期待を胸に。

「いってきまーす」

 自宅を出るときと同じように、僕は空へと踏み出した。


 エンプティは中身のない怪物みたいなものだと彼女は言っていた。

 だが、同時に自我、魂と言っていいのかも分からないものがある。

 だから人型に見える泥だと言ってきたが、それはきっと魂が形と成って現れなのかもしれない。

「や、お待たせ」

 背後に立ち、声をかける。

 もちろん泥には触れずに宙に浮かせたボールに立って。

 声をかけるとぐるりと振り返った。

 やっぱりただの人型であれば前後なんて関係ない。

 光に目がくらみ、声がかかれば顔を向ける。

「君がなんなのか、一応彼女に教えてもらったけどまだよくわかんないんだ」

 人の未来を奪うためだけのものと彼女は言ったが。

「良かったらおしゃべりしない?」

 こいつにもきっと、心とも言えない何かはあるんだとそう願う。

 真っ暗な世界に色とりどりのボールが浮かぶ。

 そいつのまわりにある泥はうねり、波打ち、次第にその波が高くなると世界を覆うほどの背丈になった。

 そんな波を見ても今の自分は心のかけらも動かず、優しく微笑んでいるまま。

 演奏を始めるオーケストラの指揮者のように両手を上げて構える。

 手を、腕を、全身を使って踊るように、お道化たようにふるうとその動きに合わせて宙に浮くボールも浮くボールも同じようにお道化だす。

 ばらばらに浮いていたボールは次第に幅が狭まり、最後には手のひらよりも小さくなったそれをゆっくりと優しく両手で包む。

 両手で握ったまま頭上に掲げ、ぎゅっと力をこめると、勢いよく大きく開いた。

 しかし、なにも起こらない。

 表情のないあいつがうすら笑いを浮かべたのはきっと気のせいだろう。

 だからつられたわけじゃない。

 この笑みは未来を多い潰す靄を光り払えた笑みだ。

「集う恒星ステラパレッド

 大きな泥の波を背景に空中で数多の星が光り輝く。波は虫食いように多数の大きな穴が開き、九割以上が消え去った。

 やっぱり感情も表情もあるのかもしれない。泥に囲まれいているそいつはあっけにとられたような顔をしている気がした。

 特にタネがあるわけでもなく、集めたボールを目に見えないほど小さくして辺りにちりばめた。

 あとはタイミングよく膨らませると同時にパンッ。


 くやしい、なのか?

 ふざけるな、だろうか?

 だとしても、だますような真似はしないでもよかったかもしれない。

 だとしても、する。

 ふざけたことをおどけながら笑顔で。

 それが道化師なのだから。

 再びボールを集めて、手を叩くと同時に強く発光させる。

 それと同時に素早くボールを宙に浮かせて足場にして、静かに翔り、相手の後ろへと回り込む。

 振り向いたそいつに右手のボールを差し出す。

 内緒だよ、というように左手で内緒のポーズをしながら。

 『消える道化師ゴーストピエロ』は最後、相手の記憶を白紙に戻す。思い出せるのは幸せの記憶のみ、そこに道化師の姿はない。

 その日は夢心地で布団に入り、次の日にはきれいさっぱりと忘れている。

 ふらりとあらわれ、お化けのようにゆらりと消える。

 ゆえに『消える道化師ゴーストピエロ

 あいにく戦闘能力はゼロに等しいが、彼女との話で立てた仮説。

 エンプティが中身のない、空っぽの存在であるのなら。

 差異はあれど魂と言う常に変化する中身がある人間と違うのならば。

 記憶をするための脳も魂もないエンプティの記憶を白紙に戻すということは。

「読み通りね」

 そいつは泥の身体がぼろぼろと崩れ始めた。

 内側からは白い光が漏れ始め、泥の鎧を脱ぎ捨てる、というよりは光りに内側から浸食されていくように見えた。

「そいつらは紙に殴り書かれた未完成の駄作。あんたが記憶を無くすって設定だったらともかく、無駄に凝って記憶を白紙に戻すだったからできた芸当ね」

 いつの間にか近くにいた彼女はそう言うと、崩れていくそいつを見て鼻を鳴らす。

「どこのどいつに書かれたのかも分かんないくらい、自分しかないやつね。他人の未来を奪うことしかできず、永遠とさ迷うなんて地獄の刑罰の方がまだましね。向こうは終わりがいずれ来るけど、あんたに終わりは来ないはずだったんだから」

