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Harmonical Melody  作者: 新夜詩希
5/21

Episode 1 ~Stalking Rhapsody~

「や~い、ガイジンはるな~!」




 ……夢を見ている。遠い遠い、昔の記憶。あんまり思い出したくない、記憶。何故って? それは……私がいじめられている映像だから。


 蹲る私の周りを、数人の男の子達が取り囲んで騒ぎ立てる。

 私の祖母はイタリア人。俗に言うクオーターってヤツだ。純日本人ではない私は、生まれ付き髪の毛と瞳の色素が薄い。小学生位の子供なら、その程度の理由があれば十分からかうネタになる。特に肉体的な暴力を受けていた訳ではないのだが、幼い私にとって『ガイジン』と呼ばれる事は鋭利な刃物で体を切り裂かれるのと同義だった。

 自分は何も悪くない。自分は何もしていない。自分は日本語しか話せないのに、何で『ガイジン』と呼ばれなければならないのか。髪と目の色が少し違うだけなのに、何で私だけこんな目に遭うのだろうか。何で、なんで、ナンデ。そればっかり。

 私は弱かった。自分の殻に閉じこもってても何も解決しない。頭の片隅では何となく分かっていたんだ。でもそれを行動に移せる程、強くなかった。こちらが何もしなければ、相手はいい気になって更に攻め立ててくる。見事なまでの悪循環スパイラル。いじめられている間の時間は、私に対する最大限の苦痛をもたらすと同時に永遠とも呼べる程長いものだった。


「おい! おまえら!」


 唐突に透き通った綺麗な声が響く。ここから状況は一変する。

 私は何もしていない。未だ蹲ったままだ。蹲ったまま、顔だけを上げる。涙で滲んだ私の瞳には、取り囲んでいた男の子達を追い払う一人の男の子が映っていた。


 その男の子は………私の幼馴染。


 私は『彼』に、今までどれだけ救われてきただろう。今の私が日々を笑って過ごせているのは、間違い無く『彼』のお陰なのだから。


「はるなは――――――――――――」


 ………あれ? 台詞が思い出せない。とても、とても大切な言葉だった筈なのに……。おかしいな。今まで何度も見た夢。でも、最後の『彼』が言った台詞だけがハッキリしない。何だかノイズが混じっていて、周波数が微妙に合わないラジオを聴いているみたい。

 ……まあ、いいか。その内思い出すでしょう。……何か釈然としないけど。


 もうすぐ夜が明ける。そしたら、またいつもの『明るく可愛い日坂春奈』に戻らなきゃ―――




―1― 


「あ~ん、難しいよ~!」




 ここはSG高等部の音楽室。私・日坂春奈はピアノを目の前にして唸り声を上げていた。

 何故こんな事をしているのかと言えば、『練習しているから』としか答えられない。いや、『練習しなくちゃいけないから』と言った方が正しいかな? 私が今練習しているのは、もうすぐ私の所属している三人組バンド『Melodious Mind(通称マイメロ)』が出演するライブがあるので、それまでにどうしても新曲を弾けるようにしなければならないからだ。

 マイメロは、全曲オリジナルを貫いている。曲を作るのは他の二人で、私は二人がアレンジした曲のシンセの手弾きパートをひたすら練習するのみ。そこには多少の努力では越えられない高い壁が存在する。つまり、私にはキーボードを弾く事は出来てもアレンジに関わるまでの才能はないって訳。元々小学生位の時にピアノを少しやっていただけだ。それも道理だろう。まあ、オケのシンセパートは全部シーケンサーで鳴らして私は弾いてる真似だけするって手もあるけど、さすがにそれはねぇ……。しかし、怖いのはそれを他の二人が最終手段として考えているようだと言う事だ。……お願いっ! 見捨てないでっ!(←上目遣いで) …………ちょっと可愛く言ってみましたけど、如何でしょうか?

 そんな訳で、他の二人みたいに才能がない只の凡人である私は、ひたすら努力して付いて行かないとお払い箱になってしまうかもしれないのだ。

 でも私の才能の有無に関係なく、二人の作る曲は本当にレベルが高いと思う。このSGには数多の有志バンドが存在しているが、その中でもダントツに曲のクオリティが高いのは周知の事実だ。だからこんなに苦労して練習していると言う側面もある。………はい、人の所為にしちゃいけませんよね。


 今の時間は正午を30分ほど回った所だ。練習時間はあと少し。いつもなら雪夜と私特製の『LOVE☆LOVEお弁当DX』を囲んで、甘~い蜜月の時を過ごしている筈なんだけど、ライブ前のこの時期は少しでも練習しなくちゃいけないので、涙を飲んで我慢している。あ、勿論お弁当は二つに分けて雪夜にも渡してあるけどね。ちゃんと食べてるかなぁ……。




「おっ! 雪夜、これ春奈ちゃんの手作り弁当か!?」


「まあな」


「頼むから一口くれよ! 今度奢るからさ!」


「どーぞ」


「へっへっへっへ。春奈た~ん♪ ……うごォ!?」


「ん? どうかしたか?」


「今顔に拳のようなものが飛んできた気が……」


「気の所為だろ。食べないのか?」


「……。なんか怖いけど……。だがしかぁし! こんな事で諦めるかぁ! いっただきまーす! 春奈ちゅわ~ん! ………げふッ!?」


「ん? 今度はどうしたんだ?」


「……どうしたも何も……この的確にレバーを捉えている右フックは……明らかにお前のだと思うのだが……」


「だから気の所為だって。いいから遠慮せずに食べろよ」


「……………やっぱいらない」


「変なヤツ」




 さて、そろそろ時間だ。今日の練習はこんなもんかな。正直、教えてくれる人でもいればもう少しはかどると思うんだけど、静流先輩は忙しいし、てゆーか静流先輩には頼りたくないし、雪夜は作れるくせに弾けないからなぁ……。

 そんな他力本願な事を考えつつ、楽譜を抱えてボーっと音楽室を出ようとした、その刹那―――


「うわッ!?」「きゃッ!!」


 突然ドアが開いた。予期せぬ出来事に、私は派手に尻餅を付いてしまう。当然持っていた20枚程の楽譜は床に全て散らばってしまった。痛いなぁ……。何なのよ、もう。


「あ、ゴメン。タイミングが悪かったかな。大丈夫? 立てる?」


 目の前に立っている男性……私服である所から察するに、大学部の人だと思うのだけど、人懐っこい柔和な微笑みを私に向けて手を差し伸べている。……あれ? この人何処かで見た事があるような………。


「……どうも」


 私はその手には掴まらずに体を起こし、楽譜を拾い集めた。彼はほんの少しの間手をふらつかせて空しそうにした後、楽譜拾いを手伝いながら声を掛けてくる。


「ええと、違ったらゴメン。キミ、日坂春奈だよね?」


「えっ………私を知ってるんですか?」


「そりゃ有名だもん。『SGのアイドル』ってね」


 そう言うと彼はカラカラと笑った。


「……大学部の人が、こんな所で何してるんですか?」


「ああ、ゴメン。気に障ったかな」


 声にほんの少し棘が立つ。私は正直、『SGのアイドル』と呼ばれるのがあまり好きではない。実際の所、アイドルなんて柄じゃないし、一応周りには明るく振舞っているけど、本当は凄く人見知りもする。SSSのメンバー以外の男性はどうしても距離を置いてしまう。ましてや名前さえ知らない人なら尚更だ。


「ちょっとこっちに知り合いが居てね。そのついでに寄ってみたんだ。ボクも高等部の頃、昼休みはよくピアノ弾きに来てたなぁ。ここの音楽室、外に音が漏れないからいいんだよね」


 彼は一人で懐かしんでいる。何なのかな、この人……。


「ああ、そう言えば自己紹介がまだだったね。ボクは綾辻(あやつじ) 夕人(ゆうと)。大学部の2年だ」


 綾辻……? 綾辻夕人………って!


