ダイアリー・フロム・マリコ
とある出来事をきっかけに生ける屍のように日々をやり過ごしていた緋村ケンジ。
彼はある時、自身が大学生だった頃の日常をもう一度繰り返していることに気づく。
懐かしい場所に座った彼の目の前には、忘れ去ることのできなかった彼女がいた。
とんでもない女に振り回されたあの数ヶ月間。
受け取らなかった交換日記。
消えてしまった彼女。
ただの走馬灯か、いま流行りの転生か。
ケンジはかすみのように薄らいだ記憶をたどりながら、再びあの日の自分を生き始める。
閉じたまぶたの外側に、眩しくあたたかな光が降りそそぐ。
次に、サバの味噌煮や唐揚げの油のうまそうな匂いが肺の中に入ってきて、同時に若く楽しげな喧騒の声が鼓膜を震わせ脳の中へ広がった。
「えっ?!」
心臓が跳ね、俺は目を開ける。
はやる鼓動を感じながら辺りを見回すと、そこは大学の食堂だ。
秋も深まり始めた10月下旬の水曜日、午後2時の大学食堂。
日のあたる窓際の席。
懐かしさを覚えながら、俺は大きなあくびをして椅子に座り直し、手の中で中途半端に開かれた文庫本を持ち直した。
俺はよく、この時間帯を食堂で過ごしている。
昼飯を食うわけではなく、おやつのデザートをむさぼるわけでもない。
はたまた、友達やサークル仲間と雑談を楽しむわけでもなかった。
ただ読書をしたり、課題をやったり。今のように居眠りをしているときだってある。
要は、『ぼっち』というやつだ。
というのも大学に入って以来、気のあう友達もいなければサークルにも入っていない。
大学生協のショップでバイトをし、時間がある時は図書館で読書や講義の課題をやる。
特に淋しいだとか、友達がほしいだとか思うこともなく過ごしているうちに、俺は大学3年生になっていた。
そして、ふらりとアクセスした「2ちゃんねる」とやらで、俺のような奴を「ぼっち」というのだと無駄な知識を蓄積したりしなかったり……。
「そうか、ぼっちか。なんか、犬の名前みたいだよな」
なんて、ちょっとしたアイデンティティが与えられたようで嬉しかった。
が、特にそれで何かが変わったということもなく、俺は日々を何となく過ごしていたのだ。
ところが最近、少し気になっていることがある。
それは……
キタッ―――!!
俺の目の前を、細身の女が通り過ぎていく。
つややかな絹糸のように細く長い黒髪はさらさらと揺れ、日に透けて柔らかそうな茶色に見える。
彼女はしなやかに、またいつもの席――俺の左斜めむかいから左へ一つ空けた席――に座り、頬にこぼれる長い髪を耳にかけ、カバンからノートと英和辞典を出して何かを始めた。
どこかの雑誌で見た球体関節人形のようにあでやかで透明感のある桜色の唇。ほんのり紅く色づいた頬や目元。
見ないようにはするけれど、つい、盗むように目をやってしまう。
何もかもが懐かしい。
が、なぜだろう。
少なくともこの2ヶ月ほど、この女は毎週この時間帯に現れて斜めむかいの席に座るのだ。
それなのに、この女の何もかもを懐かしく感じる。
彼女がペンを走らせるノート。
たしかそれには、英語のことわざや格言といったものが書きためられていた気がする。
彼女の手元に目を落とすと、ふと脳裏に
『ケンジくん、これはね、私なりの英語学習。
ただの文法よりもことわざを覚えた方が頭に入りやすいし実用的でしょう?』
なんて声が頭の中によみがえった。
こんな話、いつ聞いたのか。
目の前の彼女とはまだ言葉を交わしたことなどないと思うのだが。
俺の妄想?!
不自然な胸のざわめきに戸惑っていると、いつものように小さく鼻歌が聴こえてくる。
そうだ。この女はいつも必ず鼻歌を口ずさむのだ。
別にそれはかまわない。
しかしながら……一般的に歌を口ずさむ時、人はどの部分を口にするのか。
ちなみに俺はサビの部分だ。母さんも鼻歌はサビを口ずさんでいた。
ところがこの女は違う。
彼女はサビではなくAメロやBメロと呼ばれるところを口ずさんでいるのだ。
しかも、俺が憧れてやまなかった女性声優が歌っていたアニメの主題歌。
なんてことだ!
俺の子供時代の懐メロじゃないか!!
気になる。気になりすぎる。
なぜこの女、サビに入る前に止めるんだ?
だから俺は最近、この女が少し気になっているのだ。
2ヶ月前からこれは続いている。拷問だ。どうすればいい。俺はどうすればこの呪縛から解放されるんだ……!!
