第202話 幕間 烙印の獣(4/4)
※本幕間は血なまぐさい表現や、作中人物による、倫理的に問題ある行動、思考、偏見等の描写があります。また、視点移動も多めです。
『終わりだ』
異形が風となった。
その動きは、先程までよりもさらに、遥かに速く。人間大の存在が、本当に一瞬で音の壁を超えた。
そこに至った彼は、その一挙手一投足全てが必殺の凶器。ただ動くだけで常人の体は千切れ、金属の鎧が紙細工よりも脆く壊れる。
しかも覚醒時には、降神者ごとに異なる強力な追加効果が載る。
『祝福』……仙力に近い異能と考えられているもので、ウルリヒのそれは 【崩壊】と呼ばれるもの。覚醒した彼が手で触れた者の身体は、物体は、自ら爆発したかのように粉々になって破裂する。しかもこれは既知の魔術では軽減できない。
超音速機動の衝撃波と合わせ、今の彼には拳一つで魔術防御を施された城壁に穴を穿ち、建物を瓦礫に変える力がある。そこで出来つつある『万里長城』とやらも今の彼なら穴を穿てよう。
むろん人間など一瞬で血煙になる。首だけ残すのが難しいほどだ、破裂する前に、直接触らず衝撃波で切断すれば……。
死の風となったウルリヒが男の首を切断しようとする刹那。男は纏っていた服を一瞬で脱いで、ウルリヒのほうに叩きつけてきていた。
何の真似だ、こんなもので視界を遮って意味があるとでも。舐めるな!
嗤いながらウルリヒは、男の首を切り飛ばし、体を爆砕した。
吹き飛んだ胴体は血煙となって、地面で赤い花となった。悲鳴も何もない。最後は呆気ないものだった。
首はくるくると飛んでから、ぼとっと地に落ちる。ウルリヒは首を蹴り飛ばして顔をこちらに向かせ、ぼやきを……。
「手こずらせ、やが……?」
違う。
別人だ。この首は、さっき死んだ若い男のほう。
……身代わりだと!? どうやって。いやその前に本人はどこだ、どこ……。
『ブリギッ『後ろ!!』』
相方の声に反射的に振り向き、同時に手刀を振るおうとして……身体が不意に硬直する。
『!?』
動きが止まったところに、衝撃が襲ってきた。
ズドンッ!
『っ!!』
男の飛び蹴り。それをまともに喰らい、ウルリヒは吹き飛ばされ、煉瓦造りの家の壁に叩きつけられた。
ドゴォアッ!! ドンガラガラ……。
先程までならあり得ない威力の蹴り。煉瓦に一瞬人型の窪みができ、すぐにそれは穴となり、そのまま壁は崩壊。ウルリヒの身体はさらに家の中を転がり、逆側の壁にまで到達。
『くっ!』
転がる途中で巻き込んだ柱が折れ、家が屋根ごと崩れ落ちてくる……が、その程度、降神猟兵にとっては大したことではない。
体勢を立て直し、落ちてくる瓦礫を【崩壊】で粉砕しつつウルリヒは飛び出す。そして、相手の姿を捉え──
再び体が凍る。
すぐ目の前に男がいる、が。
──動けない
この圧は なんだ
何故俺は 動けない
ブリギッテも同様だ。叫ぶと同時に咄嗟に介入しようとしたが、彼女も動けなくなっている。
──まさか
これは
聖別を受けて以来、
忘れていたもの
──『恐怖』──
バカな、相手は元魔導騎士かもしれないが、ただの人間……。
誰だ、こいつを牙猫などと呼んだ奴は。そいつの目は節穴……いや、外れてはいない、いないが足りていない。猫は猫でもこいつは、この牙は、獣の……
『──お前たちの隊長に、少しでも俺の知る頃の心が残っているなら、この状況ではこう言うだろう』
流暢なオストラント語が聞こえる。
『忘れるな。見失うな。過信するな。意地や好奇心より、任務に忠実たれ。それこそ私が諸君に求めるものだ──とな』
ああ、確かにあの隊長なら、そう言う。常に冷徹な任務遂行を求める人だ。
『もし帰れるのなら、ジークに言うがいい』
隊長を、その名で呼ぶなど。今や王ですらできないのに。
『来るならお前自身が来い、さもなくば、放っておけ、と。いずれにしろ黒樹は二度と芽吹くことはなく、あの湖に還ることはない』
服を脱いだ男の肌が露わになっていた。先ほどからの戦いによる真新しい流血がかなり酷いが、それより……。
上半身に、無数の古傷があった。
戦の傷だけでない。明らかに拷問や、意図的に切り刻まれたかのような傷もある。そして何より、ウルリヒ自身も知っているものが胸に刻まれている。
……色は違う、ウルリヒのものは鮮やかな蒼だ。だがこの男に残るそれは漆黒で、さらに流血を得て赤黒く輝いている。そして巨大な「X」の烙印が上から刻まれている。
この烙印は、間違っていたと、失敗だとして施術者が刻むもの。そして胸に刻まれた聖なる星印、五芒星は……すなわち、『聖別』の証!
