第62話 幕間 皇帝の憂鬱
ここから3話ほど幕間(非主人公視点)です。
煌星帝国帝城内、角宿の間と呼ばれる皇帝と閣僚たちの会議室は、連日の議論の紛糾によって澱んだ空気が漂っていた。
一向に進まぬ議論に、閣議を主催する帝国皇帝クィシンはもはや顔に浮かぶ苛立ちを隠そうとしなかった。全く、いつから帝国は斯様に鈍重になったのか。
帝国を建国した高祖、煌輝帝フゥイシンやその子、万照帝ヂァオシンの頃は、皇帝の号令一つで十万の軍が数刻のうちに整ったと伝わる。まあ誇張もあるのだろうが……。
激情家かつ剣の達人として知られた高祖が今の帝国の有り様を見れば、怒りの余り臣下たちの首が物理的に飛んだかもしれない。
だが帝国建国から既に二百年余、皇帝の威光は年々低下していた。七剣星もかつては皇帝が腹心とした武の達人らへの称号だった。今や半ば名誉称号に成り下がり、直接皇帝に従う星すらフーシェン1人に減っている。
客観的には歴代皇帝には残念ながら名君よりも凡君が多い。クィシンの父、今は孝礼帝の諡号をおくられたリーシンも後者の範疇だろう。
凡君ならまだいい。明らかに暗愚、暴君もいれば、臣下たちとの権力闘争のはてに謀殺されたらしき者までいた。そのためやがて法による皇帝権限の制限は強まり、建国の頃に比べるとずいぶんと弱くなった。
クィシン自体も盤石にはほど遠い。子も正腹、妾腹で皇女が各一人のみ。帝国法では女子にも条件付きでの皇位継承を認めているが、建国以来今まで女帝がたったことはない。
彼に何かあればいささか出来の悪く、脳筋気味の───とクィシンは考えている───皇弟、マオシン皇子を担ぎ上げる者もいよう。
「……つまりこの脅しには決して屈してはならぬのです。仙人どもに対し帝国の威を示さずば、叛乱勢力増長の連鎖を招くは必定で……」
そう、例えば目の前で論陣を張っている兵部尚書のディモス・チョウ群公爵なども向こう側だ。
軍事力がものをいう帝国において丞相が空位の今、軍事責任者である兵部尚書は一番発言力が大きい閣僚だろう。各方面軍も形式的には兵部省に属する。あくまで形だけは。
歴代皇帝は方面軍と兵部省の分解縮小化を目論むもうまくいっていない。むしろ皇帝側の勢力が逆に弱められてきた。
例えば不祥事を多数捏造され、皇帝直属の騎士団は解体に追い込まれた。直轄地に砦を気付けばいつの間にかその近隣を方面軍が実効支配していた。学校を作れば数年後には教師が向こうの派閥の者に入れ替わっていた……などなど。
今も様々な分野で相互に陣取りの土竜叩きが続いている。領土拡大がない以上、新たな餡餅がないのだから、その切り分け方が問題になるのは仕方がない。
最近では魔導省解体の際に魔導院を兵部省に取られたのもよくなかった、あれは父の失敗だろう。
現時点で向こう側の閣僚は、軍務を司る兵部、民政を司る戸部、人事を司る吏部。
皇帝側といえる閣僚は、法を起草する中書、財務を司る蔵部、司法である刑部、学を司る文部、商工業の工部。
正確には各派閥の中で細かく分かれているし、特定利権は派閥横断案件もあるが、だいたいこれで間違いない。
法を審議する門下と、外交と儀礼の礼部は中立派。当代の門下長官は良く言えば柔軟、悪くいえば風見鶏なので、礼部尚書に何かと調整役をやってもらわねばならない。
帝国において外交部門はほぼ形だけの存在で実効権力がない名誉職だ。なにせろくに諸外国との信頼関係がないから、仕事が少ない。
諜報関係は皇帝直属の組織「闇星」や兵部省の「天陰」が担っているので、礼部はほぼ儀礼担当部門だ。
だが実効権力や利害に関わらないからこそご意見番としては意味がある。ゆえに格式ある皇族や老貴族が礼部尚書になる場合が多い。当代もクィシンからすると大叔父にあたる皇族だ。
傾向として、皇帝側は資金や法令に関わる省庁。政敵は、軍や実務方。
これはクィシン自身が軍事力より経済力を好むためであるが、むしろそうしないと帝国全体としては軍事に偏り過ぎていて、均衡がとれないためでもある。
金と法を背景にしつつ軍の多くが味方でないゆえに、彼の政権は見た目以上に不安定だ。超法規的手段も取りづらい。身の丈を弁えぬ金食い虫どもと蔑むにも、その力は無視できぬ。
