私にあなたを殺させて
「葛城右京、必ず貴様を処刑台に送ってやる」
若手検察官の藤田夏目は、数百人に殺人計画を売った天才殺人教唆犯・葛城右京の担当検察官だった。しかし夏目は相棒の検察事務官を「夏目を気に入った」という理由で右京に次々と殺され、検察庁内にて「相棒殺しの死神」と噂されてしまう。
検察庁で孤立する夏目の新しい相棒になったのは、警察に存在すら把握されていなかった右京のしっぽを掴み、逮捕にこぎつけた敏腕警察官だった。
新しい相棒と共に右京を追い詰めてゆく夏目だが、右京は常にその一歩先を行く。
「完璧な人間なんていない。だから、必ずどこかに現れる隙を突けば、人は簡単に崩れるものなのさ。それを防ぐ方法はたった一つ、死ぬことだ。ねぇ夏目ちゃん。君は誰なら殺せるんだい?」
──私はもう誰も死なせたくない。だから、私にあなたを殺させて。
風呂に入る前に、トイレに行くべきか否か。
経緯は忘れたが、小二の帰りの会で激論になった。汚いから先にトイレに行け。体を清めてからトイレに行け。好きな時に行け。
意見に困った私が縮こまっていたとき、隣の席の片桐くんが急に手を挙げた。
「俺はお風呂でおしっこします!」
悲鳴が起こった。若い担任が焦りだす。しかし片桐くんは堂々たる姿で、その精悍な顔に私の心臓は大きく高鳴った。
後になって、風呂場でおしっこをする人は5%らしいと知った。眉唾だが。
あのクラスはちょうど40人。だから5%なら、片桐くんを含めてちょうど二人。
もう一人は私だ。
本当のことを言えるわけもなく黙る私に対し、片桐くんは臆することなく手を挙げてクラスを湧かせた。素直に凄いと思った。
でもそれっきりだった。5%の絆はそれ以上広がらず、彼に憧れ続けて私は大人になった。
5%といえば、本物の殺意を抱いた経験のある人も同じく5%らしい。もちろん大半の人間は実行しない。だから世の中の秩序は保たれている。
でも、もしそんな5%の人の前に、完全犯罪を提供してくれる人間が現れたら?
そのうち何人が殺人を実行するのだろう。
§
「僕の知る限り、5%だ」
5%の中のさらに5%なので0.25%、つまり400人に1人。有識者が言うのだから間違いない数字だ。
「意外と多いでしょ。それだけ世の中が歪んでるってことさ」
葛城右京。二七歳。今こそ地味な外見だが、元は結婚詐欺師だ。崩れぬ微笑で女を欺いていたが、女を手にかけ、最終的に殺人計画を売りはじめた。
警察も存在すら把握していなかった彼だが、ある時第三者の介入により殺人計画が崩れ存在が発覚、紆余曲折の末に逮捕することができた。
そんな凶悪犯の担当検察官が私になってしまった。片桐くんに触発されて努力して夢を叶え、ようやく検察官になれたのに。
「夏目ちゃん、僕の捜査どれくらい進んだの?」
馴れ馴れしい呼び方にも慣れた。
「全く進みません。あなたが余罪を増やすので」
答えた瞬間、業務用の携帯が鳴る。上司からだ。
「お前の相棒の事務官がまた倒れた。救急車を呼んだが恐らくダメだ」
淡々とした上司の口調が、かえって私の心をえぐる。
「……庁舎に戻りましょうか?」
「いや、いらん」
電話を切った私は唇を噛んで俯く。戻ってほしくないのだろう。
だって私は死神だから。藤田夏目と相棒を組むと死ぬという噂は、七十五日では消えそうにない。
一人目は私の隣で、二人目は東京拘置所の廊下で、三人目は拘置所から霞ヶ関まで、十キロ以上の距離を超えて今死んだ。
「葛城右京、必ず貴様を処刑台に送ってやる」
虚勢を張った私は、あとを刑務官に任せて部屋を出た。右京の高笑いが廊下に響いていた。右京は人を殺した直後だけ微笑を崩して大笑する。今みたいに。
右京は私の相棒を指一本触れずに殺せる。詳細は一切不明だが、本人が自白している。私のことを気に入ったから殺した、と。
右京の担当からは外してもらえない。代役を頼む相手がいないから。絶望感と孤立感で、私はもう限界だった。
「君が死神?」
廊下に座り込んでスーツの袖で涙を拭いていたら、頭上から声がかかった。
「俺、夏目の次の相棒。よろしく!」
「……どなたか存じませんが、ダメです。私と組んだら死にますよ」
「平気平気!」
右京みたいな軽い口調に警戒しつつ、私は顔を上げた。私と同年代で、背のかなり高い筋肉質な男だ。
この爽やかな顔も、右京の手にかかって死の苦悶に歪むのだろうか。
「右京を捕まえた警察官、俺なんだ。天敵だから大丈夫だよ」
「警察官が私の相棒ですか? まさか。許可が出ませんよ」
「一応可能だよ。奴は余罪まみれだし。許可を渋る間に三人死んだんだから、本当の死神は検察庁だよな」
変な男だ。外見は男前だけど。
「ね、右京に俺のこと紹介してよ」
彼は私の袖を取り、無理矢理立ち上がらせてくる。
「私、あなたのこと知りません」
「そなの? 俺は警視庁の片桐直。あとはゆっくり思い出してよ。俺は誰にも殺されねぇから」
名前を聞いて、私ははっと顔を上げる。
「お風呂でおしっこする片桐くん?」
「……それは忘れててほしかった」
