第四話 六月、そして
浴槽の窓からは蒸し暑い初夏の空気が流れ込んでいた。湯気に満たされた風呂場で、僕は肩までお湯に浸かっていた。どうもうたた寝をしていたらしい。僕は目を開き、頭を振った。
疲れているのだろうか、小針で突かれるような頭痛を感じる。手でお湯をすくい何度かかけると、ようやく眠気が溶けていった。
嫌な夢だった。天井裏にいた何かが、僕の部屋の物置に落ちてくるという、薄気味悪い悪夢だった。脱衣所で聞こえた音や、扉を開けようとしたときの手の感覚が妙に生々しくて、何とも言えない居心地の悪さがあった。
お湯の中から手を出し、広げてみる。長いあいだ風呂の中にいたのか、指はふやけてシワができている。
「……あがるか」
重い腰をあげて湯船から立ち上がろうとしたが、何となく風呂場に違和感を覚えた。いつも使っている場所なのに、何かが足りていない気がした。
あたりを見回してようやく違和感の正体に気づいた。この風呂場には道具が一切無かった。普段は隅に置いていたボディソープやシャンプーに、いつも使っている風呂桶や、風呂のフタ。置いてあるはずのものが何故か無くなっていた。
僕がこれらを移動した記憶は無い。そもそもそんなことをする理由が無い。
風呂に入っていたはずなのに、だんだんと体の芯が冷えていくような感覚を覚える。何か、僕の予想もつかない不吉なことが起こっているような、そんな予感を拭うことができない。
脱衣所の方に目を向ける。風呂場と違い、何故か明かりはついておらず、ガラス戸の向こうは先の見えない暗闇になっている。その闇の中に何か、得体の知れないものがいるような気がしてならなかった。
心臓の鼓動が頭の中に響く。何かを警告するように、激しく音をたてる。その一方でさっきから体が震え、冷や汗が止まらない。
落ち着かなければならない。そう自分に言い聞かせた。何をするにしても、落ち着いて行動しなければならない。そうでなければ、きっと大変なことになる。
ゆっくりと僕は湯船の中に座り直し、脱衣所を見つめた。左胸を右手で押さえ、静かにガラス戸の先の闇を注視する。そして左手を湯船のふちに置いたとき、再び違和感を感じた。何となくバスタブの様子が違っている気がした。何ヶ月も風呂を利用していると、どうしても浴槽の壁面やふちにシミや汚れ
出てくる。念入りに洗ったとしても、どうしても完全にこれらを取り除くことは難しい。ところがこの浴槽にはそのようなものはなく、新品のように綺麗であった。
僕は目を見開いた。ここに至ってようやく僕はきづいた。ここが僕の部屋、203号室では無いということに。
背後から水の流れる音が聞こえた。
確かめる間もなく、僕は後ろへ、湯の中へと引き倒された。鼻や口から湯が流れ込み、目には淀んだ水面がうつる。
「かは!?」
首筋に何か、縄のようなものが巻きついている。さっきまではそんな物なんて無かったはずなのに!
巻きついている物の正体だとか、それが一体どこから来たか、ということを考える余裕は無かった。首筋のそれは僕の体を浴槽の底へと押し付ける。たった数十センチ先の水面が果てしなく遠い。僕は首筋のそれを引き剥がそうと、両手で掴もうとした。しかし手は滑り、思うようにつかめない。縄のようだと思ったが、むしろウナギのようにヌルヌルとしている。
肺が苦しい。口から大量に空気の泡が漏れているのが見える。息を吸おうにも首筋の物に押さえつけられ、水面に顔を上げられない。
この縄のような物を何とかしなければ死んでしまう。僕はそれを引っ張ることをやめ、尾てい骨の辺りから下側より手を入れる。そして首筋からずらすため上へと押し上げる。少しずつではあるが、ソレが上の方へ、アゴの方へと動かせている。さらに手を回しこみ、アゴから口の方へと押し上げる。唇に生暖かく、妙に柔らかいものが触れた。僕はソレに思いっきり噛み付いた。太いゴムホースのような、嫌に弾力のある感触とともに、生ゴミを固めたような味が染み込んでくる。吐き気をもよおしながらも、力が緩んだのを感じた僕は、ソレを思いっきり頭の上まで押し上げて、拘束から逃げ出す。そして風呂場の淵から顔を出し、口の中に詰まった悪臭と水を吐き出す。胃の中や肺の中にまで押し込まれた水を、咳き込みながら吐き出し、浴槽の外に転がりだすと白いタイルの上で、更に咳き込んだ。
頭の中には痛みと耳鳴りがこだましていて、胸は焼け付くように痛い。ようやく吸い込むことができた息は、口に残った悪臭により、吐いて捨てたいほどに不味かった。実際、咳き込んだ後に排水溝に向かって吐いた。
ようやく落ち着いたころには、風呂場は胃液と縄のような物の腐臭でひどい臭いになっていた。たまらないので窓を開けようとして立ち上がったが、僕は信じられないものを見た。風呂場に溜まったおゆが無くなっていたのだ。風呂場の栓は外れたまま、浴槽の底に転がっていた。
僕が外した記憶は無いし、アレに遭遇するまでは栓はしてあった。もしかしたらアレを外そうともがいている時に、手が当たって外れてしまったのだろうか。襲われていたときは無我夢中だったため、そうでないとは言い切れない。しかし本当にそうだろうか?
