第55話 幕間 死せる言葉による語りかけ
帝都の郊外の森林を、ひとりの男が息を切らせながら歩いていた。
「はあ、はあ、はあ……」
バサバサバサ……
男は鳥の羽音の響きを上空に感じた。音はすれども、姿は見えず。しかし常人には聞こえざる『音』は、確かに男を追いかけてくる。
男を追うは、崑崙の聞仙ダーハオの宝貝『幻笙雉鶏精』が作り出した不可視の式神。霊気から作られ実体を持たない式神は、鏡により転移を繰り返す男の逃走にも振り切られることなく追跡してくる。
しかもこの式神は実体がないためか、通常の攻撃手段では撃墜できない。彼個人の仙力【合鏡】は光と空間を操る力を持つが、この式神には通じないようだ。
仙術による霊矢で撃ち落とせないか試したが、生憎彼の仙術の練度では撃墜できなかった。あの禍津国の男ほどに仙術を使いこなせていれば何とかなったのだろうが……今更悔いても仕方ない。
そもそも、この式神は霊気を読める仙力使いでなければ存在に気がつくことも難しい。羽音すらも仙力使いにしか聞こえず、魔術での探知も存在と原理を知らなければ不可能。
崑崙の情報収集能力を支えている機密の一つだ。多少なりと仙術を修めたおかげで、追われていることがわかるだけでもまだマシだろう。
「これほどまでに、しつこいものであったとは……」
霊力の大半を既に消費し、疲労に苦しむ中、それでも男……『映仙』ランドーは、追跡からいかに逃れるかを思案する。
普段は帝国軍監視に使われている式神が自分に対して向けられるとは。四仙は相当に立腹していよう、やり過ぎたのだ。それはわかる。
自分としても、いざ冷静になってみると色々とまずかったのは認めざるを得ない。
特に帝都の中であれほど大々的に仕掛けたのは不用意であったし、そのうえで失敗したのは大失態だ。よもやあれらが無効化されるとは……。悔やんでも今更仕方ないが。
とはいえ、あのまま放っておけば必ずや帝国は崑崙に攻め込んでくる。今のうちに何とかはしなくてはならない。やり方はまずかったがその認識は間違っていないはず……。
……詮無きことか。間違っていても、いなくとも、こうなっては四仙としては許してはおけまい。
「だが、封神されるわけには……この失態、折角友に助けられたこの命……この無念、このまま晴らさずにおくべきか」
式神だけならば付きまとってくるだけだ、だが位置を知られたままでは、いずれ『雷仙』や『界仙』『翔仙』といった、崑崙の上位の移動術の使い手が追ってくるに違いない。
現代の魔術では生物を生きたまま瞬間移動させるのは不可能とされている。しかし仙力であればその限りではない。そして遠距離瞬間移動の仙力としては、ランドーこそが崑崙随一の使い手である。
それでも雷仙たちならば、ある程度時間を与えれば追ってこられる。式神に居場所を捉えられている限りは仮眠すら危ない。
考えられる対策。式神が入ってこられないところに移動する。例えば崑崙山の結界、あそこをこの鳥は超えられない。結界の中で活動するためには、宝貝の設定を調整し再起動せねばならない、と以前聞いた。その時間差で隠れることは可能だろう。
しかし崑崙山に近づくのは危険だ。警戒されている現状、灯台下暗しは期待できまい。やるとすれば、一瞬だけの経由地として使うか……。
ランドーの鏡を用いた移動術は、移動元こそ仮初めの空間に作った鏡でよいが、移動先としては自身の霊力を込めた鏡しか選べない。事前に準備が必要なのだ。
現在そうした鏡を設置してあるのは、東方の各地で数十箇所ほど。たがどうやら、ここまで逃走に使ったものや、崑崙近隣のいくつかは破壊されたようだ。
迂闊に跳んでこれ以上破壊されるのは困るし、遠距離に跳ぶにも距離が遠くなるほど霊力も消費する。正直、国外の鏡に跳ぶには残存霊力がきつい。
本来、こういう時には匿ってくれる同志が欲しい。だが『化仙』ガルマなど、つきあいのある面々は先日声をかけたとき口では同意しつつも煮え切らず、同行しなかった。襲撃にしくじった今となっては頼れまい。
あとはシーチェイ、あの弟子はどこに行ったものか……。あの時、もう少し慎重にすべきでは、との意見をねじ伏せ、情に絆されるなと、かの娘を売ることを命じたのは、結果的に失敗だったか。あるいは山のほうに行ったかもしれぬ。
……式神のさらに上空に何者かの気配を感じた。この森に長く居すぎたか。おそらくあれは『翔仙』ネヴィル。空を飛ぶ仙力の持ち主だ。
空を飛ぶといっても、奴の力は鳥のように長閑なものではない。かなり直線的にしか飛べないものの、自身を守りつつ音の速さを超えることができ、その際に外部に衝撃波を発生させるかどうかも任意に切り替えることができる。
現在の魔術による飛行術が最高でも音の十分の一程度の速度であることを考えれば、非常に優れた能力と言えるだろう。
奴の衝撃波は対軍において恐るべき力を発揮する。そして本人だけでなく投擲する小石などでも瞬間的に衝撃波を作り出せるため、対人の戦闘力でも優れている。今の消耗した状態では勝ち目が薄い。
奴が降りてくる前に転移する必要がある。しかし、どこに……。