「あ、あの綾辻夕人さんなんですか!? あのウィーン国際で入賞した!?」


「うん……まあ、一応ね」


 彼は照れたように頬を掻く。 

『綾辻夕人』と言えば、4年前ウィーン国際ピアノコンクールにおいて16歳の若さで堂々3位の結果を残した天才ピアニストだ。しかも確か家は有名な資産家らしい。この学園にいるのは知っていたが、本人に会うのは初めてだった。


「あっ、ゴメンなさい。ニュースや記事で顔は見た事あったんですけど、覚えていなかったもので……」


「あはは。正直だなぁ。気にしなくていいよ。特徴が無くて憶えづらい顔だってよく言われるんだ」


 そう言うと彼はまた笑う。よく笑う人だなぁ。不快な訳ではないけど。でも聞いた話や見た記事から想像していたのと印象が大分違う。もっと天才然として、気難しい人かと思っていたのだけど。


「はい楽譜。これ、バンドの曲だよね。ボクもたまにライブ観に行くんだ。知り合いにファンのヤツがいてね」


「えっ、そうなんですか? てっきりクラシックしか聴かないのかと……あ、ゴメンなさい、偏見ですよね」


「あはは。まあ確かにクラシックはよく聴くけどね。最近の流行曲も人並みには聴くよ。練習、苦戦してるみたいだし、キミさえ良ければ少し教えてあげようか?」


「ええ!? いいんですか!? それはもうこっちからお願いしたいくらいです!!」


「ボクで良ければ喜んで。今日はもう時間がないから、明日からだね。じゃあまたお昼休みに」


「ありがとうございます! 綾辻先輩!」


「あはは。夕人でいいよ、春奈ちゃん」


 ………思えば、これが最初の間違いだった―――




―2―


>春奈:そんな訳で、明日からレッスンして貰える事になったの!


>雪夜:ほぉ~、そりゃまた随分と大物引っ掛けたな。綾辻夕人と来たか。




 午後の授業中、私は興奮醒めやらぬと言った感じで、雪夜に事態を報告していた。最初は普通に喋っていたのだけど、さっき教師に注意されてしまった為、席は隣同士なのに携帯でのチャットで会話している。私ってば、そんなにテンション高かったのかな……。


>春奈:引っ掛けたんじゃないよ! 偶然会ったんだから! ……あ、さては雪夜ってば嫉妬してるなぁ~?


>雪夜:誰が誰に誰を巡って嫉妬しているのか!


>春奈:そんなの『雪夜が、夕人先輩に、私を巡って』に決まってるでしょ~? やだ、言わせないでよ恥ずかしい!


 ……ふふふ、こんな他愛もないやり取り。これが私の幼い頃からの活力源だ。落ち込んだ時は吹っ切れるし、楽しい時はもっと楽しくなる。

 ……だが次の瞬間


>雪夜:………幸せなヤツ。いつもの事だけど。まあこれで次のライブは安泰だな。


「……ッ!」


 それきり私は、通信を途絶してしまった。……分かっている。雪夜に他意はない。ただ私が上達するのを安心しているだけだ。私の事を嫌いになった訳でも、本当に嫉妬している訳でもない……と思う。

 なのに……それなのに、何だろう、この胸の違和感は? 小さなピンホールが開いたみたい。別に痛みはないのに、ひどく落ち着かない。


「………春奈? 大丈夫か?」


 雪夜が心配そうに直接声を掛けてくる。

 何の濁りもない、本当に綺麗な声……。私は何度この声に救われてきただろう。でも今は、何かフィルターを掛けてるみたいに少しぼやけて聴こえる。うん。それも分かってる。そのフィルターも、私が勝手に作り出したものだって。


「ゴメン。少し疲れたみたい。ちょっと寝るね。時間になったら起こして」


 結局この日、これ以上雪夜の顔を直視する事が出来なかった。




「そのG♯は薬指で押さえた方がいいね。小指で押さえちゃうと次に繋げづらいから」


 翌日から夕人先輩とのレッスンが始まった。

 違和感の原因を探って結局一睡も出来ず、頭はフラフラ、顔はファンデも乗らない位ボロボロだったが、折角あの綾辻夕人がレッスンしてくれるのにダラダラする訳にはいかなかった。それに、気を張っていないとまた余計な事を考えてしまいそうだったから、ひたすら集中してついて行った。


「う~ん……春奈ちゃんは自己流で弾いている期間が長いせいか、少し変な手癖が付いてるみたいだね」


「あ、そうなんですか? 自分じゃよく分からなくて」


「うん。まあそれ程致命的ではないけどね。最初の内は窮屈かもしれないけど、慣れれば楽になるから」


 レッスンを受けてみて思ったんだけど、夕人先輩は教え方が上手い。本来天才肌の人って凡人の感覚が理解出来ないから、人を指導するのには向かないケースが多いんだけど、夕人先輩のレッスンはとても分かりやすい上に応用もしやすく実用的だ。

 ……以前に静流先輩のレッスンを受けた事があったのだけど、あれは散々だった。


『でね、春奈ちゃん。ここはもっと初夏の深緑をイメージしてキラキラ輝かせるように。次のここは、フワフワと宇宙を漂うみたいに。で、最後は黒澤映画に出て来る侍気分でズバッ! とキメれば完璧よ』


 ……先輩、さっぱり分っかんねース。やっぱり天才って特殊な人間なんだろうか?


「ここはこんな感じでコードを繋げるんだ」


「あ……」


 夕人先輩は私の手を取り、コードの押さえ方を指導してくれている。そう言えば、雪夜と父親以外の男性に手を触れられるのは初めてかもしれない。

 ………どうしよう………。私、今凄くドキドキしてる。顔も熱い。多分真っ赤になってるだろう。……もう、何なのよ、この気持ちは? 私が好きなのは雪夜だけの筈なのに……。夕人先輩に伝わっちゃったら、レッスンどころじゃなくなっちゃうじゃない。早く収まりなさいよ!



「おーい、春奈ァ」



「ッ!」


 突然入り口の方から声がする。私はその声に弾かれるようにして立ち上がり、夕人先輩の傍を離れた。

 音楽室に入ってきたのは、雪夜だった。


「……あ、雪夜……ど、どうした……の?」


「練習中悪いんだけど、シンセパート少し変えたから。これ、新しい楽譜な」


「…………………そう」


 雪夜から楽譜を受け取る。雪夜は至っていつも通り。何かを気に咎めている様子はない。片や私は、さっきのドキドキの所為でほんの少し罪悪感のようなものを抱えていた。さっきの、見られなかったよね……?


「やあ、キミ、ボーカルの子だろ? 初めまして、綾辻夕人です」


 夕人先輩はいつの間にか私の隣に居て、いつもの微笑みで雪夜に握手を求めている。


「……はあ、どうも」


 一方の雪夜は、気後れしているのか怪訝な表情で夕人先輩の手を取る。……な、何となく変な空気……?


「………じゃあ、オレは教室に戻るよ」


「え、もう帰っちゃうの……?」


「ああ、邪魔しちゃ悪いしな。お前の上達ぶりはライブのリハまで楽しみに取っておくよ」


 そう言って何処となくいつもよりテンションが低い感じの雪夜は音楽室を出て行った。何か更にフィルターの枚数が増えたみたいだ。夕人先輩の声はハッキリ聴こえるのに……。


「へぇ~、彼があのSGの人気・実力共にナンバーワンボーカリストと名高い水乃森雪夜くんか。確かに地声でもいい声してるね。でも、何か聞いてた話と印象が少し違ったな」


 夕人先輩は小首を傾げる。


「じゃあどんなヤツだって聞いてたんですか?」


「聞いた話だと、もっと明るい感じだって。案外おとなしいみたいだね。……あ、楽譜見せて」


 私は雪夜から受け取った楽譜を、確認もせずに手渡した。

 夕人先輩の聞いた話は正しい。雪夜は本来、あんなに暗くない筈だ。まあ瞬ほどテンション高い訳でもないけど。いくらあの綾辻夕人の前だからって、そんなに気後れするとは思えない。いつもと態度が違う事は明白だ。

 入って来て私と話している時は普通だった。長年雪夜を見て来た私が言うのだから間違いない。そうなると、やはり夕人先輩と接してから態度が変わった事になる。………もしかして本当に嫉妬してくれてたりして……。


「ゴメン春奈ちゃん。練習方法少し変えるよ」


「え……な、何で?」


「これ、春奈ちゃんの手癖に合わせて変えてある。水乃森くんは春奈ちゃんの事よく分かってるみたいだね。……ふふ、ちょっと妬けちゃうなァ」


 ……………胸のピンホールが、一回り広がった気がした―――




―3―


「ゴメン雪夜。今日からお弁当ないの」


「……じゃあ何で2つも弁当箱持ってんだ?」


 チク……


「これは……私と夕人先輩の分。だって夕人先輩、レッスンの為にお昼ご飯食べてる暇がないんだもん。私だって3つは流石に作れないよ」


「……ふ~ん、そっか。それじゃあ仕方ないな。なら久しぶり学食でも行って理央がファンから貰った弁当でも分けてもらうか」


 チクチク……


「…………本当にゴメン」


「いちいち謝らなくていいよ。今までお前に甘えてたのも事実だしな」


 チクチクチク……


 胸のピンホールはどんどん広がって行く。もうピンホールとは呼べないほどに。それと比例するように、雪夜の声に掛かるフィルターの枚数も増えていく。私はどうすればよかったんだろうか?




