愛し方を知らない私たち
私と夫は、よくある政略結婚だった。
私と夫の間には義務しかない。
私の両親の間にも愛はない。
貴族にはよくあることだ。
父も母も跡継ぎとスペアの次男、更に予備の私を作った後は、愛人達と自由に過ごしている。
それを子供に隠すこともない。
必要最低限の仕事や社交はするが、私達には見向きもしない。
私達の世話は使用人に任せっきりで、愛情を注ぐことも教育することもない。
そんな環境で育った私達兄弟は皆、冷め切っていた。
私達家族の関係は、血が繋がっているだけの他人だ。
使用人達も、その領分を超えて私達に接することはない。
それが当たり前だと思って育った私に、愛というものが何かなんて分かるはずがなかった。
私が十歳になると、二歳上の婚約者が出来た。
婚約者も私達兄弟と似たような冷めた目をしていた。
彼の両親も私達の両親と同じなのだと察した。
いや、実際には彼の環境は私達よりも酷かった。
家には彼の他に愛人の子供が五人もいるらしい。
正妻である母親は、跡取りの息子を放って、愛人と別荘にいるという。
父親は、愛人とその子達ばかりを可愛がり、彼には後継者教育と言ってきつく当たっていた。
私は将来そんなところへ嫁に行かなければならないのかと、絶望した。
この時の私は自分のことばかりで、今現在苦しんでいる彼に、寄り添うことが考えられなかった。
だから、罰が当たったのかもしれない。
私が十六歳、彼が十八歳の時に私達は結婚した。
幸いというか、何と言うか、私達の結婚を機に、父親は彼に家督を譲り、彼の両親は離婚した。
そして、彼の父親と愛人、その子達は領地にある別邸へと移って行った為、王都にある屋敷や領館は彼のものとなった。
彼の両親と顔を合わせる必要がないことを良かったと思ってしまう私はきっと、非情な人間なのであろう。
それから数年後、私が跡取りとスペアの男児を生んだ後、彼は当然のように愛人を作り、離れに住まわせた。
そして、その愛人に私は殺されたのだ。
−−−−そう、そのはずだった。
目が覚めると、ベッドの上だった。
「生き、てる?」
私は布団を捲り上げ、刺されたはずの腹部を触る。
痛みも何も無く、腹部を触った手には血も付いていない。
私は起き上がって、辺りを見渡した。
「……どうして?」
ここは、結婚する前にいた私の部屋……。
何が起きているの?
何が何だか分からずに、ベッドから出て机や棚、小物入れなどを探る。
そして、鏡に映った自分の顔に驚愕する。
「嘘……。なんで?」
随分若い。
「えっ!? どういうこと?」
まさか、若返った?
「ありえない!」
きっと夢だわ。
そうよ、寝たら覚めるわ。
ベッドへ戻ろう。
再び目を覚ましても、私は若いままだった。
周囲を観察した結果、十四歳であることが分かった。
「お嬢様。今日の午後、アルバート様がいらっしゃいます」
「そう。分かったわ」
アルバート様とは、婚約してから、交流を図る為に、月に二度、各家で一度ずつでお茶をすることになっている。
どうやら今日は、我が家でお茶をする日だったらしい。
「お嬢様。アルバート様がいらっしゃいました」
「ありがとう。今、行くわ」
使用人に返事をして、自室を出る。
応接室に着くと、扉をノックして、中に入った。
「お待たせいたしました」
「いや」
ああ! 十六歳のアルバート様だ。
また会えるなんて!
