第107話 終わらせるもの
本話までが第六章本編です
蠢き膨張し押し寄せる津波のようなそれは、『森』であった。
「陛下、これは何なのですか……植物の魔物?」
『違う。アレはそんな生易しいものではない』
屍の巨蟲たちが疾走する、飛翔する、停止する、その痕や骸から草が生え、花が咲き、木が芽吹き、瞬く間に根をはって天を突く巨木となり……有り得ない勢いで鬱蒼とした密林となっていく。
この森こそ、一にして全、全にして一。
言葉なく、心もなく、されど意志を持ち、ただ全てを飲み込み己に塗り替えるもの。
『『星を蝕むもの』……よもや人が産み出しうるとはな』
個の群れでもあり、
群れを押し流す波でもあり、
世界を侵食していく森のような幻象。
それは国を滅ぼし星すらも蝕むと唄われ、もはや竜人の中ですら使い手もいないはずの古の大禁呪。
何故禁呪とされたか。
あの森は、真に『生きている』
生きているゆえに、森自身が仙力すら使う。
例えばあらゆるものを飲み干す【暴食】や、時を加速する【勤勉】に連なるような力を。
生命創造という域に手をかける神業であり……一度顕現したならば、あれは周辺の生命や栄養分を喰らい尽くして大森林と為すまで止まらず、樹海を形作ってからはあれ自体が自身を維持する。
大陸北方には広大な、「還らずの森」と呼ばれる、無数の魔物が住み着くために人間が寄りつかない地域がある。それは数百万年前の太古のこの大魔術の果て。
かつてそこにあった竜人たちの帝国を飲み込んだもの。当時の八大竜王が一、緑の王、樹皇竜が下した神罰の名残だ。
仮に百万の軍勢があったとしても、その兵が人間や竜人、竜や鬼などであるなら、この森にとっては餌に過ぎない。この森の増殖を止められる者がいるとすれば、それは神域かそこに手をかけた者以外に有り得ない。
『懐かしいものを。そして……これは今の余では止めきれん』
【壊伝】と『星蝕森』は相性が最悪に近い。これも一応は魔術であるからには無効化できないわけではないが、この森は「個」であり「群」であり「場」でもある。
これを止めるにはどれかだけでなく、全てに対して力を行使する必要がある。しかも第八段階の術は、要素一つだけに対しても、普通の魔術より霊的抵抗力が遙かに高い。
さらにこの相手は【壊伝】の性質を知っているようで、霊的なダミーや防壁まで多数配置されていた。あるいはそのような力を持つ王器の作用か。
いずれにしても、これでは空間を無差別に対象にして運動量を解放したところで、効果は限定的なものにとどまる。アレを滅ぼすには足りない。
『余の力と状態を知っていると見える』
これらを【壊伝】で上書きするのは、今の彼では不可能だ。
万全であっても難しいうえに、今はかなり消耗している。先ほどの少女の放った「聖槍」、少年の放った【天罰】、そして正体不明の槍による身体崩壊。
いずれも表面上では何でもないかのように受け止め跳ね返し再生して見せたが、実のところそのために相応の犠牲を払っていた。
気がつくと、異形の森は既に目前にまで迫ってきていた。
『このままでは、冥穴がこれに囲まれるか。下手な精霊や幻妖では養分にしかならんな』
拡張を続けている間は、この森は立ち入った全てを飲み込んでしまう。当分の間恐るべき防壁となるだろう、幻妖の使命である魂刈りにも支障が出る。
「いかがいたしますか」
『ふむ。さても、この魔術衰えたる地で、この大呪をよくも扱えたものよ……よかろう。その技に敬意を表そう』
止められぬなら、壊すしかあるまい。
──かつてここは龍が統べ竜人達が生きる地であった。
だが、最後の神たる龍の兄妹は、地上の民と言葉を交わすこともなく、姿を見せることもなかった。一般の竜人にとってはただ伝承にのみ残るような雲の上の存在。
そんな夢のような存在よりも。そこに存り、威を示し、実際に加護を与える者がいれば、そちらこそ崇拝すべき神であろう。
それこそが八大竜王と呼ばれた八柱の真竜の王。龍より世界の管理を任された亜神たち。
人族との戦いで竜王たちの多くは倒れ、あるいは眠りについた。だが南方大陸に押し込められた竜人たちは、今も信じている。