そしてその構えは、動きは。そうかこの男は、『逃亡体』では、なかった。
かといって『降神猟兵』でもない。こいつは。
『……降……
「堕天型」聖別不適合者……発生したならば即『廃棄』されるはずのもの。
……魔!!』
すなわち『降魔廃兵』!
……。
ごふっ……。
異形となったウルリヒの口から、それだけは赤いままの血が漏れる。
反射的に練り上げた最強の防御術『黒孔盾』が、鋼の刃すら通さない硬質化皮膚装甲が、全く意味がないかのように貫かれ、体に複数の風穴が空いていた。
目前に漆黒の異形が現れた瞬間、盾が、心臓が……それも複数発生していたものが、一瞬で『燃え尽きた灰のようになって』吹き飛ばされたのだ。
そのままウルリヒは為すすべなく仰向けに倒れた。
──ああ。東方でも、空は、こんなに、青いん……だな……。
そして降神猟兵ウルリヒ・フォーグラーは、遥か蒼穹の空の下で意識を失った。
『ウルリヒ!!』
『……心臓を吹き飛ばしたが、今のお前たちはその程度ではすぐには死なんのだろう。さっさとここを離れて治療するんだな』
漆黒の異形と化した男がいう。その姿は、敢えて例えるなら……黒い獅子人。
獣の王を思わせる鬣と眼光持つ体躯に竜の鱗にも似た硬質の皮膚装甲。どこか、白と金の虎であるヴァルター隊長と対になるかのような、異形にして威風を示す何者か。
そして胸に輝く五芒星と烙印は、紛れもなく失敗作、『降魔廃兵』であると断じられた証……。
『お前は、何者、だ』
ブリギッテの声が掠れる。戦闘力でならウルリヒはブリギッテをしのぐ、それを打ち倒したこの男に、この間合いでは、降神化しても勝てる目が思いつかない。
身体がうまく動かない理由も……恐怖? それは「誰」の恐怖だ? ブリギッテに恐怖を感じる理由はない……はずだ。
分からない、分からないことが多すぎる。どうやって『黒孔盾』を貫きウルリヒを倒したのかも不明だ。
また、『降魔廃兵』であれば、何か致命的な欠陥があったはず。精神や肉体に重篤な異常があるはずなのだ。
発狂、妄想障害、破壊衝動、人の血肉への渇望、降神化の解除不可、魔力暴走、名状しがたい異形化など‥…。
彼女も何度か『廃棄』に立ち会ったことがあるが、体か心のどちらか、あるいはその両方が、およそ人間とは言い難い存在に変容していた。
しかしこいつは普通に受け答えしている。むしろ、普段のウルリヒをはじめとする降神猟兵の仲間たちよりもまともに見える。
そもそもどうやって抜け出したのか。降魔廃兵が逃げ出すというのは、単なる逃亡体とは難易度が全く違う。通常は発生即『廃棄』となるし、そも、聖別の儀礼場と封印の牢獄は信じがたいほどの魔術結界でガチガチの……。
……魔術が効かない、とウルリヒは言ったか。まさか、そういうこと、なのか? 魔力を極大化させ人を超越するための聖別が、真逆に作用して……魔力を壊す特性になったとしたら。
もしそうなら、聖別の目的からするとあるはずのない異常、絶対にあってはならないことで、あるはずが……だからこそ烙印、を?
