ふわふわ0 プロローグ
「癒しが欲しい……」
買い物袋を左手に下げて歩きながら、私――愛川美優――は独りごちた。
すぐ隣を、明らかに法定速度を違反したスピードで車が駆け抜けていく。片側二車線ある大きな道なのに、歩道を歩いているのは私一人だけだ。左手に見える建物のほとんどは、もう明かりが消えていた。
四月も半ばに差し掛かったとはいえ、まだまだ夜は寒い。吹きすさぶ夜風に体を縮めながら、私は上着のポケットからスマホを取り出した。
「もう一時だよ……」
今日がまだ火曜日だという事実に絶望する。いや、スマホの表示はすでに水曜日になっていた。
日付が変わった頃に慌てて勤め先を出て、終電に駆け込んで……最寄り駅についてからコンビニでおにぎりを買った。
住んでいるアパートに着くまで、あと十五分くらいは歩かなければならない。ベッドに入るのは、三時頃になりそうだ。
「今日はお風呂で寝ないようにしなきゃ。あの時は、死ぬかと思った……」
つい先日の臨死体験を思い出し、私はげっそりとする。こんなはずじゃなかったのに……そう思わずにはいられない。
大学を卒業して、就職も決まって、私は三月の終わりに東京に来た。生まれて初めての一人暮らしだ。新生活にワクワクしながら、生活用品はばっちり揃えた。
部屋はキレイに可愛らしくしておこうと思ったし、ご飯もしっかり自分で作って、洗濯も頑張ろうと思っていた。仲のいい友達ができたら、部屋に呼んでお泊りとか、そういうことにも憧れていた。
でも、私を待っていたのは、想像と大きくかけ離れた毎日だった。
四月から仕事が始まって以来、私は日付が変わる前に家に帰ることができていない。子どもの頃から憧れていた、看護師という仕事……きついとは聞いていたけど、ここまでとは思ってなかった。
人が足りなさ過ぎて、新人の私にもどんどん仕事が回ってくる。教えてくれる人も誰もいなくて、失敗すれば当然叱責を受ける。失敗した分の仕事をやり直している間に、どんどん次の仕事が溜まっていって……。
「もう帰りたいよぉ~……ココア~……」
ツン、と鼻の奥に痛みを感じながら、私は小さく情けない声を漏らす。
ココアは実家で飼っている愛猫だ。マンチカンという種類の猫で、足がとても短いのが特徴。毛色がクリームがかった茶色だったから、その色に合わせてココアという名前をつけた。
一人暮らしを決めたとき、ココアと別れるのが一番寂しかった。十歳のときの誕生日にココアがうちに来てから、十二年一緒に暮らしてきた。私が借りたアパートがペットOKだったら、絶対に連れてきていたのに。
「ナァーオ」
「え? ココア!?」
すぐそばから聞こえた鳴き声に、私は鋭く振り返る。
すると、植え込みの影から、黒猫がじーっと私を見つめていた。
なんだ……そうだよね、ココアがここにいるわけないか。
私は落胆しつつも、何だか心が温かくなって、ふとコンビニの袋からおにぎりを取り出した。
「食べる?」
おにぎりの包装を破き、手を伸ばして差し出してみる。しかし、当然といえば当然だが、黒猫は動かなかった。
まあ、野良だから仕方ないよね。けどそれくらいのことは、私だってわかっている。
私はおにぎりを少しちぎると、優しくぽいっと、黒猫の方へ投げた。
すると、黒猫は一瞬びくっとしたものの、すぐにちぎったおにぎりに近づき、ガツガツと食べ始める。
あぁ……こ、これは癒される……。思わず表情がほころぶのを感じながら、私は次々におにぎりをちぎっては投げ与えた。
「お腹空いてたんだね。いっぱい食べてね」
このおにぎりは明日(今日)の朝食だったけど……もはやどうでもいい。
私はいつまでも、おにぎりを食べるニャンコを見ていたい。だから……ありったけ(のおにぎり)を……。
おにぎり一つ分を全部、黒猫に与え終わったとき、私はふと気づいた。黒猫がかなり、私のそばまでやってきている。
買い物袋にはまだおにぎりが一つ残っている。これは……うまくすれば、触れるんじゃ?
「まだまだあるからね!」
慌てて、おにぎりの包装を破る。心身ともに疲れきっていた私は、猫のもふもふした手触りを求めていた。
触りたい。抱きしめたい。あの柔らかそうな体に顔を突っ込んで思いっきり息を吸い込みたい。
野良猫だし、衛生上良くない気もしたが、もう私にはそんな見境はなかった。周りが暗く、猫の毛色も黒なので汚れもわからない。
ココアを抱きしめていたときの感触を思い出しながら、私ははやる気持ちを抑えつつ、おにぎりを与え続ける。
もう少し……あとちょっと……あとちょっとであのふわふわがこの手に……はぁはぁはぁはぁはぁ……。
「――っ!!」
私が手をワキワキさせていると、不意に黒猫は顔をあげて、ぴょんと私の前からジャンプして逃げた。
ああっ! あと少しだったのに!
――心の中で嘆くのと同時に、黒猫の体が強烈な光でパァッと照らされた。
その瞬間に、私は何が起きたのか理解した。ジャンプして飛び退いた黒猫は車道側に飛び出し、そこに向かって走り込んできたトラックのライトが、黒猫を照らしたのだ。
「ダメっ!!」
気づけば、腰を浮かしていた。空っぽの買い物袋が宙を舞う。私は光の中に飛び込んで、しっかりと両手に、黒猫を抱きしめた。
あぁ……柔らかい……。
キキィー! ガシャーン!!
どうしようもなく強烈な衝撃が私の体を襲った。同時に、私の意識は奪われていく。
でも、私は幸せだった。腕の中に抱きしめた感触を最後まで感じながら、私は願う。
――どうか神様。次、私が生まれ変わることがあったなら。圧倒的なふわふわに包み込まれた人生を送らせてください……。
『了解したよ』
最後に、そんな声が頭に響いて、愛川美優の人生は終わった。