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屁っこき娘と嘘つき坊ちゃま

――二人の出会いは一発の「屁」だった

 ――ブボンッ!!……プスゥ~

「はあ、すっきりすっきり」

 尾を引いた残りっ屁が少々残念だったが、おおむね満足のいく放屁に清々しい気持ちで夏花(なつか)が顔を上げると、雇い主・丹羽冬史郎(にわとうしろう)の驚いた顔が目の前に現れた。


 時よ止まれ――

 この時、山田夏花はただそれだけを願った。


 ◆


 山田夏花には秘密がある。

 それは「屁」だ。

 いつもは人並みの屁の頻度なのだが、「ある事」によって頻度が倍増してしまう。そして今日、その「ある事」が夏花の働く丹羽家の屋敷で頻繁に飛び交ったのだ。その結果、腹の張りに耐えられなくなった夏花はこっそり持ち場を抜け出し、裏庭の植え込みに隠れて思い切り放屁した……、までは良かった。

 屋敷の中にいるはずの冬史郎が目の前に現れるなんて、夢にも思わなかったのだ。


「ぁ、あ、あの、もも申し訳あ……」

「ねぇっ、今のは君かい?!」

 恐怖と羞恥に震える夏花がようやくの思いで絞り出した言葉を遮るように、冬史郎が前のめりで声を上げた。前のめり過ぎて植え込みに半身埋もれてしまっているが、それにも気づいていないのかギラリと光る冬史郎の視線はまっすぐに夏花を捕らえ、離さなかった。


 二年前、雇い入れの時に初めて会った冬史郎はまるで亡霊のようにやつれ果てた姿だった。青白い頬にくぼんだ目の奥だけがギョロギョロ動く様子に夏花は生理的な嫌悪感を抱いた。

 さらに冬史郎は気難しく神経質な性格として、使用人の間では評判だった。

(前に聞いたことがある……。お茶を溢した女中が牛や馬みたいに怒鳴られたって……)

 今、夏花はそんな気難しい主人の前で屁をこくという大変な粗相をしてしまったのだ。自分を睨みつけている冬史郎は相当怒っているに違いない。

 怖い……。夏花は無意識に息を止めてしまっていた。指先が冷えてしまっている。もうこの屋敷を追い出されるのは避けられないだろう。誤魔化して恥の上塗りをするよりは、正直に認めてしまった方が良い。これは十七年間、屁に悩まされている夏花の信条でもあった。それにどうせ誤魔化したところですぐにバレてしまうのだ。


「は、い……」

 夏花は腹をくくり、止めた息を吐き出すように正直に答えた。どんな叱責が待ち受けているのだろうか。きっと罰も受けるだろう。

 身体を大事に、と送り出してくれた故郷の両親と弟たちの顔が走馬灯のようによぎって消えた。

 だがそんな夏花の不安をよそに、冬史郎は夏花の顔をグイッと覗き込み、目を爛々とさせ驚くべき一言を放った。

「頼む! もう一度屁をこいてくれないか!」

(そうよね。当然もう一度屁をこいて……)

「……って、はぃっ?!」

 夏花はこの時生まれて初めて屁を催促された。


 夏花は自分の体質が人と違うことに気づいてからその事を恥じて生きてきた。十五になった年、夏花は奉公に出た。同年代の娘ならそろそろ嫁ぎ先を決める頃だがポンポン屁をこく娘に貰い手があるわけがない。そう思った夏花は自ら奉公に出ることを決めた。すかしっ屁は完璧に習得していたし、下働きなら人前に出ることも少ないだろうと踏んでいたのだ。


 夏花の奉公先であるこの屋敷は、国の中央官僚である丹羽利冬(としふゆ)の屋敷だ。利冬は帝都にある職場近くに居を構えているため、街中から離れたこの屋敷には現在は冬史郎が一人で暮らしている。冬史郎の実母はすでに他界しており、継母の艶子(つやこ)と腹違いの弟である一之輔(いちのすけ)がいるが、彼らがこの屋敷に寄り付くことはない。

 丹羽家は帝の血を引く由緒正しい家柄だ。しかし最近は使用人が不足していたらしく、経験の無い夏花でも下働きとして雇ってもらう事が出来た。こんな不気味な主人なら当たり前だよな、と思うと未経験者の自分が雇ってもらえたことも納得だった。


「どうすれば出るんだ? 芋か? 豆か? 栗か?」

「え、え、え、何を……」

 すっかり意識を飛ばしていた夏花に、冬史郎は矢継ぎ早に問いかけてきた。

「屁だよ! 君がしたんだろ? さっきの音は」

 冬史郎は植え込みにさらに入り込み、後ずさりする夏花の肩をガシっと抑えて言った。

「いいか、これは命令だ。どうにかして屁をひり出してくれ」

(ひぃぃっ、怖いっ!)