いや、待て。それにだ、魔力が壊れ魔術強化もできないなら、魔導騎士としては大幅な弱体化ではないか。
その状態でウルリヒの攻撃を凌いだのなら、素の技量が化け物じみている、ということになってしまう。隊長以外にそんな者が、いたなどと……。
(んっ…!)
ブリギッテの脳にちくりと痛みが走る。何か、何かを忘れている、ような……。
『何故、トドメを刺さない』
『東方でいう所の『縁』というやつだ』
『?』
『先代のエーデルバッハ伯と『彼女』には世話になった。その借りは二度と返せないと思っていたが、少しだけはここで返そう』
『え』
『──さようならだ、『お嬢様』 もう二度と会うことはない』
なんだと? エーデルバッハを、父を、誰かを……私を、知っている?
男は、降魔化を解いて背を向ける。その後姿が、声が。
忘れていた何かを、少しだけ……。
──やあ、お嬢様、今日のご機嫌はいかがかな?
──あらら、今日は私でなくブリギッテのほうなんですか?
──いつもねえさまだけ、にいさまをどくせんするの、ずるいです。だからきょうは、わたしのひなんです! ね、にいさま!
──悪いねシャルロッテ、昨日この小さなお嬢様と約束したんだ。この埋め合わせは……
──うふふ、では楽しみに待っていますわ……レオン
まだ彼女がほんの子供だった頃、亡きシャルロッテ姉様の隣に並んでいた、姉の婚約者の……そうだ、何故忘れていた? 何度も遊んでくれた、あの人は……。
ヴァルター様と共に、二人合わせて百年に二人の双璧と呼ばれながら、一人だけ、国の歴史から消されたあの人は……。
『……まっ、まって、……れおん……にい、さま‥‥…? ……あ、れ』
ちくり。開きかけた記憶の蓋が、痛みとともに、また閉じる。
思い出しかけたものが霧散し再び忘却の淵に落ちる。
ブリギッテは一瞬混乱したが……。
『う、うう……亡き父の知り合い、だったのか? ……な、なんにせよ、早くこいつを治さねば……』
官憲が近づいてくるのが分かる。倒れたウルリヒを担ぎ上げてその場を離れる。
降神化した者は心臓がなくとも即死しない。そうした耐久性でも人間を超越した存在だ。しかし降神の効果が完全に消える前にある程度まで治さねば、さすがに死んでしまう。
もやもやし、混乱する気持ちを魔導具で押さえ込んで、ブリギッテは帝都に作っていた隠れ家へと急いだ。
・
・
・
「久々にこれは、疲れる」
死体から服を失敬して調達し、いくつかの証拠を隠滅し、麻袋をかついでその場を去りながらアッシェはぼやいた。
命がけの戦いという奴は実に疲れるし、さすがに少々、年が年だ。今回は連戦になったし、特に後のほうは実力差も大きくなかったため、色々と『裏技』も使う羽目になった。
壊してしまった家の住人には悪いが、こちらも余り余裕はなかった。
今のアッシェは自前では魔術を起動できない。自己強化術も不可能だ。
他人からの魔術については、麻痺や精神操作などの直接作用型は殆ど効かない(もちろん治癒術も効かない)
だが、間接作用型……つまり火炎や雷撃などの物理現象を発生させるもので、発動位置が体外のものは、普通に効く。
武術には自信があるが、さすがに魔導騎士の物魔連携攻撃を抑えきるのは、補助なしの武術だけでは厳しい。
ウルリヒはそれだけでも相手を殺せる武技を放ちつつ、その技を相手がどう避け、どう受けると自然かを熟知していた。そしてその際人が人である限りどうしても隙ができる位置に、致命的な魔術攻撃を仕掛けてきた。
幻惑技と高速技で緩急を使い分けつつ、相手の選択肢を潰し、誘導して罠に嵌め込む。攻撃単体の強さに頼らず、自身は隙を作らない。
典型的な魔導騎士の対人戦技であり、組み立てやタイミングも問題ない。最後の『黒孔盾』も発動位置とタイミングは完璧だ、あの角度なら、防御できていたらそのままこちらにカウンターを放つことができた。
気圧され混乱している時でも、身体に染み着いた訓練の成果が出せている。これが敵でなく部下であったなら「若いのによく基礎を修めている」と腕組みしてうんうんと頷きたくなるほど。
