社畜の俺にメアリーさんがしつこく迫ってくる件につきまして
先輩が課長の頭をカレーに突っ込んだ。殺人未遂で首。先輩がいなくなったせいで職場がブラックになって俺は追い詰められていた。三ヶ月間何とか頑張った。けどもう無理。自殺しようとしていたところで電話がかかってきた。
「私、メアリー、あなたを殺しに来たの」
誰だ一体。いたずら電話なんかしてくるのは。でも構わない。自殺するのに困っていた。殺してくれるならば助かる。俺が殺しに来るのを催促すると、逆に待ち合わせの場所と時間の指示を受ける。俺が会社を休み、待ち合わせ場所である駅で待っていると、パンを咥えて走ってきた可愛らしい女性に衝突された。
先輩が課長の頭をカレーの鍋の中に突っ込んでいた。課長は小さい方の角を掴まれたカブトムシのように暴れていた。
何が起こっている? 休日なのに半強制的に出席させられた会社のイベント、カレー懇親会会場の調理場。目の前の光景は見たいものではなかった。最悪だ。まさか、先輩は課長の頭をカレーのスパイスか何かと勘違いしているのか? そんなはずないと問いただすために出てきた言葉は、
「カレーできました?」
捻り出すようにして出した声。俺は自分がいかに間抜けなことを言っているか理解している。だが、混乱している。現実が上手く理解できずに他に言葉が出てこない。
「もう少しで完成だ」
先輩の回答も意味不明。確かにカレーのいい匂いが拡散している。十分に煮込まれたのがわかる。が、課長の頭を突っ込んだ後では食べる気になれない。いや、カレーはどうでもいい。俺は心のなかで『落ち着け』と何回か繰り返してから大きく息を吸う。
「先輩! それは駄目です。そこから離れてください」
「料理が終わったならな」
「止めてください」
俺は先輩の背中を掴む。無理やり引っ張りながら不安を感じる。怒り狂っているであろう先輩が、振り返って殴りかかってきたらどうしよう。先輩は筋肉はないが肉の塊。喧嘩になれば勝てる自信はない。力勝負は避けたいところ。それでも目の前で殺人事件が起こるのを見過ごせない。勇気を振り絞り力づくで先輩を課長から引き剥がして身構える。
だが、先輩は襲ってこない。気力が尽きたのか、その場にヘナヘナと崩れ落ちる。何かに祈るように両膝と頭を地面につけると置物になる。
俺はこれ以上の害にならなそうな先輩のことは放っておき、課長の頭を鍋から出す。まさか、死んでないよな。と慌てるが、課長はゴホゴホと咳き込むと、先輩の横に倒れ込む。良かった。カレーまみれの酷い状態だが死んではいない。
***
月曜日の午前六時、陸橋の上に立っていた。まだ周囲は薄暗い。動けない俺は活気を取り戻し始めた駅のホームを見下ろす。十二月の冷気を含んだ風が下側から吹き寄せてくる。寒さに身を縮こませながらマスクを鼻にかける。ここから飛び降りれば、鉄道の高架線によって一瞬で丸焦げ、楽になれるんじゃないかと。
カレー事件からもう三ヶ月経つ。先輩がいなくなってから職場は地獄と化した。中堅社員がひとり減った結果、三六協定、労働基準法、何それちっとも関係ないね。とばかりに指数的関数で仕事が増えてデスマーチが酷くなったのだ。
一ヶ月目は気がつけば過ぎていた。二ヶ月目は何とか乗り越えた。三ヶ月目は……、記憶にない。だが、限界だってことはわかる。これ以上は辛い。無理だ。先が見えない。上司や周囲からは理不尽に責められる。先輩の残したバグも不具合分析も自分の力ではクリアできそうにない。もう、この生活に耐えきれる自信がなかった。
欄干に手をかけた。が、動きを止める。ここで自分が身を投げたら、どうなるだろうか。高架線で感電死。確定だ。その後、どうなる? 電線はショートで切れて線路もダメージを受けるかもしれない。そんなことになったら損害賠償を請求されて実家の両親に迷惑をかけるかもしれない。それに、高架線や線路の修復のため、鉄道の保守員は呼び出されるに違いない。もうすぐ通勤時間だ。早く復旧させろとプレッシャーを受けるはず。自分が悪くもないのに。それだけじゃない。電車が止まることになったら誰もがウンザリするに違いない。
迷っていた。楽になりたい気持ちと、他の人に迷惑をかけたくない気持ちで。もし、俺が自分消滅スイッチを持っていたら、躊躇わずに押していた。だが、そんな便利な道具はない。無論、自殺願望を叶えるために他人を傷つける行為なんかしたくないし、してはいけない。
人間が死ぬというのはそんな簡単なことではないな。
遠くの汽笛が聞こえた。冷えた両手に息を吹きかけると少しだけ生きている実感がする。それが酷く苦しく思えて胸を押さえると心臓がキュウゥと急に収縮する。
自分の体も既に限界なのか。その場に座り込んで、ゼイゼイと呼吸をする。このままここで倒れて死ねるなら、それがベストだ。きっと警察以外の人には迷惑をかけずに済む。
トウゥゥルルル~
コートの下から音がした。一瞬、俺は何が起こったのか理解できなかった。何回も繰り返してなる音と振動に、不意に我に返り手をコートのポケットに突っ込む。スマホを取り出して画面を見ると、見知らぬ番号が表示されている。