「そこにいたか映仙。そろそろ諦めろ」
「断る……!」
見つかった。考えている時間はもうない、急いで近場のどこかに。……そして鏡を現出させ、ランドーはそれに飛び込んだ。
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「ぐっ!?」
鏡から飛び出す際に、予期せぬ衝撃を感じた。頭痛に、締め上げられるような臓腑の痛み。
しばしうずくまって痛みがおさまるのを待とうとして……気がついた。式神の気配がない、これまでは、こちらの転移にあれも一拍おいて追随してきたのだが。
「ここは……どこだ……」
周辺は真っ暗闇だ。頭痛を我慢しつつ、灯火の魔術を起動して、周囲を確認した。
……ここは……そうか、あの古代の娘のいた地下の穴蔵か。調べる際に、何回か来るかもしれぬと鏡を設置していたのだ。先ほどの位置から最寄りの鏡がこれであったか。
『…Sorry, Nympheas……』
突然、男の声らしきものが聞こえた。
「なんだ!?」
『…It may be painful……but……your curse……』
娘が眠っていたと思われる半ば潰れかけた金属の箱、そのあたりから雑音混じりの音がする。
『……We use ……dragon's blood……to treat ……illness……It's our fault……』
「古代語の記録音声か?」
録音状態はかなり悪く、背景に何か破砕音のようなものが混ざっている。そこに途切れ途切れの言葉が続く。
何を言っているかは分からない……時々咳き込みがあり、呼吸も荒い。この声の主は記録を残したとき死に瀕していたのだろう。
『……May God bless you……We love you……our beloved daughter……』
最後にさらに強く咳き込むような音があり、そして途切れた。
「……むう?」
あの娘への伝言だったのだろうか?
まあランドーには関係のないことだったのだろう。とりあえず周辺を確認するために地上に出なければ……と、そこで彼は奇妙な違和感を覚えた。
静か過ぎではないか?
ここは山にほど近い、森の外れであったはず。そうであれば風にそよぐ木々の葉鳴り、動物や鳥の声などが穴の下にも多少は届き、この空間に響くべきではないか。まして今はまだ昼のはずだ。
先の声が途絶えた今、聞こえるのは彼自身の出す音しかない。これはさすがに奇妙だ。穴が空いているところまで移動すると、今度は……。
見たことのない奇妙な、紫の色合いの空。風の音すらない、朽ちた鋼のごとき静謐。
「なんだ……なんなのだ、これは」
その空に、何かがいる。
白く薄っぺらい何か。鳥のような、蝙蝠のような、あるいは飛竜か。それらが厚みを無くした紙細工になったような異形。そんな奇怪なものが多数、音もなく空を飛んでいた。
なんだこれは。こんなものは見たことがない。
ここは既に尋常の空間ではない。異界になりかけている? だからあの式神を振り切れたのか?
……上空に気を取られていたランドーは、背後から近づいてくるものに気がつくのが遅れた。真後ろまでの接近を許してしまう。
「……何者だ!?」
『Hum……We're "the planetary macrophage"……or called "Gespenst"』
先ほどと同じ古代語とおぼしき声。
暗闇に佇むは、金色の燐光と白衣を纏う男。表情もなく、声音はきわめて平坦。燐光で照らされてなお青白い肌は、死者のそれとしか思えない。
男の後ろにはさらに白い煙のような何かが複数蠢いていた。
『Right back at you , who the hell do you think you are?……』
「……っ!」
『……?……Didn't you understand this language? Only a few thousand years have passed, right? Oh……It's hard to talk to short-lived mortals.……』
とっさにランドーはその男たちから逃げようとして、鏡を作り入り込もうとした。しかし。
「くそっ!」
転移……できない!? この異界、来ることはできても、出ることはできないのか!?
ならばと、空中に階段のように鏡を作り出す。それを踏み台にして穴から飛び出そうと……。
燐光の男が空を指し示しながらつぶやく。
『……Don't let him escape.』
上空の白影のいくつかがその言葉に応じ……光を放つ。天より光が降り注ぎ、逃げ出そうとしていたランドーを打ち据えた。
「ぐぅっ!」
ランドーの身は空に届かず、彼は暗闇へと墜ちていく。そして彼は落下の恐怖と、自分の『中』に何かが入り込んでくる感覚に絶叫した。
「……があああああああっ!? あ、あぐああああああ!!!!」
絶叫はすぐに途切れ、再び、静謐が変容した天地を覆った。
そして映仙ランドーの足取りは途絶える。
彼は忽然と消え失せ、崑崙の仙人たちや帝国の諜報網でも、かの仙人の消息を掴むことはできなかった。