母なる大地の龍脈ある限り。遥かな円環の果てに、いずれ彼らの神々は再臨し、人族を滅し、彼らを救うであろう、と。
そしてここに一柱の神が龍脈より再臨した。彼こそは八大竜王が一、黒の王アガートランゼウス。
数多の二つ名も持つ王だ。曰わく『闇黒竜』『陽光を隠す者』『心断ち切る闇』『空を墜とす者』『久遠の静謐』 ……即ち畏怖をもって語られ、死の裁きを司る神格。
半端な攻撃などあの森にとっては養分になる。伊達に禁呪と呼ばれてはいない。少なくとも第七段階以下の魔術にあれを滅ぼせるものは存在しない。
かつての人間たちが使った熱核兵器のようなものでさえ、あれを焼き尽くすのは無理だ。致傷半径が数十kmあろうと、単なる物理現象、単なる放射線と爆発では、霊威すら持つあの森相手ではせいぜい表面を焦がすだけ。むしろ爆発エネルギーの大半は喰らわれ、より強靭な森として再生しかねない。
真竜や精霊ですら、殆どのものは森に囚われ喰われて果てるだろう、先ほどの闇の精霊たちのように。精霊王達ですら、滅びには至らずとも脱出はできないかもしれない。
ならば。あの森がまだ幼いうちに。
物的、霊的に同時に。
ただ一撃をもって、全てを滅ぼさねばならぬ。
邪神は『不滅』をはじめとする防御に力を割くのを止め、精神を集中させる。
そして化身──竜人としての姿の上の空に、巨大な影が顕れた。空を覆い、太陽を隠すと唄われる、竜王たる彼本来の姿。影の竜は口を開き……。
こぉぉぉ……
竜種、そして竜人の持つ最大の固有魔術、竜の吐息 彼のそれは、『終焉の吐息』 第八段階の魔術と同格の神なる技。
それは死の誘い。
それは闇の抱擁。
それは時の嘆き。
それは舌を凍らせるもの。
それは心を切り離すもの。
それは生を吸い尽くすもの。
すなわちそれは『終わらせるもの』
それは、打撃に加え、即死の呪詛、昏睡、急速老化、術式封印、感覚剥奪、魔力吸収、霊力吸収の追加効果や状態異常を与え、相手を徹底的に無力化し命を刈り取る死神の力だ。
太陽が消え、空が星も見えない夜となり、影の竜の口元に影よりなお昏く虚ろな何かが顕れ、それが暗き空に向かって打ち出され……。
『墜ちよ』
空が凍りつき。
ここに杞人が憂いた恐怖が具現化する。
歪んだ生命を押し潰さんと、闇塊となった空が墜落した。
「……!……!!!!……」
降り注ぐ夜闇に、森なる生命の渦が抗う。しかし、いかに異形異常の禁呪の仔とはいえ、産まれたばかりのそれは、神の裁きに抗うには幼すぎた。
星を覆う神罰の代行者とも呼ばれる幻象とはいえ、この吐息は神罰そのものだ。それを凌駕するには、精霊機動師団一つを喰らっただけでは足りなかった。やがて森は端から徐々に闇に溶けていき……。
そうしてしばらくのち。音もなく、響きもなく、姿もなく。不帰の樹海は闇に溶けて消え果てた。
「……お見事でございます」
闇がはれたあと。森であったところ、人間たちの陣地があったところ、それらは恐ろしいほど滑らかな更地となっていた。草地であったところも、まるで磨かれた石床のよう。
見渡すかぎりの地表が全て闇に呑まれ、削り取られ、消え失せたのだ。
「いやはや、御身のお力がこれほどとは……。あの時の我らはまことに物知らずでございました」
『あの時の余は残り滓に過ぎぬ状態でな。この吐息も使えなかった……さて』
森を作った術師たちらしき姿も無かった。闇に呑まれたのではない、その感触は無かった。
『……退いたか。それに』
先程まで彼と相対していた少年や、倒れもがいていたはずの他の人間達の姿もない。森でなく、闇が墜ちなかったところからも人間は消えていた。
『見事。余だけでなく闇の瞳すら欺いてやりおおせたか』
残っているモノもある。例えばレクラークが殺した導師のように、かの森が出来る前にこちら側で既に亡くなっていた死体はそのまま放置された。生きた者だけを回収したらしい。
木を隠すなら森というが、よもや森を出現させて、それに紛れて回収するとは。
……恐らくは、「渡り」……特定環境における短距離瞬間移動の力。それも「影渡り」だろう。人間か、その力もつ魔物か、そこまでは分からないが。