いつもならば無視をする。と言うのも、かかってくるのはクレジットカードと電話会社の宣伝、もしくは怪しげなセールスだけだ。それらがこんな時間に電話をしてくるはずがない。誰だこれ? 俺は妙に気になって通話のアイコンを押した。
「もしもし」
女性の声だった。母親ではない。聞き覚えがない。少女の声のようで合成された音声のようにも感じられる。
「誰?」
「私? 私、メアリー。今、あなたのいる場所に向かってるの」
「はぁ? 間違い電話です」
「間違ってないって。君のことわかっている。迷惑をかけていること、日曜日に徹夜になったこと。だから、……」
嫌がらせの電話か。誰だ一体、朝っぱらから。俺は反射的に苛立ちを感じる。
「俺の責任にされても。今、トラブルになっているのは先輩が担当した範囲だし、元はと言えば、ありえない短納期で受注した営業と課長の責任じゃないか」
「でも、君がもっと頑張れば……」
「ふざけんな! 誰だか知らないけど文句があるなら、お前がやれ。もう無理だって。これ以上!」
俺は大声でスマホに向かって叫ぶ。
「逆ギレ? みっともない。君は仕事に対する責任感がないの?」
「はいはい分かりました。責任取ればいいんだよね。メリーだかメアリーだか知らないけど、俺を殺しに来るってんでいいんだよね。グッドタイミング。ちょうど今、自殺したときの自分の死体の処理についてどうすればいいか困ってたんで」
「えっ?!」
「違うの? 殺しに来ないの? もしかして切腹しか認めない派? じゃあ、スマホにこの番号のやつにパワハラ受けて耐えきれなくなったってメッセージ残して死ぬわ」
「いや、ちょ、ちょっと待ってよ。おかしいって死ぬだなんて」
「責任を取れって言ったのお前じゃないか。いいよ。責任取ってやるよ。でも、俺が取れる責任方法なんて命くらいしかないから」
何処からか飛んできたヘッドライトの光で目がくらむ。思わず目を閉じると、少女の声はスマホの向こうでふう。とわざとらしくため息をつく。
「じゃあ、君の望み通りにしてあげる。ただ、今すぐは無理。寒いから。ついさっき後ろまで来たんだけどね帰っちゃった。今はベッドの中。二度寝する。眠くなってきた」
「だったら、いつ殺しに来るの?」
「十時に駅の南口に来なさい。そうしたら、あなたの望み、叶えてあげる」
「何言ってるんだよ。会社があるだろ?」
「休めば?」
「はぁ? 土日も出てるんだぜ。今日は月曜日だって理解してますか? 定例の工程会議がありますよね」
「でも、君、死ぬんだよね。私に殺されたいんだよね。だったら、今日休んでも工程会議になんか出なくてもどうでもいいじゃない。君はいなくなっちゃうんだから」
「……」
少女の声に一理あると思ってしまった。死ぬのなら、後はどうなったって構わないし知ったことじゃない。死ぬ気になれば何でも出来る。使い方が間違っているような気もするが、そんな言葉を思い出す。
「時間厳守よ」
俺が何か適当なことを言い返そうとした瞬間に通話は切られた。掛け直したが不通知。回線を落とされたようだ。
メアリーは誰だろうか。会社の関係者に違いない。犯人を女性とすれば容疑者は三人。が、女性と考えるのは早計。女性の声だったけれども、少女の声だ。聞きようによっては少年かもしれない。どちらにせよ聞いたことのない声、素の声ではない。ボイスチェンジャーで声音を変えたってことは間違いない。
だから、男性の可能性だって十分にある。俺は殺害予告を受けるほど恨まれているつもりはない。だが、現在の職場、いつ殺人事件が起こってもおかしくないほどの緊迫感がある。先輩が狂ったのはたった三ヶ月前のことだ。
以前に社長が、『緊張感を持って仕事をしろ』と言っていたことを思い出す。ここは、いつ命のやり取りが行われても不思議ではない職場。まさに、職場サファリパーク。いや、ジュラシックパーク。油断すればTレックスにガブリ。まるかじり。
人間とは不思議なものだ。あれだけ死にたい。と思っていたはずなのに、殺害予告を受けた途端、何故、自分が死ななければならないのか。と反発したくなる。いたずら電話をしてきた犯人を捕まえて、ごめんなさい。って言うまでカレーを食べさせたい気分になる。
家に戻る気にもなれなかった俺は、かなりの時間を夢遊病者のように街をうろついてから十分前に待ち合わせ場所に来た。周囲を確認する。どうやら見知った人物はいない。電話の主らしき人物は見当たらない。ギリギリに到着するつもりだろうか? それとも、隠れて俺のことを狙っているのだろうか?
まさか、こんな人通りが多い場所で殺人を行うはずがない。相手は見知った人物のはず。それならば、俺の方が先に気づくはず。いや、悩む必要なんかない。殺されても構わないんだ。
そんな油断と投げやりさのせいで俺はちゃんと認識できていなかった。見たこともない食パンを咥えた可愛らしい女性が全速力で近づいていることを。衝突されるまで。