「春奈ちゃん? 聞いてる?」


「………え? あ! ご、ゴメンなさい」


 夕人先輩に声を掛けられて、私は空虚の彼方から現実へと引き戻される。いけない。集中しなくては。ライブまであと幾日もないのだから。


「本当に大丈夫? 最近根詰めすぎなんじゃない? 顔色も何か優れないみたいだし……」


 夕人先輩は優しい。よく気が利くし、教え方も丁寧だし、私のお弁当だって美味しそうに食べてくれる。私の夕人先輩に対する尊敬の念は、好意のそれへと徐々に変わって行った。……皮肉な事に、それと比例するように胸の穴もまた、広がって行く。


「大丈夫です。ライブまでもう少しなんだから、頑張らなくっちゃ!」


「あはは。根性あるね。……そうだ、ライブが無事に終わったらさ、二人で遊びに行かない? ボク、観たい映画があるんだよね」


「……えっ……?」


「……ボクとじゃ、イヤかな」


 突然の申し出。……えと、これって……デートのお誘い……よね?

 自慢じゃないけど、私はモテる(やっぱり自慢みたい……)。一応、男の人からデートに誘われた事は何度もあるけど、今までは全て断わって来た。それは勿論、雪夜と言う存在が私の傍に居たからに他ならない。雪夜以上に男の人を好きになる事なんて考えられなかった。でも今は……。


「いいですよ。私もお礼がしたかったし。私で良ければ喜んで」


「本当に? よかった、今から楽しみだよ。……と、その前に練習だね。頑張ろう!」


 私はあっさりと返事をしてしまった。殆ど何も考えていない。と言うより、考える事を放棄してしまっている。

 でもまあ、お礼をしたかったのは事実だし、映画観に行くくらいなら問題ないよね。………と、しきりに自己弁護を繰り返していた。言い訳していると言うよりも、自己暗示を掛けているみたいに。


 この時私は、自分が大きな選択ミスをしていた事など気付きもしなかった―――




―4―


「トサカ先輩!」




「だからトサカじゃねェって何十回言えば……ん? お前が昼に事務所に顔出すなんて珍しいな。何かあったか?」


「いきなりで悪いんだけど、調べて欲しい事があるんだ」


「何なんだ藪から棒に。てめェ、それ人に物頼む態度なのか?」


「いいから、お願い!」


「……切羽詰まってるみたいだな。いいぜ、何が知りたい?」


「『綾辻夕人』について」


「綾辻……? それって大学部の有名なヤツの事か? 確か天才ピアニストとかって。そいつが何なんだ?」


「ここ最近昼休みにピアノのレッスンしてるんだ、春奈に」


「……はぁ? お前は娘の彼氏の素行調査を依頼する心の狭い父親か? それとも単なる嫉妬か? 別にピアノレッスンするぐらいいいじゃねェか。お前らもうすぐライブなんだろ?」


「嫉妬じゃない! どうも気になるんだ。特に……アイツの……目が。顔は笑ってるのに、瞳の奥には……何か、酷く冷たい光が見えたような気がして……」


「目………か。お前の勘は案外バカにならねェからな。OK、調べよう」


「……何となく褒められた気がしないんだけど……まあともかく、センキュです」



『voyager RUN』



「……変わったプログラムコマンドですね。『航行者』ですか」


「ふ、お前のショボイ脳みそじゃこいつの凄さは理解出来んだろうよ」


「………ええ、所詮ショボイですよ。そりゃ先輩たちには勝てませんよ。『SGきっての天才コンビ』って有名なくらいだし……でも歌なら誰にも負け……」


「出たぜ」


「早っ! 本当にちゃんと調べたんでしょうね?」


「……お前、俺をナメてるだろ。俺の仕事は情報収集だぞ? この程度はお手の物だ」


「ワー、スゴイナー。で、どうなんですか?」


「……こンのクソガキャ……まあこの借りは後々返して貰うとして……コホン。綾辻夕人20歳。SG大学部の……お? 音楽科じゃなくて医学科? ピアニストじゃねェのか?」


「何か今は本格的には弾いてないみたいですね。あれだけの腕があって勿体無い。まあ関係ないけど」


「後は……そうだな、パッと目に付くのは例の『ウィーン国際入賞』の情報か」


「そう言えばあんまりよく知らないな、その記事。どれどれ。……『世界的権威を誇るウィーン国際ピアノコンクールにて、日本人の綾辻夕人さん16歳(当時)が見事3位入賞を果たす』」


「そのコンクールにおいて、ヤツの演奏テクニックは非常に高く評価されたそうだ。『サイボーグピアニスト』だってよ」


「『サイボーグ』? また珍しい……つーかローセンスなニックネームですね」


「コンクールで審査員を務めた有名な指揮者がコメント書いてるぜ。『彼のテクニックは非常に素晴らしい。ミスも一切無い。その才能は正直、優勝者よりも上だろう。だが、彼のピアノには温かみが無い。まるで機械が弾いているかのようだ。3位と言う成績になったのはそこが原因だ。もっと感情を表現出来れば、更に素晴らしいピアニストになる事だろう』」


「へぇ~そうなんだ。取り敢えず今は関係ないかな」


「お前は何だってそう飽きっぽいんだ……。でもこれってお前が言ってた『冷たい目』の理由にならないか?」


「なりませんよ。春奈はかなり綾辻に心を開いてるみたいです。綾辻の為に弁当作ってる程ですし。いくら有名人とはいえ、感情表現の乏しい出会ったばかりの人間に、春奈があそこまで心を開くとは思えません。まあ多分、春奈の前では猫被ってるんだと思いますけど。だからオレと対面した時にほんの少し本性が垣間見えてしまったんじゃないかと」


「綾辻の為に弁当……。はは~ん、それでお前さっきからイライラしてるのか。ハ、日坂がいねェと結構分かりやすいな」


「い、今は関係ないでしょうが!!」


「はっはっは、照れるな照れるな。それにしても……成程。火咲ほどじゃねェが、日坂の人見知りも筋金入りだからなぁ。俺も最初は苦労したもんだ。人当たりはいいのに、何か壁を感じるんだよな」


「それより他に何か無いんですか? 例えば………犯罪歴とか」


「極端過ぎるわ! 犯罪歴なんかそうそうあってたまるか! ほら見ろ、何にも……ん? 何だコレ?」


「おお、犯罪歴発見ッスか!?」


「いや、犯罪歴は無い。……表向きにはな。ただ……データを改竄した痕跡がある」


「改竄?」


「正確には抹消だな。要するに、犯罪歴……つーか逮捕歴が消されてやがる。パソコンのデータってのは、削除して一見消えたように見えても、実は消えてねェんだ。完全に消去するにはそれなりの手順を踏まねェとダメなんだが、俺の『voyager』はそう言った『消した筈のデータ』も探し出せる優れモンだ。手順を踏んだ完全削除のデータは流石に見つけられねェけどな。このレベルなら当然復元も可能」


「……! じゃあそれ、復元してみて下さい」


「待ってろ。…………………よし、出来た。ええと、『住居不法侵入罪』、『暴行罪』、『迷惑防止条例違反』に『個人情報保護法違反』の容疑が掛けられてるな。……4つとも3年前の同じ時期だ。………この4つの罪状が指し示すものと言えば……」


「やっぱり……何となくそんな気がしたんです。この4つから考えられる綾辻の正体はズバリ『ストーカー』でしょう。……ふっ、オレの勘も案外捨てたもんじゃないな」


「それにしても、何でデータが改竄されてたんだろうな。俺が見てるのは警視庁のデータベースだぞ?」


「……それ、逆探知とか大丈夫なんでしょうね? 突然警官が大量に押し寄せてきたりしたらヤですよ?」


「ああ、その辺は抜かり無いから安心しろ」


「その辺は多分こっちの情報ですよ。日本有数の資産家である綾辻の父親は政財界に強い権力があって、その影響力は警察機構にも及ぶと言う噂があるらしいって記事。もしこれが本当だとしたら、恐らく上層部と掛け合って容疑を隠蔽したんでしょう」


「成程な。最初から警察内部に味方がいれば、どんなに遅くとも刑が確定される前に証拠を隠滅出来るって訳か。一度確定されちまったら隠蔽も何もねェからな。その後は裁判所の管轄だから」