そしてルーゲルの小技と異なり、魔導騎士の技はどれも必殺。読んで受けてもそのまま押し切ってくるだけの威力がある。普通にやれば瞬殺される。
一応奥の手として、今の自分に宿る『燃え尽きた魔力』を使う、というものはある。相手の魔術の魔法陣に打ち込めば、発動自体を阻害できる事が分かっている。だがブリギッテに観察されている状態ではできれば使いたくなかった。
そこで『裏技』の出番だ。
主に魔導具や呪符の作成や儀式魔術に使われる刻印魔術という技術がある。特殊な素材に回路と魔法陣を刻んで、魔力を流すことで発動させる魔術だ。
呪文無しの刻印魔術単独で発動させようとすると、非常に複雑な魔法陣が必要なものの、発動が高速で、かつ素材がもつ限り繰り返し使用できるなどのメリットがある。
アッシェは日々の用心として、小さな刻印魔術の魔法陣を作って服の裏などに縫い付けていた。魔術師に探知されないように、魔術的効果のない素材を使う。アッシェの場合は『影糸』をそのまま使っている。解けば普通の『影糸』として使える。
ただ通常なら、魔術的に無意味な素材で刻印を描いて魔力を通しても、魔術は起動しない。そんな刻印は単なる模様でしかない。よって刻印魔術では素材の選択が重要である、というのが一般的常識だ。
だが、例外がある。
いくつかの条件……例えば、特定の描き方の刻印において、ごく近くの誰かが自前で魔術を起動し、世界への要求パスが開いた瞬間に、すぐ側で魔力を特定の手順で流し込むなど……を満たすと、何の変哲もない素材による刻印でも、魔術的現象が発生するのだ。
これは通常の刻印魔術においては、意図しない暴発や不完全起動に繋がるため、その条件を満たさないようにせよ、と教本に書かれるような事項だ。
これに対し、アッシェの先祖が、これを逆用するアイデアを思いついて書き残していた。それを若き日のアッシェが見つけだし、色々試して実際に実用化したのが『裏技』だ。
具体的には、魔術を使う相手に小判鮫のように密着し、相手の魔術発動の際に漏れてくる余剰魔力を、タイミングよくカウンター気味に所望の刻印に通すことで刻印魔術を発動させることができる。
元が相手の放つ余剰魔力なので、こちらには魔力消費が生じない。元が相手の魔力なので、魔力の違いを感知できる達人であるほど、こちらが魔術を発動させているとは気づきにくい。
つまり己の魔力を封じられた状態や、アッシェのような者でもこっそり魔術を行使できるのである。理論上は。
勿論これは普通の魔術や、正しい素材での刻印魔術に比べれば、ずっと弱く、効果も不安定だ。
……というか、効果は相手の魔力次第で、かつ相手の使う術の百分の一、とかそんな感じになる。実際に裏技を発動させているのは、自分でなく相手なのだ。魔力的な詐欺というか泥棒というか。
そんな魔力泥棒を実現するには、位置や立ち回りもかなり制限される。味方の魔力を借りる場合でも結構厳しいのに、敵の魔力を利用したい場合は常に相手の間合い内で立ち回ることになる。前提が厳しすぎる。
普通の魔術師なら、仮にこんな発動が可能だと知ったとしても、効果と難易度からすると実用性皆無の単なる思考実験でしかない、と判断するだろう。
しかしアッシェは失った魔術の代わりにこれを磨き、ある程度実戦で使えるようになっていた。最初はできるとは自分でも思っていなかった、何事もやってみるものだ。
使いこなせば、攻撃を僅かに逸らしたり、一瞬だけ電気を接地させる、といった程度の事は可能。そんなわけで保険として普段着ている服の裏に、主要な防御系の刻印を十数種縫い付けていた。それで今回役に立った。
だが、ウルリヒは、ああ見えて漏れてくる無駄な魔力が少なかった。よく制御されている、流石は現役の魔導騎士だ。
その上で剣の腕も一流。そんな相手の間合いから逃げないで戦わねばならない‥…かといって間合いを取ると、今のアッシェでは魔術攻撃に耐えられない。
なかなか思うようにいかず、かなり痛めつけられた。だがそれも予定通りだ。