彼の姿を見て、今までの自分からは考えられないような、不思議な感情が心の中に湧いた。
その場で私は、立ち尽くす。
「グレース! どうした? 何故泣いている?」
「えっ?」
彼に指摘されるまで、私は自分が泣いていることに気付かなかった。
私の目からは、涙が零れ落ちていた。
私は、涙を拭いた手を見て驚く。
「どうして? 私、泣けたのね……」
私の呟きに、彼は目を見開き固まった。
使用人も驚いたようであったが、直に無表情に戻り、淡淡と私にハンカチを差し出して来た。
「ごめんなさい。見苦しいものをお見せしてしまって」
ハンカチで涙を拭った私は、薄く笑んで彼に謝罪した。
彼は、私の顔を見たまま、何度か瞬く。
私の顔を見たまま、何も発しない彼を不思議に思い、頭を傾げた。
「どうされたのですか?」
「いや。君も泣いたり笑ったりするんだと思ったら、もっと顔を見たいと思って……」
「えっ!?」
「ああ。いや、変なことを言った。気にしないでくれ」
彼はそう言って、赤くなった顔を手で覆った。
私の顔も熱くなっていたから、きっと真っ赤になっていただろう。
その後、彼と何を話したかよく覚えていないが、いつの間にか時間が来て、彼が帰り、私は自室に居た。
何だか彼と随分打ち解けて、気安くおしゃべりしていたような気がする。
相変わらず、頭と身体はポワポワと夢心地のような不思議な感覚がしていた。
「私、どうしてしまったのかしら? それとも、やっぱりこれは、いつもよりも少し長い夢なのかしら?」
翌朝、目が覚めてもやはり十四歳のままだった。
「お嬢様。アルバート様から、お手紙とお花が届いております」
「えっ?」
どうしたのかしら?
今まで、彼と会った次の日に手紙や贈り物が届くことは一度も無かった。
花は、真っ赤な薔薇が一本。
不思議に思いながら手紙を読むと、観劇の誘いであった。
どういうこと?
こんなこと、前は無かったわ。
私は、初めての誘いに嬉しさよりも困惑の方が大きかった。
とはいえ、その日に特に用事もなかった為、誘いに応じることにした。
当日、迎えに来た彼は、私に花を差し出した。
「グレース。今日は、誘いを受けてくれてありがとう。今日の装いもとても似合っていて綺麗だよ」
いつもとは違って、微笑む彼に、私は戸惑いが増すばかりであった。
「ありがとう」と言って、受け取った花は、二本の真っ赤な薔薇。
今度は二本?
何か意味があるのかしら?
彼の顔を見ても微笑むばかりで、聞いてみようかと迷ったが、後で調べることにして、使用人に花を渡した。
彼にエスコートされ、馬車に乗り込む。
隣に座った彼の近さに、胸はドキドキと鳴り出した。
本当に私、どうしたのかしら?
結婚して触れ合ってからも、こんなにドキドキしたことなんて無かったのに……。
観劇が終わった帰り道、馬車の中で彼は私に三本の赤い薔薇を差し出した。
「グレース。今更かもしれないけれど、俺は君を愛している。俺には君だけだ。両親のように愛人を作ったりしない。だから、俺の唯一の愛しい女人として、これからの人生を共に歩んで欲しい」
「アルバート様……」
「あっと、求婚する時は百八本だった」
「えっ?」
「ああ、いや。もう一度、ちゃんと求婚するから、気にしないで」
「ふふ、ありがとう」
何だか締まらない彼の告白に、思わず笑みが溢れた。
彼は恥ずかしそうに頬を染めていた。
そんな彼をなんだか可愛く思った。
「私、愛とかよく分からないけれど、貴方といると胸が温かくなるの。それが嬉しくて……。ごめんなさい。上手く言えないわ」
「いや」
「私、ずっと貴方と一緒に居ても良いのかしら?」
「ああ。もちろんさ」
彼は花ごと私を抱き締めた。
きっと、薔薇の花は潰れてしまっただろうけれど、私の心には色取り取りの花が咲き乱れた。
それからも彼は、会うたびに五本、六本と赤い薔薇の花束を私に差し出す。
「ええと、今日は十一本だったわね」
私は自室で、本を開いた。
「十一本は、『最愛』って。やだ、もう……」
勢い良く本を閉じた私は、クッションに顔を押し当てた。
数日後、十二本の薔薇を持って訪れた彼の顔には憂いが色濃く感じられた。
「どうしたの? 今日はいつも以上に、疲れているみたいだけれど……」
「はぁ。情けない。君に心配をかけてしまうなんて……」
「何を言っているの? 私達は夫婦になるんだから、隠し事はしないで!」
「ああ。うん。……あの両親を見て育っているのだから、多くを望んではいけないよな」
彼はそう言って、微妙な顔をした。
「えっ?」
「いや、気にしないでくれ」
「そう言われても、気になるわ」
「さっきから微妙に話がズレている」
「えっ、そう?」
「いや、良いんだ。そんな君も好きだから」
「やだ、何言っているの」
頬に熱が集まる。
「はぁ、可愛いな。癒される」
そう言った彼に、私は抱き締められた。
「もう……」
何だか誤摩化された気がしたが、彼が望むなら知らない振りをしようと思った。
だが、その翌日、兄からもたらされた情報に驚き、私は彼の家へと急いだ。
前の時には、このようなことは起こらなかったのに、どうして?