「最初に被害者から通報を受けて綾辻を取り調べたのは、上層部の癒着を知らない末端の警官でしょう。その時点で一度逮捕はされたが、後になってからデータの改竄が成された。まあ改竄したヤツがヘボだったお陰で痕跡が残っていた訳ですが……で、その後事件の処理は当然、癒着を知る警官に切り替わった、と。……これじゃ被害者は泣き寝入りするしかない」


「突然警察が手の平返して、事件を無かった事にしたんだからな。……ヒデェ事するぜ」


「まあ噂が広まらないように裏で山ほど示談金を積んだんでしょうけどね。ニュースにさえなってない所を見ると、マスコミにも手を回した可能性が高い」


「そんなに天才ピアニストを傷物にしたくなかったのかね。やっぱ金持ちによくある親バカ……いや、バカ親の類か?」


「恐らくそんなトコでしょう。詳しく調べればもっと余罪が出てきそうだけど……とにかく、これで綾辻がクロだって事が分かりました。ご協力センキュです、トサカ先輩」


「……おっと。もう一つ重要、つーか最重要かも知れないネタが残ってるぜ。だからトサカじゃねェって何百回言や分かんだっての」


「まだ何かあるんですか? ストーカーだったってだけで十分だと思いますけど」


「それだけじゃ日坂が狙われてる決定的証拠にはならねェだろ。ヤツはもうストーカー業から足を洗ったって可能性もあるんだから」


「可能性はかなり低いですけどね。でもヤツを問い詰めた時に、その手で逃げられてしまうかも知れない訳ですか」


「そう言う事」


「じゃあ何ですか? そのネタって」




「綾辻は、日坂の私設ファンクラブ『スプリングコミュニティ』の現会長だ」




「……! 何処かのファンクラブにでも入ってるんじゃないかとは薄々思ってましたけど、よりによって『春コミ』ですか……。しかも会長って……」


「『春コミ』は特に粘着質の強いファンが多いからな。しかもまだ発足半年ぐらいなのにも関わらず、既に最大派閥にまで成長しつつある。更に例の『SGの落日』を引き起こした連中でもある訳だ」


「そんなの今更言われなくても知ってますよ。誰に説明してるんですか?」


「や、読者? このパートは地の文ねェから、ちゃんと説明台詞付けとかねェとな」


「……何言ってんだかさっぱり分かりませんが……確か会長は『カリスマ性を持った謎の人物』って言われてたんですよね。会員でもその正体を知るものは少ないとか。……まさかそれが綾辻だったなんて……」


「お前だってしっかり説明台詞入れてんじゃねェかよ」


「う……。そ、それにしても、そんな情報よく手に入りましたね」


「ふふん、俺の『voyager』は公開データは勿論、非公開データや噂話に至るまで収集可能だ。SC内なら特に力を発揮する。……おお、そうだ。保険部に行ってSG全女生徒の身体測定データでも持って来てやろうか?」


「……そんな事に加担したなんてバレたら春奈と静流先輩に殺されますよ」


「……男のロマンが分からんのか、お前は」


「いや、分かりますけどね。時と場合に拠るでしょう。今は殺されてる場合じゃなくて」


「そうだな。綾辻は明らかにヤバい。早く何とかした方が良さそうだぜ。だが日坂本人に取り入ってるぐらいだからな、相当に狡猾なネズミと見た方がいい。本人を問い詰めてもそうそう尻尾を出すとは思えん」


「春奈は人見知りが激しいくせに、一度それを乗り越えると盲目的に信用するからな。質が悪い。…………でもオレが何とかするしかないな―――」




―5―


「春奈、ちょっと」




 ライブを明日に控えたお昼休み。いつものようにお弁当を手にして音楽室へ向かおうとしていた私は、唐突に雪夜から声を掛けられた。


 日に日にレッスンが楽しくなって行く。勿論、上達して行くのが嬉しいからではあるのだけど、それだけじゃなくどうやら私、夕人先輩に会うのが楽しみになっているようだ。私の中で夕人先輩の存在が、日に日に大きくなって行くのが分かる。そう、私は恋をしている。これはもう認めるしかない事実だ。

 ……それなのに、心の穴は留まる事無く広がり続けている。私自身、その虚無感の原因は何となく分かっているんだ。分かってはいるんだけど……。


「……………何?」


 私は意図せず冷たい声を出してしまう。心と体が乖離しているみたい……。そもそも雪夜に冷たく当たる理由が、自分でも分からない。

 雪夜は私の声に一瞬たじろいだものの、すぐに気を取り直したように私の手を取り、教室の外へ引っ張って行く。


「痛いよ! 引っ張らないで!」


「いいから、ちょっと来いって」




 雪夜に連れて来られたのは、普段全く人通りの無い非常階段の踊り場。屋上に上がれない雨の日にはよくここでお弁当を食べたものだ。……雪夜とお弁当を囲んでいた日々が、随分懐かしく思う。まだほんの一週間ぐらいしか経っていないのに……。


「何なの? ライブは明日なんだから、練習しなくちゃいけないんだけど」


「………」


 また知らず知らずの内に声が冷たくなっていた。片や雪夜は何か言い淀んでいる。……そう言えばこの一週間、まともに雪夜と会話していない。席は隣同士、放課後はSSSで一緒に仕事しているにも関わらずだ。

 短い沈黙の後、意を決したように雪夜が私に言った。


「今からでも遅くないから、もうレッスンには行くな」


「……どうして? 雪夜も理央も、私が上達するのは嬉しいはずでしょ? 私は二人の足引っ張ってばかりなんだから」


「そう言う意味じゃない。あいつは……綾辻は危険なんだ」


 雪夜の言っている意味が分からなかった。夕人先輩が危険……?


「な、何言ってるの………?」




「綾辻はストーカーなんだ。お前に近づいたのも偶然なんかじゃない。このまま会い続けるのは危ない」




 信じられなかった。信じたくなかった。あの優しい夕人先輩がストーカー……?

 だが、昔から雪夜の言う事に間違いはなかったと頭の何処かでは分かっていた。だからと言って今の私にはそんなの事実として受け入れる事は出来ない。夕人先輩が好きだと認めてしまったのだから。


「……そんな事ある訳ないでしょ。あんなに優しいストーカーが何処にいるってのよ。笑えない冗談はやめてよ」


「冗談なんかじゃない! しかもあいつは『春コミ』の会長なんだぞ!」


「だからそれが笑えないって言ってるの! 大体、私と雪夜は別に付き合ってる訳じゃないんだから、私が誰と仲良くなろうが勝手でしょ!」


「た、確かに……」


「あっさり納得しないでよ!」


「何なんだそりゃ! 支離滅裂だぞ!」


 そんなの……私が一番分かってる。もう自分で何言ってるのか訳分かんない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。今まで何においても信用していた雪夜の言葉を、私は真っ向から否定している。雪夜の声は、もう全く別人のもののようにフィルターの数を増していた。


「いいから言う事聞けって!」


「きゃッ! ………あ」


ガシャン!


 私の肩を掴んだ雪夜の手を振り払おうと身を捩った瞬間、手にしていたお弁当箱の片方が落ちた。事もあろうに蓋が緩んでいたらしく、無残にも中身がこぼれてしまって、箱を包んでいた巾着袋にシミまで作っている。


「………あ、ご、ゴメ―――」


パァン!


 謝ろうとした雪夜の頬を、私は考えるよりも早く平手打ちしていた。ビックリした表情で私を見る雪夜を、私は涙が溢れる瞳で睨み付ける。……ダメだ。私、もう引き返せない所まで来てしまったみたい。


「雪夜の………バカ……」


 擦れ切って殆ど聞き取れない声でそう言うと、私はその場から走り去った。


 何処をどう走ったのか分からない。気が付くと、音楽室に飛び込んでいた。ピアノに座ってショパンの『幻想即興曲』を半端じゃなく速いテンポで弾いていた夕人先輩が、私に気付くと手を休めて歩み寄って来る。


「遅かったね、春奈ちゃん。……ん? どうかした?」


 いつものように柔和な微笑みを向ける夕人先輩。その微笑みを見て、私は再び泣いてしまった。……この笑顔は偽りじゃないと信じる心。それは私の、勝手な思い込みに過ぎないのだろうか……?