面倒な事に、この『烙印』は起動に血を必要とする。自分の血で五芒星を満たさないとアッシェは『降魔化』できないし、ある程度負傷しないと身体能力も向上しない。
普段から魔力が跳ね上がっていて、自分の意志だけで『降神化』もできる「成功例」どもとは違う。やはり魔力の事も含め、自分が「失敗例」であるのは間違いあるまい。
最後は血を十分に流してから敢えて挑発する形で『降神化』を使わせ、その際の余剰魔力を使って身代わりを成功させ、『降魔化』で勝負を決めた。
まあ、なかなか薄氷の戦いだった。少し組み立てを間違えるか、ブリギッテのほうまで参戦していたら厳しかった。
あとは『降魔化』はやたら腹が減る。一応、成功例どもに比べるとアッシェのそれは出力自体は低いままのためか、多少マシではあるようだが。
ただあの姿に変じると、【灰燼】……対象を灰に変える異能が使えるようになるのに加え、多少の怪我なら治るのは助かる。血塗れのままでは皆のところに戻れなかったところだ。一度は壊れた足がある程度動くのもこれのおかげだ、完治とまでは行かなかったが、短時間なら何とかなる。
「しかし、ブリギッテまでこうなっていたとはな」
……昔の話だ、彼がかつてレオン・シュヴァルツバウムであったころ、ブリギッテのエーデルバッハ家にはよく顔を出していた。ブリギッテの十歳上の姉、シャルロッテが彼の婚約者であったからだ。
ブリギッテ本人とは、最後に会った頃でも彼女がまだ幼年学校に入る前だったか……幼すぎて、元々からろくに記憶もあるまいし、彼に関連する記憶や記録は、物理的、魔術的に消されたはず。覚えていられるはずもない。
シャルロッテは……ああ。胸が痛む。
政略の婚約ではあったが、それ以上に、彼女自身を愛していた。彼女からも愛されていたと思う、それなのに墓に参ることさえできていない。
オストラントには国土の半分ほどを占める巨大な湖がある。その湖のとある岬には、許されぬ恋の果てに、来世で添い遂げることを願って身を投げた恋人たちの伝説がある。
婚約者が反逆者となり、ついには「獄死」した……表向きそのように処理された……と聞いたシャルロッテは、自らその岬から身を投げた。来世こそ婚約者と添い遂げますと言い残して。
そう、叶うなら、来世では。親友の計略に騙されて汚名を着せられた自分を、それでも彼女は信じてくれた。だがしかし、結局は己だけがのうのうと生きている。その己の罪がそれで償えるなら……。
それからほどなく、心労の果てに当時のエーデルバッハ伯も亡くなったと聞いている。本当に心労だろうか? 違うだろう、あの人も心身ともにタフな方だった。『聖別』のことを調べようとして、闇に葬られたと考えるのが妥当だ。連中はそれくらいやってのける。
本来ならウルリヒとやらも、ブリギッテも、殺しておくのが後腐れがない。ルーゲル達に対してそうしたように。
だが……義妹になるはずだった娘を、亡きシャルロッテに良く似た顔に育った女を手をかけるのは、躊躇われた。だから敢えて相方にトドメを刺さず、治療という退却の言い訳を用意してやった。
甘いと自分でも思うが、彼女を殺せてしまう自分であるなら、そもそも、こちらで生き延びようとも思わなかっただろう。だからきっと、これでいいのだ。
ジークのやつが来るならば、決着はその時につければよい。来ないなら、刺客がこようとただ撃退する、それだけだ。
柄にもなく感傷に浸っていたところで。
「くー……えへ……もうたべられない……」
麻袋から寝言が聞こえた。
誘拐されかかったというのに、側で血生臭い戦いがあったのに、これか……実に呑気な。
中身を確認するが、ちょっとすり傷はついているものの、問題なさそうだ。
ガウス・フェンの娘、ミオ。当年とって5歳の商家のご令嬢だが……。
「……若旦那、この娘、きっと大物になりますよ」
苦笑しながら、今の仲間や家族と共に生き延びるためにアッシェは戻る。過去の全ては西に置いてきた。
もはや双璧で無くとも、黒き獅子は死なず。ただこの蒼天の下に生きるのみ。
・
・
・
