エッセイセイのヨイヨイヨイ!
これは、ある人間のエッセイです。
一人称代名詞として「□」を用い、配偶者を「〇」、息子を「▽」、娘を「△」で表しています。
おそらく、異常だと感じると思います。
ただ、それが、すごく異常と感じられるか、ありがちな異常と感じられるか、正直言って作者にも分かりません。
<はじめに>
はじめに、この文章において、一人称代名詞として、「□」を用いることを許して欲しい。
なぜ、そのようなクセの強いことをするかというと、どの一人称代名詞も、あまりしっくり来なかったからである。ついでと言ってはなんだが、配偶者のことは「〇」、息子のことは「▽」、娘のことは「△」と表記させていただきたい。
<的確に表すということについて>
□は、あるとき、ものの見え方がおかしいことに気づいた。そこで、眼科に行って検査してもらったが、何の異常もなかった。
実は、□は、精神を病んでいて、通院している。そして、数カ月の後にようやく気付いた。
「見え方がおかしいのは精神的にだ!」
と。
視界に現実感がないのだ。
なんだか絵空事のような、他人事のような、そんな感じがしてしまっていた。
古めかしいブラウン管に映し出された見知らぬ街の映像のような。
□は、主治医に、それを話した。
しかし、しばらくすると、「視界に現実感がない」という言葉は、□の症状を的確に表していないことに思い当たった。
それを、主治医に話そうかとも思った。
だが、待てよ?
もしも、□の症状を的確に言い表す言葉を見つけたとしよう。
はたして、その言葉は、主治医の中で、□の思い描いているものと同じものを描き出してくれるのだろうか?
いや、そんなことは、とても期待できない。
ならば……、ならばだ。
まず、□の症状との間に誤差のある「視界に現実感がない」という言葉を主治医に伝え、それが、さらに、□が思う「視界に現実感がない」という症状とは誤差を持ったイメージが主治医に伝わることで、満足した方がいいのではないか?
なぜならば、心血を注いで、会心の表現をしたとて、到底、そのままには伝わりはしないのだから。
などと言いつつも、実のところ、もっと真に迫った表現をすることに未練たらたらなのであるが。
だが、この「的確に表すということ」という問題は、物書きであればプロであれアマであれ多少なりとも悩まされるのではないであろうか?
自分のイメージをより的確に表すフレーズを探し求めるも、そうして創り出した会心の一撃が、読者の中で自分が思い描いたものと同じものを再生してはくれないという哀しい現実だ。
なお、今の見え方が異常だと思う根拠は、単純に、以前はこんな風ではなかったからである。
そして、以前を正常とし、今を異常とするのは、以前の方が心地よくて、今の方が不快だからである。
<BGMに本気で左右されることについて>
視覚だけではない。
BGMに本気で気持ちを左右されるようになってしまった。
「そんなことは当たり前のことで、普通のことだ」
と言われるかも知れないが、これも、以前はそんなことはなかったし、以前の方が心地よかった。
ならば、それを逆手に取って、スマホに、
「気分の上がる音楽をかけて」
とでも言えばいいのだろうが、そうする勇気もない。
<予測変換について>
予測変換というものは大変に便利である。
皆さんは。「単漢字変換」という言葉を、ご存知だろうか?
歳バレしそうですが、本当に最初に登場したワープロは、単漢字変換といって、漢字を1文字ずつ変換していたのだ。
そこから比べると、予測変換なんて夢のような機能である。
しかし。人間は便利なものには、すぐに慣れて、当たり前と感じてしまう。
だから、予測変換がバカだと、腹が立ちませんか?
でも、予測変換が、あまりにも自分が打とうとしている文章を、次々、言い当てて来たら、不気味だと思いませんか?
しかし、予測変換の究極の目標は、おそらく、選択するだけで文章が打ててしまうことだと思うのだ。
そんな未来、歓迎しますか? 受け入れがたいですか?