 私は顔を下げたままゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……夕人先輩は……夕人先輩は、本当に夕人先輩ですか? 私の事を裏切ったりしませんか? 私は夕人先輩を……信じていいんですか………?」


 夕人先輩が優しく肩を抱く。


「あはは。春奈ちゃんは変な事を訊くなぁ。当たり前じゃないか。ボクを信じて。大丈夫」



 ………そう言った夕人先輩の目には、明らかな狂気の光が宿っていた事に、私は気付かなかった―――




「おい水乃森。日坂はどうした?」


「……さっき、具合が悪いから保健室へ行くって言ってましたけど……。何でオレに訊くんスか?」


「何でったって、お前と日坂が付き合ってるのは公然の事実だろ? それにしても、日坂がサボリなんて珍しいな。まあ日坂は出席率足りてるから問題ないか。よし、授業始めるぞ」


「……………公然の事実………か………。あのバカ春奈―――――」




―5.5―




 ――あの日、ボクは天使と出逢った――




 ボク・綾辻夕人は何でも手に入った。

 ボクが戯れに『これが欲しい』と言うだけで、それがどんなに突拍子の無いものでも即座に誰かが用意してくれた。

 それが当たり前だった家庭環境の中で、ボクは育って来た。

 昔は、そんな家庭環境が嫌いだった。……嫌味に聞こえるかも知れないが。

 父さんは金儲けしか頭に無い人だったし、母さんは必要以上に過保護だった。綾辻での生活は、ボクを堕落させるだけだと、幼心に何となく気付いていたのかも知れない。


 そんな時に、ピアノと出会った。


 ピアノと向き会っている時だけが、ボクの至福の時だった。

 どうやらボクには、人並み以上の才能が有ったようで、難曲と呼ばれるものでもちょっと練習するだけですぐに弾けるようになっていった。

 そう、この頃までは、心から楽しんでピアノを弾いていたんだ。


 それは4年前のある日、父さんがウィーン国際に出場してみないかと言って来た日の晩の事だ。

 今までピアノに無関心だった父さんが、ようやくボクのピアノに関心を持ってくれたのかと、小躍りするほど嬉しかった。……がしかし、父さんの書斎の前を通り掛った時に、偶然聞いてしまった。



『夕人のピアノは金になるぞ!』



 その言葉を聞いた瞬間、ボクの心の中で、何かが音を立てて崩れ去って行った。

 所詮ボクの存在価値なんてそんなものだ。綾辻の手の上で転がされていただけ。本質も見抜けない間抜けなピエロ。それがボク、綾辻夕人だ。

 どれだけ懸命にピアノを弾いたところで、それを利用されるだけだと分かってしまったら全てが無駄に思えてきた。

 だが、ボクは弱い人間だ。綾辻から逃げ出す事もピアノを辞める事も出来ない。結局は流され続ける運命だ。


 コンクール本番では、何の感情も感慨も持たず、機械の様にピアノを弾いた。

 結果は3位。本気で弾いていたなら恐らく優勝出来ただろうが、ボクはこの結果が満足だった。優勝してしまえば父さんの期待やボクの価値に拍車が掛かってしまうし、初出場で3位なら立派なものだと周囲を納得させる事も出来たから。


 それから数ヶ月後、ボクの心にぽっかりと穴が空いた虚無感を拭い去れぬまま自堕落に過ごしていたある日。ボクは唐突に恋に堕ちた。

 相手は当時通っていた高校の同級生だった。今まではピアノ一直線だった事もあり、女の子にはあまり興味がなかったのだが、空っぽのボクの心には、彼女の優しさがダイレクトに響いた。

彼女は誰にでも分け隔てなく優しかった。無論、有名人となってしまって周りから何となく敬遠されていたボクにも。

 ボクは日に日に膨れ上がる気持ちを抑えきれなくなっていた。

 彼女が欲しい。彼女の全てを知りたい。彼女が他の男と喋っている所を見ただけで、全身の血が沸き立つようだった。

 ふと気付いたら、ボクは彼女の後を追っていた。彼女の姿を盗撮していた。彼女の家に無言電話を掛けるようになっていた。彼女を欲しがる衝動を満たすように、毎日毎日繰り返していた。

 そんな事を二ヶ月程も続けたある日の夜、ボクの欲求は最大級の爆発を起こした。遂にボクは彼女をものにする為、彼女の家へ侵入した。そう、この瞬間、ボクの『ストーカー』としての本性が完全に覚醒してしまったのだ。

 毎日観察していたから、彼女が親元を離れて一人暮らししている事も、鍵の掛かっていない窓がある事も知っている。進入はあっけなく成功した。


 ……そこから先の事はよく覚えていない。気が付いた時には、大柄な警官に取り押さえられていて、傍らには着衣の乱れた彼女が、恐怖の色を濃く滲ませた瞳でボクを見ていた。

 とんでもない事をしてしまったと言う自覚はあった。ボクの人生はこれで終わったと思った。しかし随分とあっさり釈放された後、いつまで経っても起訴される気配がない。


『夕人ちゃんは何も心配しなくていいのよ。ママが必ず守ってあげるからね』


 逮捕された夜、母さんがボクに言った言葉を思い出した。成程、あれはこう言う意味だったのか。昔のボクならここで反発して、綾辻の家から出て行ったかも知れない。だが今のボクはその逆。母さんに感謝の念すら覚えていた。

 彼女はその後、別の土地に移転して行った。これも母さんの手引きだったらしい。


 ……どうやらボクは本気で壊れてしまったみたいだ。その後もターゲットを変えて2、3回同じ事を繰り返したが、次からは逮捕される事すらなかった。

 だが噂というものはいくら隠しても、どこからか広まってしまうものだ。警察やマスコミこそ動かなかったものの、ボクの正体に気付き始める者が出てきた。

 噂が広まってしまう事を危惧した母さんは、ボクに海外留学を薦めてきたが、もう本格的にピアノに向かう気がなかったボクは、自分で探してきた高校に編入する事を決めた。


 その高校とは………『私立猿渡学園』。


 創設3年目、生徒の大半が寮生活、しかも人里離れた辺境の地にある学校なら、ボクの事を知る者はまずいないだろう。

 そうして、ボクはSGの生徒となった。ボクの予想通り、『ピアニスト』としての綾辻夕人は知っていても、『ストーカー』としての綾辻夕人を知る者はいなかった。

 だが一つだけ問題があった。閉塞されたこのSGでは、綾辻の力が及ばない。ストーキングは自重するしかなかった。ターゲットになりそうな女の子を見かけても、がむしゃらにピアノを弾いたりしてどうにか衝動を押さえつけた。そんな時に弾く曲は、決まって『幻想即興曲』だ。


 激しい衝動に、今から半年ほど前まで耐えてきたある冬の日、ボクは天使と出会った。


 友人に誘われて何となく付いて行ったライブハウス。そのステージ上で、彼女はキーボードを弾いていた。

 彼女の名前は『日坂春奈』と言うらしい。とても長くて綺麗な髪、端整な顔立ち、クリクリとした大きな瞳、そして透き通るように白い肌が印象的。でもそれ以上にボクの心を惹いたのは、演奏を間違った時に少し舌を出す癖が、とても可愛らしかった事だ。

 ボクは一目で恋に堕ちていた。同時に、今まで必死に押さえつけてきた衝動が、心の堰を決壊させた。


 それからボクは、無駄に多くて持て余していた実家からの仕送りを資金源に、正体を隠して彼女のファンクラブ『スプリングコミュニティ(春コミ)』を設立した。

 その時既にいくつかのファンクラブが存在していたのだが、豊富な資金を有する『春コミ』に比べれば弱小もいい所だった。『春コミ』はそいつらを吸収しつつ順調に勢力を伸ばしていった。途中、末端のメンバーが『SGの落日』とか言う事件を起こしたりもしたが、正体を隠していたボクには何の影響も無く乗り切れた。


 この半年で彼女の性格、嗜好、交友関係など、ありとあらゆるデータが集まった。予てから計画して来た作戦を実行する時が来たのだ。

 それは、あの最大の障害である『水乃森雪夜』と離れるライブ前の練習時間に、レッスンと称して彼女自身に接触する事。演奏に難があり、その事にコンプレックスと危機感を感じている彼女なら、ボクの申し出は断らない筈だ。


 作戦は思いのほか順調に推移し、今彼女はボクの腕の中にいる。


 ふふふ、もう少しだ。もう少しで彼女は完全にボクのものになる。彼女はボクが今まで出会った女の子の中でダントツだ。今までに無い程気分が高揚している。しかし、事を確実に運ぶ為だ。もう少しの間だけ、自分を抑えなければ。


 ふふ、ふふふふふふ、ふふふふふふふふふふ…………。ははは、はははははは、ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは……………!!