白い歯を見せて恥じらった彼は、私の袖を引っ張って取調室に向かう。涙は既に引っこんでいた。
「戻ってきたんだ?」
取調室に戻ると、葛城右京は頬杖をやめて私に微笑んだ。
「新しい相棒ができたので」
「早いね。さっき殺したばかりなのに」
「新しい相棒の、片桐でーっす!」
片桐くんが顔をのぞかせた瞬間、右京の目元が一瞬鋭くなった。因縁ある男だと気づいたのだろう。右京のポーカーフェイスが崩れて苛立ちが見える。初めて見る表情だ。
「夏目、右京に『元結婚詐欺師なだけあって美形ですね、と片桐が言ってます』って言って」
片桐くんは身をかがめながら耳打ちしてきた。
「え、私が?」
「いいから言って」
『……元結婚詐欺師なだけあって美形ですね、と片桐が言ってます』
困惑しながら棒読みで言うと、微笑のまま右京は小さく礼をした。
「どうも。君もなかなかだけどね」
どうせ嘘だ。右京だし。
『ちょっと質問いいですか』
片桐くんは私にまた耳打ちをしてきた。
「どうぞ」
右京は私の伝言に鷹揚に頷いてみせる。
『何人に殺人計画を売りました?』
「三百人くらいかな」
『結婚詐欺師を辞めて、殺人計画を売りはじめた理由は?』
「簡単だし儲かるし楽しいから」
『何が楽しいんですか?』
「長くなるけどいいの?」
耳打ちされる私を介し、片桐くんと右京の問答が繰り返される。茶番だ。右京が本音を言うはずがない。しかし、
「どうして私に執着するんですか?」
余裕ありげな右京の微笑が、この質問を投げた瞬間に消えた。
「こういうのやめない? 夏目ちゃんの声だけ借りて、僕が口説けると思う?」
「今のは私自身の言葉です」
「え?」
嘘だ。これも片桐くんの指示だ。
しかし右京は片桐くんの罠にはまった。ぽかんと口を開けていた。
「おい右京。さっきの質問の答え、聞かせろよ」
「夏目ちゃんが可愛いからだよ」
ため息をついた右京から、にわかには信じがたい答えが返ってきた。
「右京、お前は天性の詐欺師だな。少し揺さぶった程度じゃ本心が出てこねぇ」
片桐くんの爽やかな悪態に、右京が小さく舌打ちをした。
「いや、本心だよ。本気で可愛いと思ってるから泣き顔を見ようと思って相棒を殺してるのに、夏目ちゃんって僕の前で泣かないよね。なんで?」
「夏目の泣き顔……?」
「男は皆、可愛い女の子の泣き顔を見たいものだよ」
そうなのかと尋ねたら、片桐くんは眉間にしわを寄せて首を横に振った。
「……私、廊下で泣いたのが悪かったんですか?」
おかげで相棒が三人も死んだのだとしたら、やはり私は死神じゃないか。
「バカ抜かせ。夏目、泣き顔を見せたら何度でも泣かせにくる。絶対に泣くなよ」
片桐くんに優しく諭され、私はぎこちなく頷く。
「それより夏目、右京のあの顔を見たか? 俺が煽ったら反射的に返事しやがった。間違いない、今のは奴の本心だ」
片桐くんは顔を輝かせ、困って俯く私の手を取る。
「右京の弱点は夏目だ。夏目がいれば、右京はきっと真実を喋る。俺と一緒に事件を解決しよう、夏目」
片桐くんの心強い言葉にこたえようとした時だった。
「僕から担当外れたいんじゃないの?」
水を差したのは、醒めた顔の右京だった。
「夏目ちゃんって、ほんと主体性ないよね。泣く場所も、僕の担当を続けるかどうかも片桐任せ。ま、そゆとこが可愛いんだけど」
ぐうの音も出なかった。悔しいが奴の言うとおりだ。帰りの会の記憶が私の脳裏によぎる。心にぶっ刺さって思わず目が泳ぐ。
「もう飽きたんだよね、恋心とか殺意みたいな複雑な他人の感情で遊ぶの。僕はもっと難しい感情、たとえば夏目ちゃんの本物の感情で遊びたい」
「私の感情が偽物ってことですか」
「うん」
右京はあっさり頷いた。
「今の夏目ちゃんの感情、全部僕か片桐に流されてるよね。それも可愛いけど、僕は夏目ちゃんの本物の感情、特に涙がほしいんだ。どうしたら本物の涙を見せてくれるの?」
違う。この感情は私のものだ。偽物のはずがない。でも私は流されやすい。それは痛いほど自覚している。
「あ、夏目ちゃんに人を殺してもらおう!」
あまりの衝撃に心臓が止まるかと思った。
「人を殺したときの感情って格別だよ。夏目ちゃんにも体験してほしいな。いい経験になるよ」
「私は……人なんて……」
「殺すよ。僕に流されるからね」
断言されて、思わずすがるように片桐くんを見上げる。
「そういうトコだよ夏目ちゃん。すぐ人の顔を伺うところ。片桐が『夏目は人を殺す』って言ったらどうするの? 殺すの?」
顔を寄せてくる右京から顔を背け、ぎゅっと目を瞑る。それしか今の私にはできなかった。
「落ち着け! 夏目は人なんて殺さない。右京なんかより俺を信じろ!」
片桐くんが私の両腕を掴んで叫ぶ。でもダメだった。片桐くんに泣くなって言われていたのに、彼の手の甲に私の涙が落ちて、視界が歪んでいく。
「ダメ。それは本物じゃない。ねぇ夏目ちゃん。人を殺して僕みたいに孤独になったら、僕の腕の中で泣いてくれるよね?」
椅子に繋がれていない方の手を、右京が私に伸ばす。妙に暖かいその手が、私の頭をそっと撫でた。