「何度申し上げればよろしいのか? 今は魔壊の爪痕から未だ脱せぬ時。まして魔性の者が帝都近隣に跋扈せんとなれば、そちらに注力するが道理。西方遠征をやれる財源など捻出しえようはずもない」
兵部尚書に蔵部尚書のブーウェイ・リャン群公爵が反論する。この二人は犬猿の仲というやつだ。まあ、軍事と財務の仲など少々悪いくらいが国にとっては丁度よいだろう。
魔壊とは二十数年前の魔術衰退事件の事を指す。旧魔導省の者がよく使う言い回しだ。リャン尚書は昔あちらに出向していたそうで、兵部と文部の旧魔導省の者に顔が利く。
「臨時増税すれば良い。長い時間はかからん、短期間で一気呵成に行う事が可能だ。そのための計画は既に……」
「増税などやれば、人心は離れ、叛乱勢力に人が流れ、それこそ帝国を分裂させることになる! むしろ方面軍が勝手に徴税するのを兵部省が止めていただきたい、国庫に金がないのは将にそのためだ」
「軍のそれは一定の微小額にすぎず、卿の非難は不当である。また、高租以来の正当なる権利である」
各方面軍に一定の現地徴税権を認めたのは高租の失政だとクィシンは考えている。
当時は、戦後に現地で略奪に走ることを禁じたための見返りが必要だった、という事情もあったが、今となっては破棄されるべき既得権だ。
なお彼の把握しているところでは、「一定」の範囲はだんだん拡大する一方であるが、軍は認めようとしない。
証拠集めをしようとした官吏は決まって不慮の事故死を遂げる始末。下手人を挙げても蜥蜴の尻尾に過ぎず……どこまで腐っているのか。
それにしてもこの泥沼もさすがに五日目ともなると、分かっていてもうんざりする。
まず根底として中央統制を取り戻し軍への支配力を高めようとする皇帝側派閥……法統派と、力と前例を盾としてそれに抵抗する軍閥側派閥……武統派の対立がある。これは現世代においてはクィシン派と弟皇子派の争いでもある。
普段なら派閥はあっても、適当なところでもっと早く妥協に至る。今回の場合、背景がやや複雑だ。
前者が冥穴発生と仙人襲撃の事態を奇貨として非常事態を理由に改革を進めようとしたところ、事態発生の責任追求も含めて横槍が入り、押し返せずに膠着が始まってしまった。
そして、ここは無理をしてでも総力をもって外憂を断つべきとする者と、事態の収拾を優先し外に対しては守りを固めるべきとする者。
事態収拾のために外部の力を借りるのを良しとする者と、帝国内部だけで対処すべきだとする者。さらに仙力を使うべきとする者と、忌避する者。
そして各派閥内でもどうやら思った以上に総論賛成各論反対状態が多い。いらいらする。
そして冥穴関連は国内の治安問題といえる。敵は魔物、しかも素材も残さない幻の如き連中だ。勝ったところで得られる領土も人材もなく、費用をかければかけるほど赤字である。
そんなわけで味方派閥の動きも鈍いのだ。魔物が溢れて帝都が襲われ物流までも止まったら赤字云々どころでないのだが、そこまでの話か? と危機感が薄い。
かつてであれば、皇帝の一存でかなりのところを決めることができたのだが……今の帝国法では、議論を終わらせる皇帝議決権の行使はそれなりの大義名分が必要だ。
そしてその大義名分は、予測はしていたが……あまりクィシンにとって歓迎したくない、事態の悪化という形でもたらされた。
皇帝の側に近従がそっと忍び寄り、文と魔導具の宝珠を2つ置いていく。文に目を通した皇帝が声を発した。
「……皆の言い分はそれぞれ尤もである。余としても実に悩ましくはあるが、この場で当面の対処は決めねばならん」
「何事かございましたか」
「現実問題として、事態の進行は我らを待ってはくれぬ。ラオシュンの街に魔性の手が及びつつある」
「ラオシュンには先月より星衛尉部の大隊、500人ほどが詰めていましょう」
「その星衛尉部の守護隊に魔性どもが襲いかかり、撃退するも、死者だけで二桁、50を超える負傷者が出たとのことだ。もはや一刻の猶予もない」
「なんと!」
「チョウ兵部尚書よ。まず畿内大将軍である余の権限をもって、畿内第一師団から連隊規模の兵をラオシュンの守りに差し向ける。これは即日実施せよ」