―6― 


「ふう………」




 ライブ当日。今は他のバンドが出演中なので、控え室で一息ついている所だ。

 やっぱり夕人先輩のレッスンは凄い。リハーサルではただの一度もミスをしなかった。普段なら一曲に一回くらいミスがあるんだけど。……それは流石にどーなの? 以前の私。

 マイメロはその人気の高さから、いつもトリを飾る。他のバンドに比べても曲数が多い。だから今までは二人の足を引っ張らないか心配で心配で、本番までのこの時間は、不安に押し潰されそうだったけど、今日は凄くリラックス出来ている。


「今日やたらと調子いいな。何か悟ったのか、春奈?」


「べ、別に悟った訳じゃないけど。ちょっと腕のいい師匠に出会っただけだよ♪」


 そんな他愛も無い会話をしている。……理央と。昨日のあれから、雪夜とは一言も口を聞いていない。別にもう怒ってる訳じゃないんだけど、何となく、声を掛けづらい。雪夜は今、衣装の確認や発声練習をしたりしている。


 暫くして、理央はトイレに行くとか言って控え室を出て行った。意図せず雪夜と二人きりになってしまう。……き、気まずいかも。


「春奈」


 突然雪夜が声を掛けて来た。


「な、何?」


 私は少しビックリして、上擦った声で返事をする。……ヤバ、何かドキドキしてきちゃった……。


「あの……昨日は悪かったな。ちょっと一方的過ぎた」


 そんな事……雪夜が謝る事じゃない。雪夜は私の為を思って言ってくれたんだから。それは分かってるんだけど……。


「別に……気にしてないよ」


 ……どうしても雪夜に対して素直になれない。以前は世界中の誰よりも素直に接せられた相手だったのに。……まだ支離滅裂なのは治ってないみたい。


「これ……昨日壊しちゃったみたいだから。じゃあ、本番頑張ろうぜ」


 言葉少なにそう言って、雪夜は紙袋を部屋の中央にあるテーブルに置いて控え室を出て行った。中身を確認してみると……新しいお弁当箱が入っていた。

 昨日の放課後に、こぼれたお弁当を片付けようと非常階段を覗いたが、もう綺麗に片付けられた後だった。その時はあまり気にしていなかったが、あれはどうやら雪夜が片付けてくれたみたい。

 ……ほんの一筋だけど、涙が頬を伝った。雪夜は私の事を心配してくれているのに、私は彼に何をしてあげられたのだろう。……ううん、違う。私は雪夜ではなく夕人先輩を選んだんだ。例え全てのフラグメントがその事を間違いだと指し示しても、私はもう戻れない所まで来てしまったのだから。


「お~い春奈ァ。出番だぞ」


 理央が大声で私を呼んでいる。私は涙を拭って、一つ深呼吸。鏡でメイクが崩れていない事を確認し、ステージに上がった―――






「雪夜」


「……理央……か」


「春奈のヤツ、突然どうしたんだ? 確かに上手くなってミスもなくなったし、ライブは大成功だったけどな。あれじゃあまるで……」


「ああ、あれじゃあまるで、シンセの自動演奏だ。全然感情が篭ってない」


「あの演奏じゃ、正直なトコ春奈は必要ねェんだよな。シーケンサー使ってるのと同じだから」


「例の『腕のいい師匠』ってヤツだよ、原因は。春奈の味である『間違っても楽しそうに弾く』部分を排除したみたいだ。……春奈の意思とは関係なく」


「何者だ、そいつ?」


「大学部の綾辻夕人。取り敢えずそっちはオレに任せろ。何とかするから。……大丈夫。ストーカーなんかに春奈は渡さない―――」




―7―


「う~ん、迷うなぁ」




 今日は夕人先輩とお出かけの日。クローゼットの中の洋服を全て引っ張り出し、姿見の前で唸っている、恋する乙女が一人。うん、私の事。

 大人っぽいパンツ系もいいけど、可愛いワンピもいいなぁ……。夕人先輩はどんなのが好みなんだろう? ……ヤバ、私かなり浮かれてるかも……? そう言えば、雪夜以外の人とデート、って言うか雪夜とのデートは果たしてデートと呼べるシロモノなのか分からないから、正式なデートって実は初めてかもしれない。女の子ならテンション上がるのも必然だろう。………って、何言ってるの? ただ映画を見に行くだけでしょ? 決してデートじゃないよ? ……うん、我ながら苦しい言い訳だ。

 悩む事3時間。苦心の末、シンプルなローライズデニムとキャミソールの組み合わせに決め、早速メイクに取り掛かる。簡単なベースメイクに、軽くブラウン系のアイラインを引き、睫毛をカールする。ルージュも薄めのピンクをチョイスして出来上がり。ま、いつも通りって感じかな。あんまり濃くしちゃうと、逆に悪印象を与えかねない。そこまで計算してるなんて、私ってば気合入れすぎ? でもこれって、体験談だし。以前に雪夜と出掛けた時、やたらと気合入れてメイクして行ったら、逆に引かれた。


『メイク濃すぎッ! キモッ!』


 ……って、流石にそれは酷くない?




 SCの有名な待ち合わせ場所、ノースアベニューにある『時間の塔』の前に到着。時間は5分前。うん、バッチリ。天気もいい。最高のデート日和。……だからデートじゃないってば、私。

 待つ事5分。夕人先輩はきっかり時間通りにやって来た。


「おはよう春奈ちゃん。ゴメン、待たせちゃったかな」


「いえ、時間ピッタリですよ。おはようございます。……それにしても、暑くないんですか?」


 夏休み間近のこの季節だと言うのに、夕人先輩はTシャツの上に黒の長袖シャツを着ている。何か見るからに暑そうだけど……。


「ゴメンね、暑苦しくて。ちょっと肌が弱くてね。日焼け出来ないんだ。だから外を出歩く時だけ長袖を着るんだよ」


「あ、そうだったんですか。じゃあこの時期辛いでしょう?」


「そうなんだよね。夏なんか無くなっちゃえばいいのに」


「ふふ……そんな訳には行かないでしょ。でも私もあんまり日焼けはしたくないかなぁ。……あ、今度いい日焼け止め教えてあげましょうか?」


「いいね、助かるよ。……おっと、そろそろ時間だ。行こうか、春奈ちゃん」


 私達は肩を並べて、カップルさながらに歩き出した―――




「………全く、せっかくの休みだってのに、何でオレがこんな事しなくちゃいけないんだ。これじゃオレの方がストーカーみたいだぞ? ………いかんいかん。愚痴ってる場合じゃない」


「……それはいいんですけど……何でこの場に私まで駆り出されているんでしょうか……? 一応まだ残務処理があったりするんですけど……」


「ふっ、分かってないな碧。カップル……っていうのは何となく癪に障るが、カップルの尾行は男女ペアでやるのが鉄則だ。カップル限定の店とかカップルデーの映画館とか入られたら一人だと追えなくなるだろ。……何かカップルカップル連呼すんのは非常にうぜえんだけど」


「……へえ、そういうものなんですか」


「……まあこの辺は静流先輩の受け売りだけどな」


「えっと……なら私じゃなくて金音先輩とやればいいのでは……? こういうのに慣れてない私だと何かヘマするかも知れないですし……」


「う〜ん……それも考えたんだけどな。あの人何だかんだで目立つし。本人気付いてないかも知れないけど、あんまり尾行とか向かなそうな気が」


「……その点地味な私なら、尾行がバレる事もないって訳ですね……。わ、私だって……好き好んでこんなに暗い訳じゃ………ブツブツ……」


「……お~い、戻って来い碧〜……」


「で、でもこれって尾行とは言え……デ……デ、デート……だよね? あぅぅ……ど……どうしよう……私、男の人とデートなんてした事ないよぉ……。……でもどうせなら……つ………先輩の方が……良かった、かも……なんて。………ブツブツ……」


「碧~……。あいつら行っちゃったから動いてくれ~……。頼むよ〜……」




―8―


「ええ!? 先輩が観たい映画って、これの事だったんですか!?」


「うん。こう見えて実はアニメ好きだったりするんだ。イヤかな」




 私はイーストアベニューにある映画館『シネマリオン』の前で大声を上げていた。

 夕人先輩が観たがっていた映画は『Loving All Under The Blue Moon -blood type:Z-』という作品で、大ヒットした伝奇バトル恋愛小説をアニメーション映画化したものだ。普通の男子高校生の『淳之介(じゅんのすけ)』と新体操のホープとして注目されている女子高生『美彩(みさ)』のカップルが巻き込まれた事件を描いた作品で、ラブコメあり吸血鬼とのバトルあり、『青月』の愛称で親しまれているベストセラー小説。実は私、原作のファンだったりするのよね。


「いえ、私もこれ観たかったんです!」


「へぇ、意外だね。女の子ってあんまりこういうの観ないのかと思ってたけど」


「以前に雪夜から原作を貸してもらった事があって、それ以来ファンになっちゃったんですよ!」


「……………」


「えっと……夕人先輩……?」


「そうなんだ。実はボクも原作のファンでね。そろそろ上映時間だ。行こうか」


 ………? 何だろう、今の間は……。私、何か変な事言ったかな……?