 苛立ちを隠しもせずに言い捨てる彼女。その原因がなんなのかは分からず、ただ隣で静かに眺めていた。

 崩れていくそいつはやはり表情が読めず、何を思っていたのかも分からない。

 彼女に聞けば何か分かるのかもしれないが、聞こうとは思えなかった。

 人の輪郭をたもったままだったそいつも、最後の泥が崩れ落ちると同時に光も収まった。

 静寂が訪れるかと思ったが、優しく風が吹いてきた。

 小さいが、鳥の声も聞こえる。

「…………これで終わった、でいいのかな?」

 ぽつりと小さく彼女に話かける。

「えぇ、終わりよ。エンプティを倒せば世界も崩れて元通り。あんたも元の姿に戻ってるでしょ」

 言われて慌てて手足を見ればさっきまでのフードではなく、家を出た時の格好だ。

 流石にあの格好のままで家に帰れと言われたら野宿をする覚悟もあった。

「帰る家があるんだから帰りなさいよ」

「いやです」

 父親はまだいい、ただ母親は一切の遠慮なく大笑いすること間違いなしだ。

 なんならそのまま写真を撮ってアルバムに追加するかもしれない。

 そんな見えている未来があって行動しないのはバカだと思う。

 そして自分はバカじゃない。

「…………」

 だがなぜだろう、自分を見る彼女の目はうわこいつバカだなー、という母親と同じ目だ。

「ま、いいわ。それじゃあね」

「ん? うん」

 飽きたのかさらっと歩きだす彼女。

 思えばもう夜中だ。明日は学校だというのに早く帰らないと寝る時間が短くなっていく。

 ただその前に、ちょっと聞きたいことが、

「……」

 振り向いた彼女の目がめんどくさいからもうしゃべるなと言ってきた。

「無いです」

 ビビったのでそのまま頭を下げることで目をそらす。

 ヘタレと言われてもいい。

 美人が睨むととても怖いんだ。

「……さっさと言いなさい」

 自分の中で彼女はツンデレではないだろうかという説がでる。

 一理くらいはないだろうか。

「なんもないのなら帰るわね」

「あ、すいません! すぐにすませるので!」

 冷ややかな目で立ち去ろうとした彼女を慌てて引き留める。

 聞かなくてもいいことでもあるが、どうしても気になることがあった。

「あの……泥のやつなんだけど、名前ってあるの?」

「エンプティって呼ばれてるって何度も」

「そうじゃなくて、あいつ固有の名前」

 あいつはどこかで生まれた創作物だと彼女は言った。

 ずっと、あいつやこいつだと言っていたが、ずっと名前はなんだろうと少し気になった。

「……………………名前は無いわよ。それほど高尚なやつでもなかったしね。エンプティにはよくあることよ。偶然か必然かの違いはあれど、名前もなく生まれたとおりに生きる。あいつも自分に無い未来を奪おうとしてたけどそこに意思はない。そう生まれたからそう生きてきた」

 願われたとおりに生きていたあいつは幸せだったのだろうか。

 いや幸せというものすら分からずに生きてきたのだろう。見知らぬ未来を追い求めて。

 見方を変えればあいつも何かを求める探求者だったのかもしれない。

 未知を求めて泥まみれの道を進み続ける探求者。

 だとしたら。

 その道を白紙に塗りつぶした自分は物語に出てくる悪役みたいだ。

「……もし、そうだとしたら」

 彼女は表情を変えずに口を開いた。

「そうしなかったら私たちが塗り潰されてたかもしれないわよ。いいじゃない、何が悪なのか正義なのかなんて答えは出ないわよ」

 何が「悪」で、何が「正義」か。

 何が「正解」で、何が「間違い」なのか。

 ずっと昔から考えられている答えのない問題。

 もちろん一介の高校生の自分にも分かるはずもなく、できるというのは頭のいい人に仮の答えを求めることである。

 例えば目の前の彼女とか。

「少しは自分で考えなさいよねバカ。でもそうね、答えの出ない問題っていずれは答えを出さないといけないんでしょ。こういうのは時と場合によるから、その時の心に従うってことでいいんじゃない?」

 ふん、と胸を張って言い張る彼女。

 これはあれだ、良いように言ってるけど、作戦の確認をとった時に「各々が場面によって柔軟な対応をとれ」って連絡されるやつ。

 まさかの投げやりだった。

「そ、そしてわたしができることは、あんたと別れてさっさと寝ること」

 そう言って彼女は消えていった。

 引き留めたのは自分とはいえ、あっさりとしすぎて気持ちが落ち着かない。

「その時の心に従う…………か」

 今、心にあるのはやはりあいつのこと。

 誰かに作られたかもしれない未来を求めた結果、誰かの道を塗り潰すしかできなくなった泥の怪物。

 過程がなんであれ、僕たちが襲われたことには変わりがない。

 だからあいつは怪物モンスターと呼ばざるを得ない。

 だが。

 そう言い切るには心の隙間が大きすぎる。

 だからせめて、名前を付けたい。

 あいつだってもしかしたら怪物ではなく、誰かのためになれたのかもしれない。

 だから僕が名前を付ける。

 あいつは未知なる未来を、泥をかぶりながらも模索する探索者。

「泥道の探索者シーカーズ・ロード

 いつか書き上げて一つの本にしよう。

 ただそのために今は寝たい。

 帰って寝よう。

 明日のために。

 彼女が言っていた心に従うように。

 次の日の朝、僕は母親に怒られながら起こされた。

 まるで記憶にないのだが、僕はズボンのすそが汚れたまま、着替えることなく泥のように眠っていたらしい。

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