五十六話
オケアノスの呈示した悪魔の契約に、僕は身動きが取れないでいた。分かっている。迷ってる時間などない。時間が過ぎれば過ぎる程に状況は悪化し選択の余地は無くなっていく。
だがシェイランの協力なしにこの地平線を埋め尽くすスライム達の群れを何とかする方法も見当たらない。
しかしここでオケアノスの思惑通りにマザースライムと契約を交わせば僕は魔王への第一歩を踏みしめる事になる。しかも、自らの意思で。
こうして悩み熟考する事こそがまさにオケアノスの掌の上で踊らされている事に他ならないのに、それから逃れる術を持たない。
歯痒さに身悶えていると、突如大きな振動と音が外から聞こえてきた。
「何だ……?」
「おやおや、貴方が迷ってる間にウラヌスに先を越されそうだ」
呑気な口調で言うオケアノスに説明を求める視線を送ると、彼は素直に話し出した。
「私と対になるもう一人の存在であるウラヌスが選定した『勇者』を引き連れてやって来たようです。早く助けに行かないとお仲間達が皆殺されてしまいますよ」
「何だと……!?」
正直な所オケアノスの言う事の半分も理解出来なかったのだが、仲間達が危険な目に合うという事だけは分かったので僕は迷うことなくマザースライムの外へ飛び出した。
そこに広がっていた光景はオケアノスの魔王候補宣言よりも余程僕に強い衝撃を与えた。
嵐と吹雪でめちゃめちゃに荒らされた砂漠。僕が気付くまでに相当な時間が経過していたのだろう。撒き散らされたスライム達の死骸や爆発によって起きたクレーター等、激しい戦闘がここで繰り広げられた事は想像に難くない。
相当な戦闘音が鳴り響いていた筈だが、マザースライムの体内では殆ど音が遮断されていた為に気付く事が判明出来なかったのだろう。
かつての仲間達、旧臥龍鳳雛のパーティーメンバー達がこの場に勢揃いしていた。
勢揃いと言っても既にライザとシルヴィは息絶えている。ノエルは全身を酷く刻まれながらも光魔法で身体を治癒し続けている真っ最中だった。隣には風の勇者であるプリメインさんもいる。彼女と協力して抵抗したから二人はまだ生存していられたのだろう。
そして……圧倒的な悪意と凶悪な魔力を撒き散らす人物が一人。
かつての旧臥龍鳳雛のパーティーリーダーであり、氷の勇者でもあるマグナス・レインその人だった。マグナスは(ライザやシルヴィを斬って付いたと思われる)返り血で全身を真っ赤に染めており、血が滴り落ちる両手にはそれぞれ武器を握っている。
一つは僕も知っている神器コキュートス。
そしてもう一つは見た事の無い禍々しいオーラを放つ紅い刀身をした魔剣だった。
あまりの衝撃に先程まで散々悩まされていた悪魔の選択の事など頭から綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
一体何があったのか、この男に問いたださなければならない。
「久しぶりだな……テイル」
「マグナス……何故仲間を斬った」
「ふ……力を手に入れる為だ。落ちぶれに落ちぶれた今の身分を返上し再び頂点に帰り咲くには、結果を残す為の圧倒的な力が必要不可欠だからな」
大体予想していた通りの答えが帰ってきたが、次にノエルが発した言葉は僕を驚かせるには十分過ぎるものだった。
「ライザとシルヴィは……私を庇って……」
「……何だって?」
にわかには信じ難い話だ。あの二人が……旧臥龍鳳雛時代の苦い思い出が蘇りあまりいい気分にはなれなかった。
「愚かな奴らだ。今更良心に目覚めて何になるというのだ。最後に救おうとしたからといって今まで散々虐げてきた罪が消えるとでも? 笑わせてくれる」
「散々虐げてきた……?」
どういう事だ。ノエルは僕が抜けた後仲間達から冷遇されてきたのか。
「何故だ。ノエルの力は僕とは違ってパーティーには必要不可欠なものだっただろう!」
「お前のせいだ」
「何……?」
「パーティーの雑用係でお荷物でいくら乱暴に扱っても壊れない体のいいサンドバックが無くなったからだよ。あいつらのやりたい放題には元々手を焼いていたんだ。ノエルは居なくなったお前の役割の代わりをさせられたのさ」
僕のせいだと、ぬけぬけと奴は言い放った。
僕のせいだと?
散々人を弄んで見下して傷付けて、必要無くなったらパーティーから追放して。
しかと、あの口ぶりだと奴は最初からライザとシルヴィの憂さ晴らし役をさせる為に僕を……!