もしかするとアレが栓を外したのではないのか?
アレに襲われる直前、僕は水が流れる音を聞いた。あの音は実は栓が抜ける音ではなかったのか? 排水管より忍び寄ったアレが、下から栓を押し上げて、僕に襲いかかったのではないか?
僕は思わず口を歪める。馬鹿馬鹿しい、そんなこと不可能だと一笑したい。けれど僕の歯はガタガタと震える。栓を伝ってくるなど考えられないが、僕に否定することはできなかった。
「……逃げよう」
もう何も考えたくなかった。一刻も早く、この場所から僕は離れたかった。吐いた胃液が手にかかって臭うが、無視して立ち上がる。洗う時間すら惜しかった。
ガラス戸を開け、明かりのない脱衣所を音をたてずに足を入れる。用心をしているということもあるが、明かりが無くて暗いため、素早く動くことはできなかった。背後の風呂場からの光を頼りに、壁伝いを手探りで歩きつつ、部屋の様子を伺う。暗いせいでよく見えないものの、やはり僕の部屋とは様子が違っていた。203号室では脱衣所には足拭きをしいていたが、どうやらこの部屋には存在しない。また部屋の脇の方に服入れのカゴを用意していたが、足でそのあたりの場所を探ってみてもカゴらしきものは 見当たらなかった。探ってみた限りでは、どうもこの洗面所には、余計なものが無さそうだった。それどころか人が住んでいたらどうしても残る、床の細かな傷や部屋の匂いといった、生活感のようなものも感じられなかった。
壁際を探っていた手が、電灯のスイッチに触れる。押したほうが良いかどうか、少しの間だけ迷ったが、押さずに先を進む。この部屋には僕を引き入れた誰かに、逃げ出そうとしていることを悟られたくなかった。
手探りで台所への扉にたどり着き、ゆっくりと開ける。できるだけ音を出さないつもりではあったが、扉の回転部分が錆び付いているのか、擦り切れた金属音が部屋に響いた。息を押し殺して扉を開けきり、真っ暗な台所に入る。そして抜き足差し足で玄関へと向かう。下着一つ着ていないが、気にするほどの余裕は無かった。
暗闇に慣れてきたせいか、周りの様子がなんとなく分かってきた。部屋には机はなく、フローリングが広がっているようだ。机どころか、冷蔵庫や電子レンジなどの家電も無さそうで、部屋に物という物が存在しない。僕にはこの部屋が、空き部屋のようにしか思えなかった。
奇妙に思いつつも足を進めようとしたが、踏み出すことはできなかった。目の前にいるものに気づき、僕は凍りついた。
何か言おうとして口を開くが、いきなり辺りが光に包まれ目をつむる。
ゆっくりと目を開けると、目の前にいた人が壁際の電灯スイッチに触れていた。その人が台所の電気を点けたらしい。僕は思わず呟いた。
「お婆さん……」
玄関口の辺りに、201号室のお婆さんが立っていた。僕が裸にも関わらず、お婆さんはいつもと変わらない微笑みを顔に貼り付けていた。しかし普段見慣れた表情なのに、僕以外何もない部屋という異常な状況が、お婆さんの姿に異様な陰をさしていた。
「なんで、お婆さんがここにいるんですか?」
口から出る言葉が、僕のものとは思えないほどかすれていた。吐いた時の痛みと緊張のせいで、喉の奥がひりひりと焼ける。
立ち尽くした僕に、お婆さんが一歩近づいてきた。
「あなたが部屋で倒れてたので、運んであげたの」
お婆さんは暗い部屋には不釣り合いの、白いブラウスを着ていた。そのせいか肌の白いお婆さんが、まるで骸骨のように見えた。生唾を飲んでお婆さんに向かい合う。