「あ~、面白かった! 今度もう一回観に行こっと」


「喜んでくれたみたいでよかった。誘った甲斐があったよ」


 映画を観終わった私達は、映画館の近くにある喫茶店で一休みしていた。休日で、更にもうすぐお昼と言う事もあり、店内はかなりの賑わいを見せている。その大半がカップルみたい。……私達も周りから見たら、カップルに見えるんだろうなぁ。

 それにしても、映画、本当に面白かった。淳之介くんと美彩のラブラブ具合は何故だか少しイラッとするけど……美彩は才能もあって可愛いし。私もああ言う可愛い女の子になりたいな。主人公の淳之介くんは……ちょっと雪夜に通ずるものがあるかも。普段パッとしないのは違うけど……いざという時は途端にカッコよくなったり、何だかんだ言って美彩のペースに流されてる所とか。作者が同じだから当たり前……って何言ってるんだろ、私……?


「ハックション!」


 ………ん? 今のクシャミ、何となく雪夜のクシャミに似てたような……? って、そんな訳ないよね。雪夜は今日、新曲作りで一日中部屋に籠もってるって言ってたし。




「水乃森先輩、夏風邪ですか……?」


「……いや、そんな筈はないと……???」




 二人で映画の話をしていると、夕人先輩が嬉しい申し出をしてくれた。


「春奈ちゃん、午後から暇? どうせなら少し遊びに行こうか」


「勿論いいですよ。行きましょう!」


 私達はそのまま昼食を摂り、真夏のSCへと繰り出した―――




―9―


「あ~楽しいっ!」




 一通り遊び終わって、日も傾いて来た頃。何となくそろそろ寮に帰ろうかと言う雰囲気になって来た。

 ボウリングにカラオケ、ゲームセンター……。こりゃ完全完璧にデートだ。いい加減認めないのは見苦しいを通り越して滑稽だろう。……最初から滑稽だったって突っ込みは華麗にスルー。


「元気だなぁ、春奈ちゃん。付いて行くので精一杯だったよ」


「せっかくの休日ですからね。でもこんなに遊んだの、春に雪夜と遊びに行って以来だったかな?」


「…………」


 ……あれ? 夕人先輩のリアクションがない。さっきまで普通だったのに。先輩は下を向いたままだ。


「夕人先輩? どうかしましたか? あっ、もしかして雪夜に嫉妬してるんですか~? 大丈夫ですよ、雪夜はただの幼馴染で……」




「………ゴメン、春奈ちゃん。その名前は口にしないでもらえるかな」




 そう言って夕人先輩は顔を上げる。その瞳には……明らかにいつもの優しい瞳とは違う、何か危険な光が宿っていた。夕暮れの光と影が交差する瞬間。茜色の闇に反射して、えも言われぬ輝きを放つ夕人先輩の瞳。時は奇しくも人を惑わす禍や魔が潜む、所謂『逢魔が時』と呼ばれる時間帯だった。

 唐突に忘れていた筈の雪夜の言葉が脳裏を掠める。


『綾辻はストーカーなんだ』


 ………まさか……本当に………?

 その時。


ドン!


 逆方向から歩いて来たちょっと太った男の人が、夕人先輩にぶつかった。両手に荷物を抱えていて、ふとした拍子によろけてしまったのだろう。


「あ、ゴメンなさい」


 その人は言葉少なにそう言うと、さっさと歩き去ろうとする。


「……おい、ちょっと待てよ……。人にぶつかっといてたったそれだけか……?」


 夕人先輩はその人の肩を掴んで呼び止めた。……ゆ、夕人先輩?




「ゴメンで済んだら警察いらねェんだよォーーーーーーー! 分かってんのかこのブタがァーーーーーーーーーーーー!!」




 夕人先輩は奇声を上げながら、その人の顔面を殴りつけた。


「ひぃぃぃぃぃーーーーー!?」


「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」


 何度も、何度も、何度も何度も殴りつける。笑いながら。もう相手の顔は元の顔が分からない程ボコボコの血塗れだ。私はその光景を見て固まってしまった。足がすくんで動けない。助けを呼ぶ事も、止めに入る事も出来ない。

 ……ふと、地面に落ちている小冊子を見つけた。どうやら夕人先輩がポケットから落としたものらしい。何となく気になって、私はそれを拾い上げ、恐る恐るページを開く。


「………これ、……私………?」


 小冊子はフォトアルバムだった。中にはギッシリと写真が収められている。その全てが……私の写真だった。しかもカメラ目線のものは一枚も無い。更に、一緒に写ってると思われる雪夜の顔は、全てマジックか何かで塗り潰されていた。


「見たね?」


「ッ!」


 写真に気を取られていたら、夕人先輩が背後に回り込んでいた。そして私の口元にハンカチを押し付ける。ハンカチには何か薬品が染み込ませてあったようで、私の意識はあっという間に闇の深淵へと沈んで行った――――




 遡る事数分前――――


「結局ただのデートみたいですね……」


「そうだな。でも気付いたか、碧?」


「……え? 何を……ですか……?」


「綾辻。春奈がオレの名前を口にする度に声がちょっとずつ翳って行ってるんだ。この分じゃあと2~3回で限界って所だったと思うんだけど……」


「……そんな事まで分かるんですか……。凄いですね……。金音先輩みたいです……」


「まーな。あの人と一緒に仕事してればこれくらいは……って碧、携帯鳴ってるぞ?」


「あ……すみません、ちょっと失礼します。……はい、もしもし。金音先輩……?」


「尾行中に着信音を切らない探偵がここに……。う~む、それは流石にどうだろう?」


「………分かりました、今から戻ります。はい、今はサウスアベニューなので少し時間掛かるかも知れませんが……。では……」


「事務所からか。何かあったのか?」


「詳しい事までは聞きませんでしたけど、ちょっと木ノ下さんがトラブルを起こしたらしいです……。すぐに帰って来てくれって言われちゃいました……。すみませんが、私は事務所に戻りますね」


「………また瞬か。ん? トサカ先輩と理央は?」


「……何か調べものがあるとか言って、二人で出て行きましたよ? ……日坂先輩を心配しているのは、水乃森先輩だけじゃないって事なんじゃないでしょうか……。……ゴメンなさい、差し出がましいですね……。ちょっと喋り過ぎました……。それじゃ、私はこれで失礼します。頑張って下さい……」


「………はいよ。さてと、ここからは一人か……って、春奈達がいない!?」



「ひぃぃぃぃぃーーーーー!?」


「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」


「あっちか!?」




「ううう………」


「おい、大丈夫か!? 何があった!? うわッ! 血塗れじゃないか!」


「………長袖着た男が、突然殴りかかって来て………ちょっとぶつかっただけなのに………」


「……! その男と一緒にいた女の子はどうした!?」


「男に抱きかかえられて……気を失ってるみたいだったけど……」


「どっちに行ったか分かるか!?」


「多分……方向からして……大学病院の方だと………」


「大学病院だな! センキュ! あの野郎、ストーカーの分際でオレの春奈に手ェ出したらただじゃおかねェぞ! 覚悟しやがれ綾辻ィィィーーーーーーー!!」


「………あの、僕はこのまま放置ですか………?」




―10―


「………………」




 意識が覚醒する。うっすらと開いた目に飛び込んできたのは、奇妙な柄の天井だった。……違う。柄じゃない。天井一面に写真が貼られているんだ。それも全て、さっきアルバムに貼ってあったものと同じく、カメラ目線ではない私の写真。同様に雪夜の顔が塗り潰されている写真。それが天井どころか部屋の壁の至る所に隙間無く貼られていた。

 私は、そんな気が狂いそうになる部屋の真ん中に置かれたベッドに寝かされていて、両手を頭の上の格子に縛りつけられていた。足の方も同様に固定されていて動かない。取り敢えずもがいてみるけど、当然のように外れなかった。