ギリリ、と奥歯を噛み締める。あまりの力に血が滲んでくる。僕が怒り始めているのに気付いたのか、マグナスは更に挑発してきた。
「どうした? 許せないのか? なら復讐すればいい。昔と違って今のお前にはそれを成し遂げられるだけの力があるのだから」
ダメだ。挑発に乗るな。今感情に任せて力を奮ってしまえば。
戻れなくなる。そういう実感が確かにある。ギリギリの綱渡りの上で辛うじて今の僕は人間の枠に留まっているんだ。
僕が動こうとしないのに業を煮やしたのかマグナスは更なる行動に移った。
既に事切れているライザとシルヴィの遺体を弄ぶように二つの剣を突き立てたのだ。
「………!!」
「我慢してお前が得してきた事などあったか? いい子ちゃんを演じてどうなった? 惨めに打ち捨てられただけだっただろうが。
この世に正義など存在しないんだよ。あるのは食うか食われるか、弱肉強食の残酷なルールだけだ」
分かっていてもダメだった。もう我慢の限界だった。マグナス達とパーティーを組んでから追放され今に至るまで、心の奥底に封じ込めて押し留めてきた怒りが、溢れ出しそうだった。
ぶるぶる震え始める僕を嘲笑しながらマグナスは遂には直接僕に手を出そうとしてきた。
「つまらん奴だなお前は。虚構の正義を抱いていい子ちゃんぶりながら死んでいけ」
そうして隙だらけの僕に振るわれたマグナスの斬撃は、掠りもする事無く地面に突き刺さった。
「……何?」
僕はライザとシルヴィの遺体をマグナスの元から取り返すと、地面にそっと横たわらせた。
「覚悟しろマグナス。僕に残った最後の良心は……今使い果たした」
瞬間、爆ぜる。
人智を超えた力が。強存強栄のスキルがもたらす凄まじい力が。全てを蹂躙する魔王の力の始まりが。
「──────────────!!!!!!」
世界から、音が消える。
視界から、奴の姿が消える。
渾身の力を込めた一撃。たったそれだけの動作でマグナスの身体は地平線の遥か彼方へすっ飛んでいく。スライム達の海が割れた。
全力で地面を蹴りつける。何十メートルもの高さまで身体が跳躍する。地面に這いつくばったままピクリとも動かないマグナスの身体を標的に、全体重と重力の加速をたっぷりと乗せた一撃を撃ち込む。
バキバキバキ、と背骨が折れる感触が両足に響き渡る。そこから四股を踏む要領で更なる一撃を乗せる。
海の次は大地が割れた。地響きと共に割れた大地に飲み込まれていこうとする身体を掴み右手で宙吊りにすると、今度はサンドバックに見立てて残った左手で拳を叩き込む。
ジャブジャブ、ストレート、フック、アッパー。壊れた人形のように関節をあらゆる方向に曲げながら揺さぶられるマグナスの身体。
最早生きているのかどうかも分からない。そんな事は関係ない。奴の身体が原型を留めなくなって塵と化すまで蹂躙する。
喜びは無かった。
ただ精神が奈落の果てに沈んでいく感覚があった。
冷たい暗闇に心が飲みこまれていく。全ての感覚が、精神が麻痺していく。
このまま闇に堕ちて、魔王と化し、世界を滅ぼすのだろうか。
誰にも僕の苦しみを理解出来ない。
誰にも僕の怒りを止められない。
僕は独りだ。
冷たい。寒い。
極寒の暗闇が暖かい灯火で照らされたのはそんな時だった。
誰かが背中越しに触れる感触。
「独りは辛いでありますよね」
レンカの声だった。振り向く事は出来なかった。どんな顔をして、彼女を見ればいいのか分からなかった。
「貴方の苦しみは、貴方だけのもの。他の誰にも共有する事は出来ないでありましょう」
だけど、と彼女は言葉を紡いでいく。
「それでも私は、貴方と共にいたい。共に悩み、共に苦しみ、一緒に歩んでいきたい」
暖かい感触が、暖かい言葉が、凍えた身体を溶かしていく。
ずっと独りだった。
仲間を求め他者との交わりを望みながら、ずっと心の奥底に本当の自分を押し込めてきた。
だけど、今。
確かに手が差し伸べられたのだ。
だけど、僕は。
その手を握るのが怖くて。
「どうして……僕が怖くないの? どうして君は、僕にここまでしてくれるの?」
そうだ。思い返してみれば。
パーティーから追放され、傷付いた心を抱えてさ迷っていた僕に声を掛けてくれたのは彼女だった。
彼女がいなければ僕の再出発は有り得なかった。彼女がいなければ今の臥龍鳳雛は成り立たなかった。
彼女が僕を救ってくれた。そして今も──
「怖くありません。だって勇者ですから」
一つ目の問いに対する答えが告げられる。いつものあります口調ではなく、真剣な、本当の彼女の言葉だ。
そして、二つ目の問いに対する答えも告げられた。
「貴方の事が好きだから──愛しているから」
優しく肩に乗せられた手から体温と震えが伝わってくる。僕は、身体ごとゆっくりと振り返る。
顔を真っ赤に染めながら、けれど毅然と立つ彼女に僕はゆっくりと顔を近づけていく。
生まれて初めてのキスだった。
\( 'ω')/エンダァァァァァァァァァァァァァ