「ここは、202号室ですか?」
お婆さんは笑ったまま、さらに一歩ふみだした 。
「疲れているんでしょう。ゆっくりとお風呂に浸かりなさい」
お風呂と聞いて先ほど僕の喉に巻きついてきたアレが脳裡によぎった。まさかお婆さんがアレで僕を……。
僕が返事をする前にさらに一歩、こちらへと歩き出した。笑顔を向けたままで。
「ひっ!」
上ずった声が喉から漏れ、僕は洋室の方へと後ずさる。玄関はお婆さんの後ろにあるが、お婆さんをすり抜けて玄関に向かうような勇気は無かった。反射的に僕は後ろを向き、洋室へと駆け出す。洋室も台所と同じく電気はついておらず、窓にはカーテンがしてあるので外は見えない。しかし暗いながらも台所から差し込む明かりがあるので、動き回るのにそれほど苦労はしない。
とにかく離れなければ。
玄関の方へはお婆さんがいるから無理。とすると、窓から逃げるか?
「そんなに怖い顔をして、どうしたの?」
台所を歩くお婆さんが、少しずつ僕の方へと近づいてくる。迷っている時間は無かった。窓の外の様子が分からないだとか、裸だとかいったことは、気にしていられなかった。
僕は壁際まで走りカーテンを握った。
水の音が聞こえた。
上から何か滴り落ちるような音が聞こえた。咄嗟に上を見ると天井の暗がりの中で、確かにシミのようなものがあった。一箇所に箇所ではない。天井中にまばらにシミはあった。本能的に僕は悟った。僕を襲いかかったものが天井にいる。それも、すごく大きなモノが。
震える歯を噛み締め、僕はカーテンを開くため力を込めた。カーテンの先には、窓の向こうには、外の景色が広がっているはずだ。僕はそこへと逃げ出すんだ。この202号室でない、外の世界へ。
カーテンを引っ張る。
そのとき、水の音が聞こえた。僕の目の前から。
カーテンの向こうには血のように赤い縄のようなものがあった。それらは窓の外に、縦横無尽にはられていた。それは生き物らしく、表面に欠陥のような細い筋が浮き出ており、一定の間隔で脈打っている。表面は濡れているらしく、体液のような赤みを帯びた液体が、窓ガラスの所々についている。
それは一見すると唯の縄のようではあるが、何故か僕はソレに見られているように感じた。窓の外から、じっと。
「ああ……窓に……窓に……」
外を見つめた僕は足がすくんでしまい、立つこともできず地べたにしゃがみこんだ。その途端床下より何か動くものの気配を感じた。
そして視線を感じた。そう、床下から視線を感じたのだ。そこだけじゃない。窓の外から、天井から。四方の壁からでさえも感じる。何者かが僕をじっとみている。
足音を感じた。振り返ると、お婆さんが笑顔を浮かべ、洋室に入ってきた。僕は動くこともできずに。
お婆さんは口を開いて何かを言った。僕に分かる言葉ではなかった。それでもお婆さんが声を放ったとき、僕の心臓を凍るような悪寒を感じた。どこの国の言葉かは分からないけど、それが冒涜的でおぞましい何かだと、何故かはっきりと分かった。
窓ガラスのが軋み、ヒビが入る音がした。天井からは何かがたたきつけられるような音が聞こえ、今にもその薄い板壁を破って何者かが落ちてきそうであった。
このあとどうなるのか、僕は全くわからない。ただ僕は、きっと生きてこの部屋を出ることはないだろう。
僕は叫びを押し殺し、目を閉じた。
ああ、また水の音が聞こえた。