「終焉の吐息」を使えば、その瞬間世界から光は消える。星明かりすらもない闇は、影渡りにとって最高の環境だ。二次元でなく三次元空間全てが「影」となれば、わざわざ地面の影に「荷物を引き込む」必要もない。そうなれば影渡りは人体程度なら瞬く間に運搬できる。
つまりは、敵の術師はわざと彼に吐息を使わせた。
先ほどの魔の森を作るほどの禁呪を、ただ撤退の為に使ったということ。
『なんとも思い切りがよい』
あの術はそう簡単に使える類のものではない。術者にも相応の反動がいく。それを使ってでも、あの少年少女らが必要と考えたか。
あれはおそらくかの戦士たちの末裔か。遥か西の果てに今も住んでいるというが。
『だが、こちらも思ったよりも堪えた、まだ完全ではなかったとはいえ……』
今の吐息の負荷により、この化身はもう限界に近くなっていた。作り直すにはそれなりに時間がかかろう。結果的に、思った以上に猶予を与えることになってしまいそうだが……。
それもまた一興か。
『余はしばし休む。お前達はどうする』
「……我にはしばらくこの体に慣れる時間が必要かと。あの若者とも再戦したく存じます」
「私は早速魂を刈り始めるといたします。そのための再臨なれば」
「私は……あの娘が……いや、分かりません」
「拙は……」
『ふむ。よい、どうせお前たちも使命からは逃れられぬ。それを忘れぬならば好きにせよ』
「はっ……」
そして。その時、十数人ほどの人間の一団が、邪神の前にどこからか進み出た。
「我が主様、只今戻りました」
『首尾は?』
「上々にございます。かの者達が持っていた機密は全てここに」
そういう彼らの顔を、もしマゼーパやフーシェンが見れば、事態の深刻さを理解しただろう。
例えば彼らの中には、かつてナイドゥ上百卒長、カバースカル百卒長、アスカーリ上十卒長などと呼ばれた者たちがいた。
即ち幻妖に殺された、帝国軍の将兵である。
七英傑に比べれば元々の能力は低く、再現度も低い。感情なども抜け落ちているが、それでもある程度知性をもって蘇ったものたち。
彼らは生きた帝国軍人のふりをして、皆が襲撃に気を取られているうちに陣地に忍び込み……煌星騎士団や魔導大隊の機密や備品、武装、魔導具を収集していたのだった。ロイが今日の見回り中に会った者も、それらの仲間である。
儀式魔術は些細な邪魔で無効化できてしまう。その対策として様々な防御や魔術的偽装が施されるが、それがどのような物か分かっていれば、妨害はたやすい。
これにより現時点での魔導大隊の大規模魔術は幻妖陣営にとって脅威でなくなった。偽装方式を切り替えるのも簡単ではない。さらに今回の襲撃で死んだ魔導師の中に幻妖化するものも現れるかもしれない。そうなればもう手がつけられない。
幻魔王の出現によって、幻妖という勢力は、ただのバラバラの魔物や強者の群れでなく、知恵を持つ組織としての側面を持つようになっていた。そんな相手への機密漏洩は軍としては致命的だ。
だがこの事を、帝国側はまだ誰も知らない。
『ご苦労だった。次は西の陣地のほうだが、いけるか?』
「向こうは生前の我らとは所属が違いまして……」
『ふむ。……まだしばらくは向こうの前線も押し戻しておくほうがよいか。よかろう、後ろの連中を使うがいい。西に派遣した『奴』と合流し、陣地を徹底的に破壊せよと伝えよ』
指示を飛ばしつつ、邪神はひとりごちる。
『いずれこの使命持つ身となるは分かっておったが……ただの殺戮でなくて済みそうだ。楽しみなことよ』
嗤いながら、冥穴に戻るため、影移動の術式を起動しつつ彼は呟く。
『……だが、強いていえば』
彼の力はあらゆる言葉を壊すもの。伝える力ではない。ましてもはやこの世にいない者に、心伝えることは叶わない。
『……側にそなたがおらぬのが残念だ……我が妻』
これにて第六章本編終了。
ここからしばらく幕間です。
なかなか筆が進みませんが、
何とか最後まで終わらせたいと思っています
気長におつきあいくだされば幸いです
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