なお、□の執筆環境では、変換候補から選ぶならスペースキー、予測変換の候補から選ぶならTABキーを押さなければならないのだが、この操作を誤ってイラつくこともしばしばある。
そして、その予測変換は、この文章を打っている今も、全開で動いていて、期待外れの候補をたくさん提示したり、打とうとしていた言葉よりいいフレーズを時として示したり、訳の分からないタイミングで誤変換のデータをMicrosoftへ送れと言ったりするのだ。
<家族の会話に参加させてもらえていないことについて>
実は、□は、もう長いこと、家族の会話に参加させてもらっていない。
□は、常に右耳が盛大に耳鳴りしていてほとんど聞こえない。医者によると、耳鳴りのせいで聞こえないのではなくて、右耳がほぼ何も聞こえないせいで耳鳴りがしているらしい。
そんなこともあり、テーブルの向かい側で並んで話している〇と▽の会話も、ろくすっぽ聞き取れないのだ。
もう、聞き取るのも、理解するのも、諦めた。それを要求すると、かなり負担をかける。1分に1回聞き返すくらいでは済まない。
まぁ、この話だけだと、□が可哀想みたいになるが、その前に、□の話のクセが強すぎて、愛想をつかされていて、相手にされなくなっているのだ。
〇が、あるとき吐露したところによると、△は遠いところで、一人暮らしして働いているのだが、それは、□と暮らしたくないからだそうだ。
家族は、ただ口を聞かないだけではなく、□の言ったことに対して、注意も与えて来た。
いつしか、□は、口を開く前に、
「これを言ったら、『〜〜〜〜』って注意されるな」
と予測するようになり、それを頭の中でだけ言って、口には出さなくなって来た。
おかげで、最近では、発言を注意されることはなくなって来た。それは、家族が優しくなったのかも知れないし、□がマシになったのかも知れないし、その両方かも知れない。
<やたらと独り言を言うことについて>
元々、独り言は多かったのだが、家族とも話せない、そして、訳あって、家族と話せないとリアルで話せる相手もほぼ皆無なので、さらに、独り言も増えるというものだ。
人目も憚らずに平気で公衆の面前で独り言を言っている。たぶん、我慢しようと思えば出来るのだろうが、おそらくかなりつらいと思う。
実は大して独り言を言っていないんじゃないかと思われる方もいらっしゃると思うが、かなり言っている。
□くらい独り言を言っている人は滅多に見かけないし、見かけたときは□のことを棚に上げてヒキます。
<感覚を共有することについて>
なんか、こんなの読んだことありませんか?
自己紹介が終わったAのところにBが駆け寄って来て、
「ねぇ! あなたの言ってた『~~~~』って、私がいつも考えてたことなの! 初めてだわ! そんなこと言う人に出会ったの!」
てなことを、興奮して言うやつ。
正直言って、□は、そういうのを読んだとき、あんまりリアリティを感じていなかった。
ただ、最近になって、そういう「願望」は出て来た。
□と同じ感覚を持った人に会いたいっていう願望が。
その割には、その「感覚」とやらを言語で表せていないのだが。
<読む価値のあるエッセイとは何か?>
中学生のとき作文の課題で、エッセイのようなものを書いて提出したことがあった。
「いろいろと考えたようだが、何が言いたいのかよく分からなかった」
みたいな講評が付けられたような気がする。
エッセイを読む動機として、
①書いている人に興味がある。
②書いている状況や書いた人の成し遂げたことに興味がある。
③ただ単純に面白い。
の3つが大きいと思う。
①は、書いている人が有名人であるなど知っている人である場合。
②は、エッセイというよりは体験記や手記と呼ばれるかも知れない。
そして、□が目指せるのは、③しかないようなのだが、はたして、このエッセイは面白いのだろうか?
<ここで取り上げた話題について>
ここまでで取り上げた話題が、あまりにも取り留めがなくて、それこそ、
「いろいろと考えたようだが、何が言いたいのかよく分からない」
と思われるかも知れませんが、これらが、最近、□の頭を悩ませていることたちなのです。
<なぜ、これを書き出し祭りに投稿するのか?>
おそらく□は異常です。
ただ、それが、すごく異常なのか、わりとありがちな異常なのか、分からなくなりました。
すみません。この場をお借りしてお聞きします。
この文章を読んで、これの書き手は、どの程度、異常だと思いますか?
もちろん、それが、「書き出し祭りは連載の書き出しを競うところ」ということでも、「こんな公の場に、そんな私的なことを持ち込む」ということでも、良くないことであることは何度も考えたのですが、あまりにも怖くなってしまったのです。
また、「視界に現実感がない」と書きましたが、それは、視界だけにとどまっていないのです。
実際問題、□の社会的な身分が、かなりマズいことになったというのに、それほど焦ることもなく放置してしまったり、この文章のことにしても、パソコンを閉じてしまえば、書き出し祭りに投稿することも、それどころか、この文章の存在さえも、忘れてしまうのです。
そんな自分が怖ろしいのです。