彼の家に着いた私は、今まで通されたことの無い彼の執務室へ案内され、珍しいことに入り口の扉まで閉められた。
婚約者とは言え、密室に二人きりにするのは外聞が悪いと、少しだけ戸を開けておくのが普通だ。
困惑しながらも、頭を抱えて俯いていた彼に声を掛けた。
「アルバート様?」
「グレース……。来てくれたのか……」
彼は、迷子のように縋るような目で私を見た。
「兄から聞いたわ。貴方と貴方の弟で後継者争いが起こっているって……。本当なの?」
「ああ。普通なら、正妻の子である俺が継承するのが当然だ。だが、今頃になって父の愛人が父を唆した。これには母も激怒して、母の実家までしゃしゃり出て来た。もう滅茶苦茶だよ」
「アルバート様……」
「俺は別にこの家を継ぎたいと思っているわけじゃない。でも、それだときっと君との婚約も無くなってしまうだろう。それだけは、絶対に嫌だ!」
彼は固く握り締めた拳で机を叩いた。
彼の言葉に、私は胸が一杯になった。
そんな私に突然、何かが囁いた。
「逃げてしまえ」と。
私は彼の拳を自らの手で包み、笑みを浮かべる。
「ねぇ、逃げてしまいましょうよ。二人で」
「えっ?」
普段の私からは考えられないような言葉に、彼は驚愕した。
そんな彼を説得しようと、私の口は勝手に言葉を発する。
「別に逃げても良いじゃない。平民でも良いじゃない。自由に生きても良いじゃない。何で今まで、あんな人達の言いなりなんかになっていたのかしら。馬鹿みたい。そう思わない?」
「フッ。フハハハハ……。そうだ。君の言う通りだ! 二人で逃げてしまおう」
「どこに行く?」
「サウスワーム領はどうだ? 伯爵はとても出来た領主様だって評判だし、ここからも離れているから、そう簡単に見つからないと思うよ」
「良いわね! あそこは一年中温かいし、食料の心配も、仕事の心配もしなくて良さそう」
「それじゃあ、決りだな」
闇夜の中、私達は馬に乗り、駆け落ちした。
馬は途中で売り、乗合馬車を乗り継いでサウスワーム領まで移動する。
数日かかって辿り着いたサウスワーム領は、予想通り、とても住みやすい場所だった。
彼はある商会の経理の仕事に就き、私は小さなお菓子屋さんで働いた。
生活するだけで一杯一杯な毎日だったけれど、私の十六歳の誕生日に、彼は百八本の薔薇とともに、約束通りもう一度求婚してくれた。
盛大な結婚式を挙げることは叶わなかったけれど、彼と二人だけで、小さな神殿で婚姻の誓約を立て、正式に夫婦となった。
翌年には彼との間に子供も生まれ、小さな家で家族と寄り添うだけで、心が満たされ温かかった。
彼は、その後も記念日になると真っ赤な薔薇を贈ってくれる。
本数は、その時々でまちまちだけれど、その心遣いが何よりも嬉しい。
ああ、私は、本当はこんな生活を望んでいたのか……。
そうか、心の奥底では愛を、愛されること愛することを望んでいたのね。
どうして、今まで気付けなかったのかしら?
*
気持ち良く寝ていた私は、誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。
「グレース! 良かった! 聖女様のおかげだ」
アルバート、様?
ここは、王都にある屋敷の寝室?
今までのは、全部夢だったの?
「ん? 聖女、様?」
「ああ。偶々近くの神殿で祈りを捧げていらして、治癒師を呼びに行ったマシューの言を聞いて、駆けつけて下さったのだ」
「そうだったのですか……」
道理で助かったわけだ。
急所は外れていたが、かなりの出血をしたはず。
普通ならば助からなかっただろう……。
死んでも良いと思っていたけれど、これは、もう一度やり直せという神様のお導きなのか……。
もしや、あの夢? と言って良いのかしら?