「起きたんだね、ボクの天使」


 気付かなかったけど、夕人先輩……いや、綾辻は私の傍らにいた。どうやらずっと私の様子を窺っていたらしい。


「……本当にストーカーなんですね。私を騙してたんですか?」


「あはは。騙してたなんて心外だなぁ。ピアノレッスンに関しては出鱈目に教えた訳じゃないし、それにキミが勝手にボクの事を信用したんだろ?」


 確かにその通りだったから、私は何も言えなくなった。

 ……こんなヤツに、私は惹かれてしまったんだ。ちょっと優しくされただけで、信用してしまったんだ。何より、大切な雪夜を傷つけてまで、こんなヤツを選んでしまった。その事がとにかく腹立たしかった。

 綾辻の瞳を覗く。完全に狂気の色に染まっていて、最早あの『優しい夕人先輩』は欠片も存在しない。と言うよりも、完全に本性を現したって感じだ。あっちは演技だったんだろう。そんな事も見破れなかったなんて……。雪夜はファーストコンタクトで見破ってたのに。


「ここは……どこ?」


「あれ、余裕だね。今までの女の子は皆、泣き叫んで助けを呼んでいたのに。SGに来てからはキミが初めてのターゲットだけどね。まあいいや。ここはね、春奈ちゃん。大学病院の今は使われていない病室さ。どうだい、いい部屋だろう。因みに隔離病棟だから、叫んでも助けは来ないよ」


 ……常習犯か。もう綾辻に『春奈ちゃん』と呼ばれるだけで吐き気がする。ほんの少し前までは心地良く響いていた筈なのに。


「何でそんなに余裕なんだい? まさかもう諦めて大人しくボクのものになる決心がついたのかな?」


「そんな訳ないでしょう。私がアンタのものになる? ハッ、冗談じゃない。そんなの死んでもお断り。だって、私は雪夜のものだもん」


 ………うん。雪夜の名前を口にすると、自然に落ち着く自分がいる。同時に勇気も貰える気がした。


「…………そ、そ、その名前は口にするなと、い、い、い、言った筈だ………」


「何度でも言ってあげる。私は雪夜が好きなの。アンタの100倍、ううん、100万倍でも足りないくらいね。アンタなんか雪夜の足元にも及ばない。だって雪夜は……」


「うわぁぁぁーーーー!! やめろぉぉぉぉーーーーーーーー!!」


バシッ!


 したたかな音を立てたのは、私の頬。綾辻に平手で殴られたのだ。口の中に血の味が広がる。少しだけ口の中を切ってしまったようだ。


「……サイテーだね。こんな手段でしか女を愛せないなんて」


「はあ、はあ、はあ、つ、つ、強がった所でお前には、何も、何も出来、出来ない。はあ、はあ、お、お、おま、お前、お前、お前、お前は、ボ、ボ、ボボ、ボク、ボクのものに、な、な、なる、しかないんだよ!!!」


ビリッ!!


 私に覆い被さって来た綾辻が、キャミソールを引き裂いた!


「いやぁぁぁぁーーーーーーーー!!」


「そうだよ! 泣け! 喚け! それでこそボクの天使だ! あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」


「雪夜、雪夜、雪夜! 助けて雪夜ぁーーーーー!!」


「助けを呼んだって来ねェっつっただろ!!」


 絶体絶命! こんなヤツにこんな事されるくらいなら舌を噛み切って死んだ方がマシ! 本気でそう思った、その刹那―――


 


「おりゃあぁぁぁーーーーーーー!!」




 裂帛の気合とともに、入り口ドアが弾け飛ぶように開け放たれる。同時に一陣の影が部屋になだれ込んで来た。



 その影は私が散々助けを呼んでいた、水乃森雪夜、その人だった。



「雪夜!!」


「うわッ! 覚悟はしてたけど何だこの趣味の悪い部屋は!?」


「ど、どうしてここが……」


「フン、そんな細かい事はどうでもいいだろ。……さてと、お楽しみ中の所申し訳ないが、春奈を返してもらうよ、サイボーグピアニストさん」


「……う、うわぁぁぁーーーー!」


 綾辻は雪夜に殴りかかって行った。……が、雪夜は体を翻すとあっさりとそれをいなして、綾辻を床に組み伏せてしまった。綾辻の両腕を固めながら雪夜が言う。


「悪いね。オレ昔、『春奈の事守ってやる』って宣言しちゃったんだ。だから、春奈がピンチの時は駆けつけてやんなきゃいけない訳。……はあ、我ながら面倒くさい約束しちゃったよなぁ……」


 ………あ………。




『はるなはおれがまもってやるからな!』




 そっかぁ………。私が忘れてたのって、この台詞だったんだ……。雪夜の声に掛かっていたフィルターも、心の穴も、今まで悪い夢を見ていたように消えていった。やっぱり私に足りなかったものって『雪夜』だったんだぁ……。何でこんな当たり前の事に気付かなかったんだろう……。ホント、バカだ、私……。


 バカ過ぎて………涙が止まらないよ―――




―11―


「雪夜ぁ…………恥ずかしいよぅ……」


「何だよ、普段はそっちからベタベタくっ付いて来るくせに」


「それは……そうだけどぉ………皆こっち見てるよ?」


「気にすんな。仕方ないんだから」




 雪夜には勝てないと悟り、茫然自失となった綾辻を尻目に、雪夜は私の手足を縛る縄を解いて、自分がTシャツの上に羽織っていた半袖シャツを着せてくれた。

 ……そこまではいいのだけど、当の私はと言えば、薬の後遺症なのか、あるいは恐怖で腰が抜けたのか(前者である事を願う)、足元がおぼつかず上手く歩けなかった。で、必然的に取られた手段が、大学病院から寮までの帰り道を雪夜におんぶされる事。今日は日曜日なので帰宅ラッシュとまでは行かないまでも、ウェストアベニューまで一直線のこの道はそれでもかなりの人影がある。当然私達は注目の的。……曲りなりにも女の子の私にとっては顔から火が出るほど恥ずかしいんだってば!


「あの……雪夜? どうして……来てくれたの?」


「内緒。つーかそれ言っちゃうとカッコ悪いからな、かなり」


「……………うん。だったら訊かない。せっかくカッコ良かった雪夜をわざわざカッコ悪くする必要なんかないもんね」


「過去形かよ………。現在進行形にしてくれ」


「ふふふっ♪」


 訊いてはみたものの、正直理由なんてどうでもよかった。私がピンチの時に、雪夜が駆けつけてくれた。私には……その結果だけで十分過ぎるくらいだから。


 これは後日談だけど。

 綾辻をどうしても許せなかった私だが、雪夜の『警察は信用出来ないからやめとけ』と言う意見を聞いて、被害届は出さなかった。雪夜が綾辻を殴らなかったのも同じ理由らしいけど。

 で、少し後になってSC内に『綾辻夕人ストーカー疑惑』に関する、膨大な量の情報がインターネットを通じて流れ始めた。更にその情報と、でっち上げた証拠物件(それらしく作った合成写真など)をネタにして綾辻を強請り、果ては理事長にまで報告した人達がいたらしい。かくして綾辻は除籍処分となり、SGを追放された。……ふふ、私には雪夜以外にも心配してくれる人が大勢居たみたい。皆が色々やってくれたお陰で、多少私の気分も晴れた。

 当然その流れで『春コミ』は解散。どうやら昼休みに私達の様子を窺っていたのは春コミメンバーだったようで、その後誰からも監視される事はなくなった。今思えば、綾辻の部屋やフォトアルバムに貼ってあった写真は、屋上で雪夜とお弁当を食べている時のものが多かった。恐らく私達を監視するのと同時に盗撮もさせていたのだろう。ま、そんなのはどうでもいい話。元々大して気にしてなかったから。見たい人には見せておけばいい。


 ……と、今までは思っていたのだけど、今の私はと言うと……意外に広い雪夜の背中で、通行人に顔を見られないようにひたすら縮こまっている。……う~む、私ってば実は純情路線だったんだ……。自分でも知らなかった一面かも。


 そう言えばまだ雪夜に謝っていない。寮まではあと少し。……名残惜しいけど。でも今、言わなければいけない。今じゃないとダメなんだ。私は意を決して口を開く。


「雪夜…………あの、ゴメンなさい。私……雪夜に酷い事………」


「いいよ。もう忘れろ」


「で、でも………」


「いいから。春奈は何にも気にするなって」


「………うん、分かった。雪夜がそう言うなら……」


「……………あ………」


「……? なに?」






「………あ、明日の……弁当は………ハ……ハンバーグ……が……食べたい、かな……」






「……………! うん!! えへへ~♪」


「うわッ! ベッタリくっ付くなよ春奈!!」




 この夏は、私史上最高に素敵な夏になりそう。そんな気がするんだ―――――



Episode end



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