 冬史郎の狂気じみた迫力に、夏花の冷静な思考は霧散してしまっていた。気がつけば口が勝手に動いていた。

「う、う、そを……」

「ううそ?」

「“嘘”ですっ! 嘘を見たり、聞いたりすると……、もよおします……」

 尻つぼみになりながらも夏花は冬史郎に自身の秘密を明かした。


そう、夏花の屁の頻度を増す「ある事」というのは「嘘」である。誰かの嘘を見聞きすると、腹の奥で「ポコッ」と屁が湧き出るのだ。


 この日は珍しく艶子の来訪があった。どうやら冬史郎に見合い話を持ってきたらしい。それだけなら夏花を含む下働きには「どうぞご勝手に」で済む話だった。だが艶子の連れてきた女中たちが曲者だったのだ。

 彼女たちは突然炊事場や洗濯場を覗きに来ては、この屋敷で働く女中だけでなく、夏花たち下働きのことも大絶賛し始めた。ここの仕事が良いだの、あそこの調度が素晴らしいだのやたらと褒めてきたのだ。

 初めは皆訝しがっていたが、褒められて悪い気はしないのが人間だ。彼女たちの言葉にホクホクと顔を綻ばせていた。

 だが夏花は違った。彼女たちが言葉を発する度に次から次へと腹の底から湧いてくる屁に冷や汗が止まらなかった。その結果夏花は持ち場を抜け出し、冬史郎に出くわしてしまったわけなのだが……。

 つまるところ女中たちの言葉は全て「嘘」だったのだ。彼女たちは由緒正しい丹羽家の本邸で選ばれた“優れた女中”だと自負している。そして冬史郎のいるこの屋敷は別邸。別邸で働いている使用人を馬鹿にしていることを悟られないよう褒めそやかしているだけで、きっと本邸に戻って嘲り笑うのだろう。


 嘘を見聞きすると屁が増す、それはつまり「嘘がわかってしまう」ということでもある。

 知らなくて良いことまでわかってしまうのは良いこともあるが、辛いことの方が割合として多い。本邸の女中からの褒め言葉に喜んでいる仲間たちの顔をどんな気持ちで見たら良かったのか……。知らなくてもいい嘘に気づいてしまう夏花はそれを心の中に押し留める苦しさと、誰にも本当の事を伝えることが出来ない自分の薄情さに苦しんでいた。


「嘘か……」

 夏花は冬史郎の呟きにハッとした。夏花の体質は家族しか知らない。そもそも信じがたい内容だ。

(言ってしまった……。でもこんなの嘘みたいな話だし、どうせ頭のおかしい女だと追い出されるんだ。父ちゃん母ちゃん、こんな屁っこき娘でごめんなさい……)

 夏花はツンと熱くなってきた鼻を隠すように足下に視線を落とした。


「『僕は丹羽冬史郎じゃない』」

「……っ?」

 ――ポコ

 僅かに夏花の腹の中で空気が動いた。驚いて視線を上げると、冬史郎がじっと夏花を見つめていた。

「どう? 嘘ついてみたけど」

「え? あ、もっとです」

「えーっと、じゃあ『僕は女だ』」

 ――ポコ、ポコ

 冬史郎は神妙な面持ちで夏花の様子を伺っている。どうやら夏花の話を信じてくれたらしい。夏花はじんわりとした嬉しさを感じつつ、無意識に強まる尻の力に徐々に冷静さを取り戻していた。

(こ、これはどうやっても屁をこかせようとしている感じでは……。なんで屁を……、はっ! ご、ご主人様はもしかして、そういうご趣味の……っ、てどういう趣味よ!)

 騒がしい頭の中はさておき、夏花は屁を待ち構えられているこの状況に羞恥心と恐怖心を覚え始めていた。だが既に抗える状況ではなく、冬史郎は次々と嘘を重ねていった。

「えーっと『君は醜女だ』、『僕は毎日楽しい』! あとは……、『僕は君を愛している』」

(ひいぃ、もう、ここまでだっ……)

 キリキリと張ってくる腹の痛みに耐えられず、夏花はそっと尻の力を緩めた。


 ――ブボッ


 出してしまった……。かあっと顔が熱くなる。これまで隠し通して来た秘密を明かし、その上奉公先の主人の目の前で屁をこいてしまった。夏花の心は張り裂けそうだった。抑えていたものがジワッと視界を歪ませたが、目の前の光景にこぼれそうな涙はあっという間に引っ込んでいった。

「すうううっ、はぁぁぁ……」

「ひっ……」

 夏花の肩を掴んだままの冬史郎は、まるで山の頂上にでもたどり着いたように大きく深呼吸をしていた。

――自分の屁を吸われている。

 その行為に羞恥よりも気色悪さが込み上げ、夏花は思わず悲鳴をあげそうになった。しかし冬史郎はそんな夏花のことなど気にせず深呼吸を続けていた。


 どれくらいそうしていたのだろう。ひとしきり深呼吸をした後、冬史郎はゆっくりと顔を上げた。

「うそ……」

 思わず声を上げた夏花の目に映った冬史郎には、これまでの亡霊のような不気味さは全くなかった。肌も髪も艶があり、瞳には生気が宿っている。そこにいたのは作り物のように美しい姿をした青年だった。

「すごいっ! 最高だ! どうして気づかなかったんだろう! 君、名前は?」

「やまっ、山田、夏花ですっ」

「夏花っ! そうか、何年か前に入った子だ!」

 とうとう植え込みを踏み越えて夏花側へ来てしまった冬史郎は、興奮した様子で夏花の手を遠慮なくガシっとつかんだ。そして冬史郎は叫んだ。

「夏花、君の屁は清らかなんだ! お願いだ、ずっと僕のそばにいてくれ!」

「ひえっ……」

 残念ながら冬史郎のその言葉に夏花の屁が湧き出ることはなかった。

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