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第三話 六月

 浴槽の窓からは蒸し暑い初夏の空気が流れ込んでいた。湯気に満たされた風呂場で、僕は肩までお湯に浸かっていた。6月の生暖かい空気は、湿気を帯びて淀んでいる。ましてや昼間からの雨が、日の沈んだ今も途切れることなく降っているせいか、アパートの中はどこかカビ臭い匂いで包まれている。

 佐々木が天井裏を探ってからもうすぐ一月になる。天井裏の生き物や、隣の部屋のことは考えないようにしているが、それでもたまに天井で何かが動く音が聞こえ、その度に佐々木が訪ねてきた日のことを思い出してしまう。青白い佐々木の顔。天井裏から漂う生臭い空気。そして201号室のお婆さん。

 生ぬるいお湯をすくい、顔にあてる。そして深く息を吐いた。

 お婆さんとはあの日からも何度か顔を合わせたことがある。けれどあの日のことを聞くことは、僕にはできなかった。いつも浮かべている微笑みが、何かを隠した上辺だけのもののように思えて気味が悪く、会う度にそそくさと逃げていた。そしてお婆さんに背を向ける度に、僕を見つめる視線を感じるのだ。笑顔を浮かべたまま、こちらに顔を向けるお婆さんの視線を。

 そこまで考えて僕は、湯の中に思い切り顔を浸かり、そして顔を上げた。

「考えすぎだよ、僕」

 6月の生暖かく、けだるい空気のせいか、今みたいに一人になるとどうしてもくだらないことを考えてしまう。

 気のせいだと思い、考えないほうが良い。

 僕は湯船からあがり、湿って滑りやすくなったタイルを踏みしめ、脱衣所に入った。そしてすぐ脇においていたカゴからタオルを取り体を拭こうと、手を伸ばしたときだった。

 水の音が聞こえた。

 一瞬手が止まったものの、僕は気にせずタオルを手にとった。アパートに住み込んでから二ヶ月たち、この天井を伝う雫のような音も、すでに慣れてしまっていた。君は悪いが、だからといってできることはない。僕は髪や体にバスタオルをあて、汗や水滴を拭き取る。

 再び水の音が聞こえた。そして何かが落ちる音も。

「……え?」

 僕は体を拭くその姿勢のまま、動くことができなかった。

 音は正面から聞こえてきた。僕の左手にはキッチンに通じる扉があり、前にはトイレへの扉がある。音はトイレの方からしてきた。

 僕は生唾を飲み込みつつ、前に歩き出す。左手はバスタオルを持って下半身を隠し、そして右手でトイレの電灯のスイッチを探り、つける。

 トイレの扉は曇りガラスが取り付けられているため、中に何があるかは分からない。けれど動くものは見えず、耳を済ましてもトイレより音は聞こえなかった。

 一度深呼吸をしたあと、意を決して扉を開けた。

 中には誰も居ない便器があるだけで、怪しいものは何もなかった。

 思わずため息がでる。どうも僕は過敏になっているらしい。天井のことを気にしすぎて、聞こえもしない音を聞いたつもりになっていたのかもしれない。

 自分に苦笑しつつ、トイレの扉を閉めようとした。


 トイレの向こう側から再び音が聞こえた。


 僕の手からバスタオルが落ちたことに、少しの間気が付かなかった。慌てて拾ったあと、トイレの壁を凝視する。白い壁の向こう、そこには位置的に物置があるはずだった。

 僕は生唾を飲み込む。物置には羽目板を外すことで天井と通じている。そしてこの前佐々木が実際に物置より天井を覗き込んでいた。そこで音がした。

 天井に何かが落ちてきた、そんな音だった。

 僕はバスタオルを腰にまいて脱衣所に戻り、キッチンへの扉を開ける。明かりは点けているものの、外は日が沈んでいるためか、部屋の隅やテーブルの角に薄暗く闇が染み出している。物音はないことがかえって不気味に思えた。中央の角テーブルに片手を置き、フローリングを一歩ずつ足を進める。キッチンの隣の洋室は一枚のガラス戸で仕切られており、物置は洋室の角にある。僕はガラス戸に耳を当てる。風呂上がりの火照った肌に、扉の寒々しい感覚が伝わる。洋室からも音は聞こえてこない。

 扉を開けようと取っ手に手を乗せるが、僕は開くことができなかった。頭の中に一ヶ月前の佐々木の姿がよぎった。たった数分天井奥を覗き込んだだけで、目に見えて顔色が悪くなったのは明らかに異常だった。ただ天井裏が誇りくさかったり、カビに覆われていただけでは、ああも極端な反応にはならない。もっとおぞましい何かが、このアパートには潜んでいる気がしてならなかった。

 それでももしかしたら、全部気のせいかもしれない、という思いもあった。佐々木が気分悪くなったのも、もともと風邪でもひいて体調が悪かったのかもしれない。天井の物音はただのネズミかもしれない。あるいは全て僕の勘違いかもしれない。このアパートには何もなく、僕が取り越し苦労をしているのかもだけかもしれない。そうであって欲しい。

 でも僕の心は、どうしようもない不安が渦巻いている。天井から聞こえる水の音は、とてもネズミや虫の音とは思えない。濡れた大きな何かが蠢いているような気がしてならない。そして佐々木が来た日のお婆さんの行動だ。あのときお婆さんは一体どこで、何をしていようとしたのか。

 先ほどまで冷え冷えとしていた取っ手の金属が、いつの間にか生暖かくなっているのに気づいた。気がつけば長い間、僕は立ち止まっていたらしい。

 生唾を飲み込む。意を決して僕は扉を開いた。

 洋室は天井の電灯が白く部屋を照らしていて、とくに変わった様子はない。カーテンの開かれた窓からは、明かりは入ってこない。どうも雲が出ているらしく、星も月も無いという暗い夜だった。

 見た目には、僕の部屋は何の変哲も無かった。ただ閉じられた物置の扉の先に、得体の知れない何かがいるような、そんな悪寒を感じていた。僕は音をたてないように、ゆっくりと扉に近づき、手をかけた。


 早鐘のように心臓がなる。思いっきり深呼吸をして、扉を持つ手に力を込めた。

 そこには……

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