「隊長! こっちです」
「おう」
部下に先導され、熊のような巨漢が不機嫌そうに、どすどすと移動していた。
帝都防衛隊の百卒長、『鎧熊』ポンジュ・リィウ・ガルフストラ……リェンファの父親だ。今は目の下には隈がうき、只でさえ怖い強面の怖さが倍増している。
帝都における犯罪・警備は、重犯罪対応や拠点警備を帝都防衛隊、軽犯罪対応や巡回警備を帝都警邏隊が分担して対応している。
歴史的経緯から、防衛隊は畿内方面軍、警邏隊は刑部省の管轄下と指令系統が違うので、単純な格の上下はない。建前上は。
一般には防衛隊のほうが格上と見なされているが、組織として強盗や殺人などの荒事向けであり、日々の細かい揉め事対応には向かないとも見られている。
……というかポンジュも含め、防衛隊の面子は犯罪者側と区別つかない強面揃い、言動も荒い者ばかりなので、庶民からするとできれば関わりたくない人々だ。
そして警邏隊は防衛隊のことを脳筋隊、防衛隊は警邏隊のことを貧裸隊と裏で呼び合っている程度には仲が悪い。
それでも、どちらも帝都の治安維持には欠かせない戦力だ。今、帝都は幻妖どもの襲撃で大混乱、防衛隊も警邏隊も寝食の余裕のない事態が続いている。
それなのに幻妖に関係なく問題を増やそうとする奴らの多いこと! 殴って鎮静化するならさっさと殴って回りたい。
今向かっている所では複数の死人が出たようだ、どうも石花幇の連中が死んでいる、と。
跡目争いの内部抗争するならもっと時期を選べ、ただでさえ忙しい時にやるなボケ! ついでに死に方もちっとは選べ! こっちに迷惑かからんようにしろ!
とりあえず人が死んでいる以上、最低限の現場検証はやるが、それだけだ。元々黒社会の連中の命は酷く安い。協力者ならまだしも、構成員になるなら下っ端でも犯罪の十や二十はやっている札付きだし、殺されるのも自業自得。そして下手に死の背景を探ろうとすると藪から蛇やら百足やら、大変だ。
そも、忙しい今は詳しい捜査をやる余裕自体ない。有耶無耶にはなるだろうが、それでも記録に残して警邏隊とも情報共有しておけば、いずれ犯人が見つかった時に余罪やなんやらが分かりやすくなる。
「死人はこちら、たぶん5人です」
「たぶんって何だ」
「1人は首から上しかありません」
「普通逆だろ。他の部分は?」
「おそらくですが、そこの道に咲いてる『花』がそうです」
「………なるほど」
並べられた死体を一瞥する。……首を折られたらしき2人はまあいい、彼にも同じことはできる。1人は服がなくなっているが……物乞いにでも剥ぎ取られたか?
問題は他の3人。
一人は矢で首を射られたと思しき傷跡。矢は抜かれてしまっているようだが、一撃で急所を抜いているのが分かる。
次の一人は首を踏み潰されている……が、これはおそらく偽装だ。生きたまま潰された出血ではない。おそらく死因は首への何か別の攻撃、その情報を隠すために、死後に踏み潰されたのだろう。
この二人を殺ったのはかなりの手練れと見ていい。しかも得物や手口を知られるのを嫌っている。
そしてこの人相は手配されている凶手の一人『石蠍』のティン……隠形と毒の取り扱いを得意とする男、だったか。恨みなど山ほど買っていそうな男ではある。
こいつらだけなら、内部抗争か、別の組の凶手に殺られたと見るべきだが。
最後の一人、首だけの男は……。
「……こいつ、ルーゲルか。親不孝者め」
『黒虎』ヴェンゲルからは、不肖の息子が凶手になり果てたと聞いていた。ろくな死に方はすまいと思っていたが。
酷い悪臭に顔をしかめる。この死に様はさすがにとんでもない。体が破片しかなく骨ごと粉々、赤い花となって地面に散乱している。強いていえば、原型を留めているのは左手の手首だったと思しきものだけ、それも手袋ごと潰れている。
そんな状態でなんで首だけは残っているのか? それも、刃のある武器で切られたのではなく、まるで怪力で引きちぎられたかのような断面だ。
こんなのは見た事がない。崖から飛び降り自殺したやつでももっと形が残るだろう。どんな化け物に襲われたのか?