分からないけれど、あれは聖女様のお力によるものだったのかもしれない……。
それに、マシューは夢の中で、執務室の扉を閉めて、アルバート様と二人きりにしてくれた使用人だわ。
今回、彼のおかげで、命が助かった。
彼は、あの時もきっと私達の味方だったのね……。
「夢を見たの。とても幸せな夢を……」
「どんな?」
「貴方と二人で逃げて、平民になるの。そして、慎ましい暮らしだけれど、子供も生まれて幸せに暮らすのよ」
「そうか……。そうすることも出来たのだな……」
「ええ。そうね。そんな未来もあったかもしれないわね……」
でもきっと、責任感の強い貴方は、夢の中の貴方のように貴族の義務を放棄してまで、愛に生きることはしないと思うけれど……。
それは、とても尊敬出来ることではあるけれど、少し寂しくもある。
とても自分勝手な感情、自己嫌悪で吐き気がする。
「すまない。君にどれだけ謝っても許されないことだとは思う。だが、謝らせてくれ。本当にすまない」
彼は泣きそうな顔で、真摯に謝罪した。
「いいえ。悪いのは貴方だけではないわ。私も悪かったのよ。貴方に向き合おうとしなかったのだから……」
彼は愛を求めた小さな子供だったのだ。
そして、私も。
今からでも間に合うのだろうか?
「あいつは取り敢えず牢に入れた。私としては、毒杯を仰がせるつもりでいるが、何か希望はあるか?」
「いいえ。特に希望はありません。貴方はそれでよろしいのですか? 愛しているのでしょう?」
「良いんだ。あいつにも悪いことをしたとは思うが、君を殺そうとしたんだ。当然の報いだと思う。それに、私はあいつのことを愛していたわけじゃない。ただ、寂しかっただけなんだ……」
「ごめんなさい。貴方にもっと早く向き合うべきだった」
「君の所為じゃない」
「私達、もう一度夫婦として、やり直せるかしら?」
「君が許してくれるのならば、私はそうしたい。子供達にも俺達のような寂しい思いをさせたくない」
「ええ。そうね」
親に愛されることが無かった彼にも、ちゃんと子供への愛情があったのだと思うと、何だか無性に泣きたくなった。
私は両親とは違い、愛人というものに全く興味がなかった。
だから、社交などの伯爵夫人としての義務以外で余った時間を、我が子と過ごすことに費やしていた。
どうやらそれが、彼には羨ましかったらしい。
そして、私に愛されているように見えていた息子達に嫉妬していたという。
それを聞いて、呆れとともに、むず痒くなった。
ああ、私はちゃんと息子を愛せていたのかと、私の行為は親として正しかったのかと、心の底から安堵した。
そう、彼も私も雛鳥のようにただ口を開けて愛を求めて与えられるのを待ってばかりで、自ら与えようとはしなかった。
愛されたことがない私たちは、愛し方が分からなかっただけなのだ。
私たちは不器用で、愛の求め方も間違えだらけだった。
彼の愛人だった女は、地位やお金があり見目が良い彼に愛されている自分自身を愛していた。
彼はそれにも気付けずに、自分が愛されていると思い込みその愛を求めて彼女を側に置いたのだ。
それと、そうすれば私が嫉妬してくれるかもしれないと淡い期待を抱いたらしい。
その期待は裏切られ、私は無関心のまま。
彼は虚しさが募っただけだった。
そして、愛人の嘘にまみれた愛に辟易し、次第に彼女にも構わなくなっていった。
構われなくなった愛人は、捨てられるかもしれないと焦った。
私が居なくなれば、以前のように自分を見てくれると思い込み、凶行に及んだ。
ある意味、彼女も私達の被害者だ。
それでも、彼は領主として彼女を罰さないわけにはいかない。
私達は、二度と同じ過ちを犯してはいけない。
これからは、私は彼や息子達、そしてこの地に暮らす人々を精一杯、愛して生きていこう。
きっとそれが、私の命を救って下さった聖女様への恩返しにもなると思うから……。
先ずは、彼へ五本の薔薇を贈ってみようか。
お読み下さり、ありがとうございます。