というのは愚問だろう。
たんに俺がここに来なくなる、あるいは鼻歌が聴こえない席へ移動すればいいだけの話なのだから。
けれども、それではなんだか負けた気がする。それじゃ勿体ない気もする。
俺の大好きな曲を口ずさむ奴が、こんなに近くにいるのだから。
それでも、安易に声をかけられない。
彼女が男だったとしても、俺は躊躇するだろう。
見ず知らずの人間に声をかけられて、しかも無意識に歌を口ずさんでいるようなプライベートな時間に勝手に入り込まれたら、気分は良くないだろう。
だから俺は、ずっと「気になる」で止めておいたのだ。
「あ……」
歌が途切れた。
コトコト……という音と共に、消しゴムが俺の手の届くところへ転がってくる。薄汚れた、イルカ型の消しゴムだった。
昔、こういうおもちゃのような立体の消しゴムが流行った。
俺はハンバーガーと飛行機の形をした消しゴムを持っていたが、使い心地はすこぶる悪かったことを覚えている。
消しゴムをたどって、女を見ると、少し上目づかいですまなそうにこちらを見ていた。
「すみません。とってもらえます?」
「あぁ、はい……」
俺は消しゴムを掴んで、席から少し身を乗りだした。彼女が開くノートの近くに消しゴムを置くと、ノートに何が書かれているのかがちらりと見える。
やはり、英語でことわざが大量に羅列されていた。
英文学専攻の学生なのだろうか……。と思い、俺は既視感を覚える。
「ありがとう」
彼女は薄く笑って礼を言った。
このとき俺は、鼻歌のことをたずねてもいい気がしたのだ。そして、それから……。
「いえ……」
俺はぎこちない間を空けて応え、俯く。
どうしようもない懐かしさと既視感に、心拍数が上がっていくのがわかる。
俺はこのあと何が起こるのかを知っていた。
これは、この瞬間はどう考えても「10年ほど前のあの日」なのだ。
今読んでいる夏目漱石の『三四郎』の文章が目に入る。
あの日俺は、鼻歌のことをきけそうな気がした。
きいた方が良い気がした。
きかないと後悔する気がした。
目の前の活字の中で、ヒロインの美禰子が「ストレイ・シープ」とささやく。
〝Stray Sheep〟――迷える子……。
そう、俺は迷える子……って違う!
なんて、あの日と同じセルフツッコミを入れる。
考えるな、考えるから駄目なんだ。俺は首をぶるぶる振って肩を回し、『三四郎』を客観的に読む作業に戻った。
これもあの日と同じだ。
すると、「何を読んでいるんですか?」と彼女の方からたずねた。
俺は一瞬彼女を見て、それから、書店の紙のカバーがかかっている正体のわからない文庫本を見る。
「『三四郎』です」
この瞬間、人に言えないようなものを読んでいなくて良かったなと心底思ったのだ。
「漱石、好きなの?」
「えぇ。近現代の文学者の中では、彼が一番好きです」
きっとこれが一番無難で一番つまらない答えだろう、と思った言葉を10年ぶりに返す。
「ふぅん」
と、彼女はつまらなそうに言って英語のことわざだらけのノートに視線を戻した。
「あの……」
俺はとっさに彼女を繋ぎ止めようとする。
彼女の名は……、苗字は何だっただろうか。
「はい?」
という彼女の声を聞いたとき、脳裏に「若林マリコ」という名が浮かぶ。
「若……林、マリコ?」
無意識に名を口にしていた。
俺の手のひらには、あぶら汗がにじむ。
彼女は俺を見て、感情の読めない表情でまばたきをしていた。ぱちぱちときらめく音がしそうな長い睫毛が上下に揺れる。
あぁ、やってしまった……。
まだ話もしたことのない人間に名を呼ばれるなど、不自然に思っているに違いない。
と考えた時、彼女はほのかに染まった頬でにこりと笑った。
「私の名前、なぜ知っているの?」
「え? ああ……えっと……」
この女の名は若林マリコ。
俺は知っている。
苗字は忘れかけていたが、俺はこいつを、この10年忘れることができなかったのだ。
「いいの。これでおあいこよ、ヒムラケンジくん」
「あ? え?」
唐突に名を呼ばれ、驚きが追加される。
「俺の名前……」
この時点で、マリコも俺の名を知っていたのか?
「知ってる。だからおあいこ」
若林マリコは、いたずら好きの小学生がするように前歯を見せて笑っていた。
10年経て……いや、10年戻って?
俺は初めて彼女の知らない表情を見た気がした。