「少なくとも全員例の薬をやってそうです。犬が匂いに反応してます」
恐怖を感じなくさせ、集中力を高め、気分を高揚させるという、最近黒社会の末端で流行っている薬だ。荒事前に飲むと仕事が捗る、らしい。だが所詮は麻薬の類だ。依存症もあり、やり過ぎると廃人になる。
麻薬は以前から問題ではあった。色々な種類があり、興奮しての凶暴化やら恐怖、自制心の低下やらは犯罪の元だし、逆に無気力化しての仕事放棄もある。酒と違って匂いも人間に分かるほどでないから性質が悪い。
一応、魔術治療で薬や酒の依存症を治すのは不可能ではない。しかし治療前より無感情や鬱気質になりやすいとされていて、それはそれで問題だ。さらに魔術衰退以後はそんな不完全な治療でさえ、かかる金の桁が変わった。庶民には到底払えない。
そのため帝国では麻薬は原則として資格管理制となっている。最近までは黒社会でもごく少量しか流通していなかった。麻薬の類は両刃の剣であることを、黒社会の上役連中も分かっていたのだ。
だが、ここ半年ほど様相が変わり、どこからか薬が大量にばらまかれ始めた。
売り手を捕まえると石花幇の下っ端である事が多いこと、広まり始めたのが同組の前頭目が病の床に伏した時期と一致しているので、おそらくは組の幹部の一人が勝手にやっていると思われる。
後先考えず手っ取り早く資金を集めて、組の実権を握るためだろう。なかなかの外道の仕業だ。誰なのかの目星はついているが、捕まえるには至っていない。
だいたい、黒社会上層部への捜査は難しい。上のお偉方が及び腰になって事が進まない。金や女や家族の命、どれかで弱みを掴まれているのか、それとも単なる事なかれ主義か。下っ端はともかく、幹部級だとがそいつがよほどヘマをしないと捕まえるのは無理だ。くそが。
……とにかく、こうした麻薬は資格無しに作ったり売ったりは重罪、飲んでいるだけでも軽犯罪になる。
まあそのせいで、この手の薬を死体の口に詰め込んで、「薬飲んだ犯罪者から襲われたので殺した、これすなわち正当防衛!」と主張する奴もたまにいるが……この場合は普通に本人らが飲んでいたのだろう。
「目撃者は?」
「直接のはいません。ただ……その向こうの物乞いが言うには、大きな物音のあと恐る恐る顔をだしたら、別々の方向に立ち去る人影が2つ、どちらもなんか、でかい荷物を担いでいた、と」
「訳が分からん」
担いで? ……人影? 人間か? 二人?
人間にこんな殺しができるのか? 不可能とは言わないが、魔導師が二桁はいないと無理だろう。
地面や近くの民家に刻まれた破壊痕も酷い、まるで儀式魔術が何度も炸裂したかのようだ。だが魔術師団の連中ならもっとお上品にやるはずだし、防衛隊にも一言あるだろう。
また、普段なら魔術師団の術が帝都には張り巡らされていて、第四段階より上の高位魔術の発動は探知できるようになっている。
しかし今は非常事態で魔術師団も人員を割けないらしく、探知範囲は重要施設近傍のみに縮小されていた。こんな裏通りで何かあっても探知できまい……まさか、その監視縮小の情報まで漏れていたとは思いたくないが……。
……これは深入りしてはいけない、と心の奥の警戒心がささやく。通り一遍記録したあとは、幻妖か何かに襲われた可能性あり、ということにしたほうが良さそうだ。
「まったくとんでもない時期にあたっちまったものだぜ」
まだまだ、己も知らない危険が帝都にはあるらしい。危険……娘は、リェンファは無事だろうか。最近会えていない。まだ学生なのに仙力持ちの部隊に配属されてしまい、前線に行ったまま帰ってこない。
あのカノンの所の小僧が近くにいるのだろうか? あの野郎、うちの娘の気持ち分かっていやがるのだろうか? むしゃくしゃする、決めた、次にあったらあいつ一発殴る。このイライラを抑えるにはそれしかない。
死体の片付けを指示しながらポンジュは嘆息した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