「……了解いたしました」
「問題は後詰めを如何にするかだ。たった今もたらされた報告だが、諸卿らも確認せよ」
「これが件の冥穴とやらの最新映像、今朝の記録だ。式神の烏からの像とのことだ」
皇帝は先程もたらされた魔導具を起動する。すると、宝珠から右隣の白壁に映像が投影され、高所から地上を見下ろすような光景が映し出された。
これは魔導師の使い魔……式神である鳥を潜入させ、観察させた像を記録したものだ。
映し出されたのは、ラオシュンの街から、冥穴があるという山に向かって上空を移動していく像だった。式神の見たものの投影は、どうしても解像度が低くなり音もないものの、おおよその事はわかる。
街からでてしばらくすると、像がブレて、ぐらぐらとなり……少し目が回りそうになったが、すぐに像は安定した。ただしそれまでとは全く違う色彩で。
青かったはずの空は紫になり、世界全体が茜色を被せたように見える。そして上空には奇怪な白い影のようなものが多数飛んでいる。
式神は影から逃れるように地面に近づく……と、地上には、全く統一感のない異形たちがまばらに闊歩していた。
人狼、竜人のような人型の魔物から、毒眼蜥蜴、土鬼蜘蛛、単眼巨鬼などの、それだけで専用武装の討伐隊が組まれるような高位の魔物。そして……火岩竜、刃鎧竜などの竜種。
魔物たちの気を引かないように木々の梢を利用しながら、山の火口のほうに飛んでいくと……。火口は、紫色の靄のようなものに覆われていた。
「むう……奇怪な」
その近くを、中に入るかどうか躊躇するかのように式神が飛んでいると……
靄の中で緋色の何かが三つ、光った。
三眼の何者かに睨まれた、とクィシンは感じた。
次の瞬間、式神の投影像が途切れる。
「どうやらここで、式神は何者かに撃ち落とされ、それ以上の調査はできなかったようだ」
「落とされましたか」
「あれほどの魔物がうろついているようでは、式神は無謀ですな」
「式神は便利でありますが、まともに攻撃を受けてはひとたまりもありますまい」
「左様、迂闊にござる。ただの状況偵察ごときで失っていいものではござらん」
式神となる鳥獣は、産まれた頃よりそのために育てられた特別な代物らしく、そう易々とは補充できないらしい。
そしてもはや件の穴の近くは、並みの獣が生き延びられる場所ではなく、防御力は大したことがない貴重な式神を投入するのは難しいことがこの度確認できた。
「あのように多数の魔物がお互い争わずにうろつくなど、尋常ではない」
そう、普通なら魔物同士でも異種ならば相争うものだ。かといって、統一的に何かに指揮されている様子もない。極めて奇妙な状態だった。
「かの国からの情報では、奴らは生ある者に嫉妬する死霊が、龍脈の力で形を持ったものであるという。お互いは生きていないために襲う対象でなく、かといって同志でもない、ということなのだろうな」
「あのような話など、額面通りには受け取ってはなりませぬぞ。失礼ながら、かの者どもは得体が知れませぬ。むしろ裏で何をやっているか……」
兵部尚書が皇帝に据わった目を向ける。クィシンはそれを眺めながら軽く嗤った。
まことに不敬だが、なるほど、外国との取引を無邪気に信じるなど亡国の行い。それは相違ない。
今の所先方の言に嘘は見当たらないが、全てがそうとは限らぬし、言っておらぬ事も多くあろう。無論クィシン側も裏を取るべく動いてはいる。
しかし兵部尚書よ、貴様がそれを言うか? 代々兵部省を私物化する獅子身中の虫が。そして貴様ら一族には百年先が見えておらん。
鉄と血よりも、法と技術。剣と盾よりも金と情報。それらが国威に必要な時代が来る。かの情報が正しいなら、その時は思ったより早くなりそうだ。それに備えねばならん。
「余とて迂闊にかの国を信じることはない。だが、よしんばこの冥穴なるもの自体が、かの国や敵の陰謀であったとしても、当面我らがやらねばならぬ事は何ら変わらぬ。そうであろう?」
「……はっ」
「時が惜しい、次に移る。今ひとつは、ラオシュンの戦いを記録したものだ」
そうして皇帝は、次の魔導具を起動した。