アッシェの武術や『裏技』、『影糸』の扱いは、本人は軽く言ってますが……客観的には、ちょっと待てそのりくつはおかしい、そんなの魔術や仙力や波紋の呼吸無しに人間にできるわけない、みたいなレベルの超絶技巧です。まあロイの父だしね、仕方ないね。
ウルリヒも弱くはないです、普通に現時点のロイ以外の仙霊機兵なら瞬殺できますし、本気のラーグリフでも生き残る事はできてもウルリヒを倒すには至りません。歩く戦術級兵器です……まあ、相手が悪かったとしか。
降魔化したアッシェは、降神猟兵からすると様々な意味でメタ的に不利な相手です。ウルリヒがラ◯ダーキックをまともに食らったのも、二人が動けなくなったのも、彼らの中に宿る存在がその事を感じ取り『恐怖』したためです。
アッシェの【灰燼】は現世の魔力が強い相手ほどよく効きますので、その意味でもウルリヒらは不利です。代わりにアッシェには覚醒しても降神猟兵たちほどの大規模破壊能力はありません。彼は「崩仙」シァオファンとは別の形の異能殺しなのです。
ロイに異界の魔力が宿っているのはこの父親からの遺伝です。アッシェがこうなのは、『聖別』の儀式で身体に召喚され同化した異界存在の影響ですね。
オストラントの施術者たちや、アッシェ本人は自身を「失敗作」だと思っていますが、正確には、「召喚した存在に体が有り得ないほど適合し過ぎ、それを精神がやはり有り得ないほど完璧に制御してしまった」結果になります。
だから魔力の全てが異界のものに変わってしまい、魔力ゼロ? 身体能力向上もない? ゴミめ……と失敗と判断されてしまいました。
この異界魔力は、ルミナスがそうなのですが、ある程度以内だとむしろ反発によりこの世界の魔力を増幅する方向に働きます。降神猟兵の魔力増大はそれによるものです。
例えるなら金属に微量元素を添加する事で元の金属より遥かに強靭な合金を得る、みたいな話です。そのため、添加物が元の存在と完全に差し変わる、なんてのは、施術者たちにとって想定の埒外のこと、魔法工学的に発生するはずのない事態だったため気がつかなかったという次第。
この魔力増幅は、ロイのように異界側のほうが多すぎると、増幅されるのは異界側になり、現世側は弱いままです。ロイはこの状態です。
さらにアッシェの場合全部が異界側なので、体内に現世魔力が働く余地がありません。そのため彼には外部からの現世の直接型魔術が殆ど効きません。怪我の治療もできないのが問題点です。
むしろ、アッシェに対しては通常魔力の直接放出が有効です。これは軽い毒物的に機能します。ロイがやっている事の逆です。
アッシェ本人が降魔化や自身の能力、特性を把握したのは脱走後だいぶ時間が過ぎてからになります。当然、オストラント側は知りません。当時の施術者たちは彼が脱走するまでにそれを見つけだすことはできませんでした。
アッシェが降魔化のために血を流さねばならないのは、適合し過ぎ、安定し過ぎているからです。敢えてある程度流血した不完全な状態にしないと心身に同化した存在の防衛本能が起動しないのです。
そしてこの結果アッシェは、ダメージを受けない限り必殺技ゲージがたまらない状態になっています。ゲージがたまりきるまでは人間の範疇で、たまりきると身体能力が跳ね上がったスーパーモードになり、さらに短時間の「降魔化」も可能になります。
逆に『成功例』たちの中のモノは常時不安定な飢餓状態や発狂状態にあり、それが精神異常として表れています。代わりに必殺技ゲージは普段から勝手にある程度溜まっていて、任意に使える状態です。
……アッシェは主人公になり損ねた男です。ロイの物語においてはただの背景設定でしかありません。救世の少年としての話に一段落つけば、いずれこの続きが語られる事もあるかもしれませんが……。
あともう少し別の幕間があります。第九章は、いましばらくお待ちください。できるだけ早く書けるといいなあ……。




